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孫休(そん きゅう)

孫呉(そんご) · 皇帝

孫休(そん きゅう)

字 子烈

登場回
11
台詞の記録
19
人間関係
18
内面の独白
3

史書の記載(Historical Record)

孫休(そん きゅう)、字は子烈、孫権(そん けん)の第六子である。彼は十三歳のとき、中書郎の射慈、郎中の盛冲に従って学んだ。太元二年正月、孫休(そん きゅう)は琅邪(ろうや)王に封じられ、虎林を鎮守した。同年四月、孫権(そん けん)が死去し、その弟の孫亮(そん りょう)が継位した。執政の諸葛恪(しょかつかく)は諸王が滨江の軍事要地に駐屯することを望まず、そこで孫休(そん きゅう)を丹杨郡へ移した。丹杨太守の李衡はかつてしばしば孫休(そん きゅう)を侵し騒がせたため、孫休(そん きゅう)はそこで他郡への移転を上書して請い、最終的に詔によって会稽(かいけい)へ移された。

孫亮(そん りょう)が廃された後、孫綝は己未の年に宗正の孫楷(そん かい)と中書郎の董朝を遣わして孫休(そん きゅう)を迎えさせた。孫休(そん きゅう)は初めその知らせを聞いたとき疑念を抱いたが、孫楷(そん かい)、董朝が孫綝らの擁立の本意を詳細に述べると、孫休(そん きゅう)は一日二夜ためらった後にようやく出発した。十月戊寅、孫休(そん きゅう)が曲阿に至ると、一人の老人が叩頭して「事が長引けば変が生じます。天下は仰ぎ望んでおります。願わくは陛下、速やかに行かれますよう」と勧めた。孫休(そん きゅう)は彼を称え、その日のうちに布塞亭に到着した。武衛将軍の孫恩(そん おん)が百官を率い、乗輿法駕をもって永昌亭で迎え、便殿を建てた。己卯の日、孫休(そん きゅう)が到着したが、謙譲して直接御座に登ろうとせず、東厢に止まった。群臣の再三の勧請を受けて、孫休(そん きゅう)はようやく璽符を受け、その日のうちに正殿に御し、天下に大赦を行い、永安(えいあん)と改元した。

永安(えいあん)元年冬十月、孫休(そん きゅう)は孫綝らの擁立の功を褒め称える詔を下し、孫綝を丞相、荊州(けいしゅう)牧に封じ、食邑五県を増し、他の功臣に対しても封賞を行った。同時に、彼はかつて自分と確執のあった丹杨太守李衡を赦免し、威遠将軍に加封した。しかし、孫綝の一門は五侯となり、皆禁兵を典し、権勢は人主を凌ぎ、日に日に驕縦となった。孫休(そん きゅう)はこれを深く憂慮し、密かに張布(ちょうふ)と謀った。十二月戊辰の腊日、百僚が朝賀すると、孫休(そん きゅう)は武士に詔して孫綝を縛り、その日のうちに誅した。

孫休(そん きゅう)は在位期間、典籍に鋭意し、百家の言を遍く覧ようと欲し、特に雉を射ることを好んだ。彼はかつて詔して学官を設け、五経博士を置き、王道を教化しようとした。彼はまた農桑に関心を寄せ、「倉廪実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」と強調し、田業を広く開き、その賦税を軽くしようと試みた。永安(えいあん)三年、会稽(かいけい)郡で廃帝孫亮(そん りょう)が復位するとの謡言があり、孫亮(そん りょう)の宮人がその巫に祈祷祠を行わせ、悪言があったと告発した。有司が報告した後、孫亮(そん りょう)は候官侯に貶められ、封国へ送られ、途中で自殺した。永安(えいあん)五年八月、孫休(そん きゅう)は皇后朱氏を立て、子の孫𩅦を太子に立て、天下に大赦を行った。彼は自分の四人の息子のために独特の生僻な名前を作り、「易きを棄て避ける」ことを期した。同年冬十月、濮陽興(ぼくようこう)を丞相に任じ、丁密、孟宗(もう そう)を左右御史大夫とした。孫休(そん きゅう)は丞相濮陽興(ぼくようこう)と左将軍張布(ちょうふ)に旧恩が深く、重任を委ねた。張布(ちょうふ)は宮省を掌り、濮陽興(ぼくようこう)は軍国の大事を担った。

演義の記載(In the Novel)

