何姬

何姬(かき)は東呉の孫和の妻で孫皓の生母であり、孫皓とその三人の弟を守ったことで知られる。
出典
原典に何姬が登場する箇所
正史 · 巻 50『三国志』
== 何姬 ==
正史 · 巻 50『三国志』
孫和何姬,丹楊句容人也。父遂,本騎士。孫權嘗遊幸諸營,而姬觀於道中,權望見異之,命宦者召入,以賜子和。…
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孫和何姬,丹楊句容人也。父遂,本騎士。孫權嘗遊幸諸營,而姬觀於道中,權望見異之,命宦者召入,以賜子和。生男,權喜。名之曰彭祖,即皓也。太子和既廢,後為南陽王,居長沙。孫亮即位,孫峻輔政。峻素媚事全主,全主與和母有隙,遂勸峻徙和居新都,遣使賜死,嫡妃張氏亦自殺。何姬曰:「若皆從死,誰當養孤?」遂拊育皓及其三弟。皓即位,尊和為昭獻皇帝,〈《吳錄》曰:皓初尊和為昭獻皇帝,俄改曰文皇帝。〉何姬為昭獻皇后,稱昇平宮,月餘,進為皇太后。封弟洪永平侯,蔣溧陽侯,植宣城侯。洪卒,子邈嗣,為武陵監軍,為晉所殺。植官至大司徒。吳末昏亂,何氏驕僭,子弟橫放,百姓患之。故民訛言「皓久死,立者何氏子」云。〈《江表傳》曰:皓以張布女為美人,有寵,皓問曰:「汝父所在?」答曰:「賊以殺之。」皓大怒,棒殺之。後思其顏色,使巧工刻木作美人形象,恆置座側。問左右:「布復有女否?」答曰:「布大女適故衛尉馮朝子純。」即奪純妻入宮,大有寵,拜為左夫人,晝夜與夫人房宴,不聽朝政,使尚方以金作華燧、步搖、假髻以千數。令宮人著以相撲,朝成夕敗,輒出更作,工匠因緣偷盜,府藏為空。會夫人死,皓哀愍思念,葬於苑中,大作塚,使工匠刻柏作木人,內塚中以為兵衛,以金銀珍玩之物送葬,不可稱計。已葬之後,皓治喪於內,半年不出。國人見葬太奢麗,皆謂皓已死,所葬者是也。皓舅子何都顏狀似皓,云都代立。臨海太守奚熙信訛言,舉兵欲還誅都,都叔父植時為備海督,擊殺熙,夷三族,訛言乃息,而人心猶疑。〉
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何姬は呉の孫和(そん か)の妻であり、孫皓(そん こう)の生母である。『三国志(さんごくし)』巻第五十に記載があるが、『演義』には登場しない。
事績
何姬は丹陽句容の人で、父の何遂はもとは騎士だった。孫権(そん けん)が軍営を巡視した際、何姬が道端で見物しているのを目にして驚き、宦官に命じて彼女を宮中に召し入れ、孫和に賜った。彼女は孫皓を産み、孫権は大いに喜んで、彭祖(ほうそ)と名づけた。(史書の記載)
孫和が廃されて南陽(なんよう)王となり、長沙(ちょうさ)に住まわされた後、孫峻(そん しゅん)が政務を補佐した。全公主(ぜんこうしゅ)と孫和の母は不仲で、全公主は孫峻に孫和を新都(しんと)へ移し、使者を遣わして死を賜るよう勧めた。正妃の張氏(ちょうし)も自殺した。何姬は「皆が後を追って死んでしまったら、誰が孤児を養うのでしょう」と言った。その後、孫皓とその三人の弟を養育した。(史書の記載)
孫皓の即位(そんこうのそくい)後、孫和は昭献皇帝と追号され、何姬は昭献皇后に立てられて升平宮と称された。一か月余り後、何姬は皇太后に進封された。(史書の記載)
関係
台詞
- 史 ch.50 §47
「若皆從死,誰當養孤?」

続けて読む
孫和
配偶者