『三国演義』において、孫休(そん きゅう)の登場は史実とおおむね一致するが、いくつかの伝奇的な細部が加えられている。例えば、孫休(そん きゅう)は虎林にいたとき夜に龍に乗って天に上る夢を見たが、振り返ると龍の尾が見えず、目覚めて驚異を感じた。翌日、孫楷(そん かい)、董朝がやって来て、彼を都に迎えるよう拝請した。これは孫休(そん きゅう)の即位に天命の帰するところという神秘感を加えている。演義でも曲阿の老人干休の諫言に言及し、「事が長引けば必ず変ずる。願わくは殿下、速やかに行かれますよう」と強調しており、これは史実と一致する。

演義は孫休(そん きゅう)の即位後の孫綝に対する忌憚と防範を重点的に描いている。小説では、孫休(そん きゅう)は「その内変を恐れ、陽に恩寵を示し、内では実にこれを防いだ」。これは史実における孫休(そん きゅう)が「その変あるを恐れ、しばしば賞賜を加えた」 という記載と呼応するが、演義は孫休(そん きゅう)の隠忍と策略をより強調している。孫綝を誅殺する筋立てでも、演義は史実とおおむね一致し、孫休(そん きゅう)が丁奉(ていほう)の計を採用し、腊会で伏兵を設けて孫綝を斬殺したと描いている。

蜀漢(しょくかん)が危急の際、演義は呉主孫休(そん きゅう)が諸葛瞻(しょかつせん)の救援の書を受け取った後、群臣と議し、「蜀中すでに危急なら、孤がどうして座視して救わずにおれようか」と考え、そこで丁奉(ていほう)を遣わして軍を率い蜀を援けさせたと描いている。これは盟友としての孫休(そん きゅう)の道義感を体現しているが、史実では呉の出兵はより戦略的考量によるものが多かった。蜀漢(しょくかん)滅亡後、演義では中書の華覈が孫休(そん きゅう)に進言し「呉・蜀は脣歯なり。『脣亡ぶれば歯寒し』。臣は司馬昭(しばしょう)の呉伐がまもなくと料ります。陛下、深く防禦を加えられますよう」と述べ、孫休(そん きゅう)はその言を採用して防務を配置し、これがさらに孫休(そん きゅう)の明智な君主の像を造形している。

小説の最後、孫休(そん きゅう)は司馬炎(しばえん)が魏を篡奪した後に呉を伐つことを憂慮して病重となり、臨終の際に丞相濮陽興(ぼくようこう)を宮に召し、太子孫𩅦を立てるよう指示した。しかし、左典軍の万彧(ばんいく)と左将軍の張布(ちょうふ)は乌程侯孫皓(そん こう)を立てるよう提案し、最終的に孫皓(そん こう)が君として迎え立てられた。この筋立ては史実における孫休(そん きゅう)が太子孫𩅦を立て、しかしその死後に濮陽興(ぼくようこう)らが孫皓(そん こう)を擁立したという記載とおおむね合致するが、演義は対話と人物の心理描写によって、この転機をより劇的なものにしている。

主要な関係

* 孫呉(そんご)(lord_of):孫休(そん きゅう)は孫権(そん けん)の第六子として、最終的に呉国の大統を継承し、呉景帝となった。彼は国家の統治に努め、文教を推進し、賦税を改革し、呉国に安定と繁栄をもたらそうと試みた,。
* 孫綝(enemy_of):孫綝は孫休(そん きゅう)を擁立した権臣であるが、その権勢が過大で、驕横跋扈し、最終的に孫休(そん きゅう)に謀られて誅殺された。演義でも孫休(そん きゅう)の孫綝に対する忌憚と、これを除いて後快とする決意を強調している。
* 孫亮(そん りょう)(kin_of):孫亮(そん りょう)は孫休(そん きゅう)の弟で、孫権(そん けん)の死後に継位したが、後に孫綝に廃された。孫休(そん きゅう)の即位後、孫亮(そん りょう)は謡言によって貶められ、最終的に自殺した(史書では孫休(そん きゅう)による鴆殺ともされる)。
* 孫皓(そん こう)(kin_of):孫皓(そん こう)は孫休(そん きゅう)の甥で、孫休(そん きゅう)の死後に濮陽興(ぼくようこう)、張布(ちょうふ)らに擁立されて帝となった。
* 張布(ちょうふ)(ally_of):張布(ちょうふ)は孫休(そん きゅう)の腹心で、孫休(そん きゅう)の即位前から深く信任され、即位後はさらに厚く寵遇され、孫休(そん きゅう)と共に孫綝の誅殺を謀った。
* 丁奉(ていほう)(ally_of):丁奉(ていほう)は孫休(そん きゅう)が孫綝を誅殺する重要な助力者で、彼は孫休(そん きゅう)に腊会で動くよう献策し、自ら孫綝の捕縛を執行した。演義では、丁奉(ていほう)はまた孫休(そん きゅう)の命を奉じて蜀漢(しょくかん)を援救した。
* 濮陽興(ぼくようこう)(ally_of):濮陽興(ぼくようこう)は孫休(そん きゅう)の在位後期に丞相に任じられ、張布(ちょうふ)と共に孫休(そん きゅう)を輔佐した。孫休(そん きゅう)の臨終の際、彼は宮中に召され、孫休(そん きゅう)の太子継位に関する遺命を受けた。
* 李衡(enemy_turned_ally):李衡はかつて丹杨太守で、孫休(そん きゅう)が琅邪(ろうや)王のときにしばしば彼を侵し騒がせた。孫休(そん きゅう)の即位後、李衡は一時憂懼したが、最終的に孫休(そん きゅう)に赦免され官爵を加えられた。

象徴的な場面

* 龍を夢みて命を受け、曲阿の老人が即位を勧める:孫休(そん きゅう)は虎林で夜に龍に乗って天に上る夢を見、その帝王の命を予示した。続いて建業(けんぎょう)へ向かう道中、曲阿の老人干休の即位を勧める言葉が、その即位の伝奇的な色彩と切迫感をさらに加えた。この場面は演義で詳細に描かれ、孫休(そん きゅう)の即位の正統性を強化している。
* 智をもって孫綝を除き、朝局を安定させる:孫休(そん きゅう)は即位後、権勢が朝野を傾ける孫綝に対して、表面上は恩寵を示しつつ、密かに張布(ちょうふ)、丁奉(ていほう)らと謀った。最終的に腊会で、孫休(そん きゅう)は果断に孫綝を縛り殺すよう命じ、権臣の排除に成功し、皇権を固めた,。これは孫休(そん きゅう)の政治生涯において最も決定的な一歩であり、その政治手腕と決断力を示した。
* 典籍に鋭意し、雉を射ることを好む:孫休(そん きゅう)は在位期間、典籍に深い興味を抱き、百家の言を遍く覧ようと望み、特に雉を射ることを好んだ。彼はしばしば早朝に外出し、夜になってようやく帰り、その間だけ書巻を手放した。この像は孫休(そん きゅう)の文雅で学を好む一面を示し、果断に奸を除く像と対比をなしている。
* 学官を設け、農桑に関心を寄せる:孫休(そん きゅう)は詔して学官を設け、五経博士を置き、「王化を敦くし、風俗を隆んにする」ことを期した。彼はまた農桑の重要性を強調し、「倉廪実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」という治国の理念を提起し、賦税を軽くし田業を広めることで民生を改善しようと試みた。これらの措置は孫休(そん きゅう)が君主として国家の長期的発展について考えていたことを体現している。
* 蜀を援ける挙(演義独自):蜀漢(しょくかん)が危急の際、孫休(そん きゅう)は丁奉(ていほう)を遣わして軍を率い援救し、呉蜀同盟の道義と責任を示した。史実では呉の出兵はより戦略的考量によるものが多かったが、演義のこの筋立ては情義を重んじる孫休(そん きゅう)の君主像を造形している。
* 病没して孤を託し、権臣が孫皓(そん こう)を擁立:孫休(そん きゅう)は国事を憂慮して病重となり、臨終の際に丞相濮陽興(ぼくようこう)を召し、太子孫𩅦を託した。しかし、彼の死後、濮陽興(ぼくようこう)と張布(ちょうふ)は太子が年幼であるため、転じて乌程侯孫皓(そん こう)を擁立した。この場面は孫呉(そんご)後期の政治の不安定性と、権臣による皇位継承への影響を露わにしている。

肖像アーカイブ

人物像

性格
彼は典籍に鋭意を注ぎ、百家の言をことごとく読破しようと欲し、とりわけ雉を射ることを好んだ [c:2]。彼は人となりが謙譲かつ隠忍で、外は寛厚でありながら内は警覚であった [c:3]。蜀中の危急に際して、彼は「孤あにこれを坐視して救わざるべけんや」と表明した [c:4]。
生涯
孫休(そん きゅう)は孫権(そん けん)の第六子で、十三歳のとき射慈・盛冲に師事して学んだ [c:5]。彼はまず琅邪(ろうや)王に封ぜられ、のちに丹陽・会稽(かいけい)へ遷った [c:5]。孫綝が彼を迎えて帝に立て、永安(えいあん)七年(264年)に世を去った。享年三十歳、諡号は景皇帝である [c:5]。
逸話
彼はかつて蜀漢(しょくかん)を救援することを決断した [c:1]。彼は即位後、張布(ちょうふ)・丁奉(ていほう)と謀って孫綝を誅殺した [c:13, c:17]。彼はかつて詔を下して顧雍(こよう)の祀を続けさせ、陸遜(りくそん)を追諡して昭侯とし、王蕃(おうはん)・賀邵(がしょう)・韋昭(いしょう)らを任用した [c:11, c:14, c:18]。

人間関係

18 件の関係

名言

全 19 件の台詞 · 厳選 3 件

「古者建國,教學爲先,所以道世治性,爲時養器也。自建興以來,時事多故,吏民頗以目前趨務,去本就末,不循古道。夫所尚不惇,則傷化敗俗。其案古置學官,立五經博士,核取應選,加其寵祿,科見吏之中及將吏子弟有志好者,各令就業。一歲課試,差其品第,加以位賞。使見之者樂其榮,聞之者羨其譽。以敦王化,以隆風俗。」

史 第48回📍 建業(けんぎょう)

教育が国家統治にとって重要であることを強調し、孫休(そん きゅう)の治国理念を表している。

「朕以不德,託于王公之上,夙夜戰戰,忘寢與食。今欲偃武脩文,以崇大化。推此之道,當由士民之贍,必須農桑。管子有言:『倉廩實,知禮節;衣食足,知榮辱。』夫一夫不耕,有受其饑,一婦不織,有受其寒;饑寒並至而民不爲非者,未之有也。自頃年已來,州郡吏民及諸營兵,多違此業,皆浮船長江,賈作上下,良田漸廢,見穀日少,欲求大定,豈可得哉?亦由租入過重,農人利薄,使之然乎!今欲廣開田業,輕其賦稅,差科彊羸,課其田畝,務令優均,官私得所,使家給戶贍,足相供養,則愛身重命,不犯科法,然後刑罰不用,風俗可整。以羣僚之忠賢,若盡心於時,雖太古盛化,未可卒致,漢文升平,庶幾可及。及之則臣主俱榮,不及則損削侵辱,何可從容俯仰而已?諸卿尚書,可共咨度,務取便佳。田桑已至,不可後時。事定施行,稱朕意焉。」

史 第48回📍 建業(けんぎょう)

『管子』(かんし)の名言を引き、農桑と社会の安定との関係を説き、その実務的な思想を表している。

「聊相開悟耳,何至叩頭乎!如君之忠誠,遠近所知。往者所以相感,今日之巍巍也。詩云:『靡不有初,鮮克有終。』終之實難,君其終之。」

史 第48回→ 張布(ちょうふ)📍 建業(けんぎょう)

『詩経』(しきょう)の名句を引き、臣下に忠誠を貫くことの難しさと、始めから終わりまで全うすることを戒めている。

登場回11 回 ▸
  • 史ch.47ch.48ch.53ch.55ch.59ch.61ch.64
  • 演ch.113ch.117ch.119ch.120
関係の年表4 条 ▸

史 ch.48

史 ch.59

史 ch.64

演 ch.120

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は孫休(そん きゅう)、字は子烈(Zilie)である。永安(えいあん)の末、病に伏して寝台にあり、息も次第に弱まっていた。心にかかっていたのは、ただ自分一人の生死ではない。かつて孫綝(Sun Lin)が幼い主君を廃して別の者を立て、その権
  • 朕は即位した当初、何度も思い返す。急を要したのは、朕一人の安危ではなく、国内の大事を改めて裁断できるかどうかであった。綝(リン)は国の権勢を掌握し、兄弟や党与も勢い盛んであった。性急に事を起こせば、人心がまとまらぬ恐れがあった。丁奉(ていほ
  • 私は孫休(そん きゅう)、字は子烈(しれつ)といい、先帝の第六子である。十三歳のとき、中書郎の射慈(しゃじ)、郎中の盛冲(せいちゅう)に従って学んだ。若いころに聞き、学んだことは、すべて経書の解釈や文章に関わるものだった。読書は道理を明らか
生涯の大事8 ▸