
史載(Historical Record)
孫峻(そん しゅん)、字は子遠は、孫堅(そん けん)の弟である孫静(そん せい)の曾孫であり、孫恭(そん きょう)の子である。彼は幼少より弓馬に長じ、性格は明敏かつ果断で、胆力も人並み外れていた。孫権(そん けん)の統治後期において、孫峻は武衛都尉に任じられ、後に侍中へと昇進した c:1274。
孫権が病重くなった際、諸葛恪(しょかつかく)、滕胤(とういん)、呂拠(りょきょ)、孫峻らを召集し、後事を彼らに託した。そのうち孫峻は輔政を命じられ、引き続き武衛将軍を務め、宿衛の掌管を任され、都郷侯に封じられた c:5097。孫権の崩御後、中書令の孫弘は諸葛恪と不和であったため、詔書を偽造して恪を除こうと企てた。孫峻はこれを知ると諸葛恪に告発し、恪は議事の場で孫弘を誅殺し、その後正式に発喪した c:1271。
二年後、すなわち西暦253年、孫峻は諸葛恪が新城の戦いで大敗し、かつその人となりが驕慢で怨言が多かったため、呉主の孫亮(そん りょう)と密謀し、諸葛恪を誅殺する計を立てた。ある宮廷の宴会において、孫峻はあらかじめ伏兵を設け、隙を突いて諸葛恪を殿堂の上で斬殺した c:5096。事が成った後、孫峻は丞相・大将軍に任じられ、中外の諸軍事を総督し、富春侯へと進封された c:5096。
しかし、孫峻は権力を握った後、その性格の中の驕慢で険悪な一面が日に日に露わとなり、彼は刑殺を大いに行い、百姓の怨嗟の声を招いた。さらに、彼は不行跡を重ね、宮人を姦乱し、ついには孫権の娘である魯班公主とも密通した c:1274。
西暦255年、魏国の毌丘倹(かんきゅうけん)、文欽(ぶんきん)が司馬師(しばし)に背いて挙兵すると、孫峻は驃騎将軍の呂拠、左将軍の留賛(りゅうさん)らの部隊を率いて寿春(じゅしゅん)へ援軍に赴いた c:5099。しかし、文欽は敗戦後に呉国へ降伏した。孫峻は文欽を厚遇し、文欽は性情が剛暴で人下に屈せず、しばしば呂拠、朱異(しゅい)ら諸将と不和であったが、孫峻は終始彼を庇護した c:1268。同年、蜀漢(しょくかん)の使者が来訪した際、将軍の孫儀、孫邵(そん しょう)、綝恂らがこの機に乗じて孫峻を刺殺しようと試みたが、事は露見し、孫儀らは自殺し、数十人がこれに連座して死に至り、公主の孫魯育さえも免れなかった c:5099。
孫峻はその在位中、廃太子の孫和(そん か)を長沙(ちょうさ)から新都(しんと)へ遷し、使者を遣わして孫和に死を賜った。孫和の嫡妃である張氏もこれに従って自殺した c:1270。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』においては、孫峻の人物像はさらに肉付けされており、とりわけ諸葛恪を誅殺する場面では、多くの劇的な細部が加えられている。演義では、孫峻は孫権が生前に寵愛した人物として描かれ、御林軍馬を掌管していた c:1275。諸葛恪がその兵権を奪うと、孫峻は心中で大いに怒り、太常卿の滕胤と密謀して諸葛恪を除こうとした c:1275。
演義は、諸葛恪が宴に赴く前のさまざまな異象——黄犬が衣を銜える、白虹が日を貫くなど——および腹心の張約の諫止を詳細に描き、これらはみな諸葛恪の死に宿命論的な色彩を添えている c:9755。史実とは異なり、演義では孫峻は宴会の場で直接呉主の孫亮に諸葛恪の「不臣の心」を密奏し、孫亮が宴を設けて伏兵を壁衣の中に潜ませた c:1275。
宴席において、諸葛恪は腹痛を理由に飲酒を辞退したが、孫峻は巧みに、府中に常備している薬酒を飲むよう勧め、これによって諸葛恪の疑念を打ち消した c:9755。最終的に、呉主の孫亮は理由をつけて席を立ち、孫峻は長服を脱ぎ捨て、鎧を身にまとい、利刃を手にして「天子に詔あり、逆賊を誅す」と大喝し、諸葛恪を斬殺した c:1277。演義はさらに、孫峻による諸葛恪の家眷の処置、および諸葛恪と張約の屍を乱葬の地に棄てた場面を特筆し、孫峻の残忍さと諸葛恪の悲惨な結末を極力描き出している c:1277。
演義では、孫峻は諸葛恪を誅殺した後、孫亮によって丞相・大将軍・富春侯に封じられ、中外の諸軍事を総督し、権力はことごとくその手に帰した c:5100。演義はまた、毌丘倹、文欽が反逆した際、孫峻が兵を率いて江を渡り寿春を襲撃した場面にも言及しており c:5101、これは史実とおおむね一致している。
重要な関係
* 孫呉(そんご)(serves):孫峻は孫氏宗族の一員として、生涯にわたって孫呉政権に忠を尽くし、孫権の死後は幼主の孫亮を輔佐して朝政の大権を握った c:5096。
* 諸葛恪(enemy_of):孫峻と諸葛恪は政治上の不倶戴天の敵であった。孫権の死後、諸葛恪は一時朝野に権勢を振るったが、その専横跋扈や新城の敗北などの行いが不満を招いた。孫峻は最終的に孫亮と密謀し、計を設けて諸葛恪を誅殺し、もって呉国の実権を握った c:5096。
* 滕胤(ally_of/rival_of):諸葛恪を誅殺する一件において、滕胤は孫峻の盟友であり、共に密謀した。しかし、史書では孫峻と滕胤は「内に沾洽せず、外に相包容す」とあり、孫峻は諸葛恪を誅殺した後も滕胤を高密侯に進封し、表面上の和諧を保った c:1274。演義では滕胤と諸葛恪はもともと嫌隙があり、滕胤が自ら孫峻に策を献じたと強調されている c:1275。
* 孫魯育(enemy_of):史書によれば、孫峻の在位中、孫儀らによる孫峻暗殺の謀が露見したため、これに連座して死んだ者は数十人に及び、その中に公主の孫魯育も含まれていた c:5099。
* 孫和(enemy_of):孫峻は在位中、廃太子の孫和を長沙から新都へ遷して死を賜った。これは全公主(孫魯班)と孫和の母である何姫との宿怨に関わるもので、全公主が孫峻に孫和を遷して死を賜るよう説いた c:1269。
* 孫魯班(ally_of/lover_of):史書には孫峻が「宮人を姦乱し、公主魯班と私通す」とあり c:1274、これは両者の間の不正な親密関係を示すとともに、孫峻の道徳的堕落をも反映している。
* 文欽(friend_of):文欽が魏国で敗れて呉国へ降伏した後、孫峻は彼を「厚く待遇」した。文欽は性情が剛暴で他の諸将と不和であったが、孫峻は終始彼を庇護した c:1268。
象徴的な場面
* 孫権の託孤と輔政:孫権が病重くなった際、諸葛恪、滕胤、呂拠、孫峻らを召集して後事を託し、孫峻はこれによって輔政の大権を得て、引き続き宿衛を掌管した c:5097。これが彼の権力への道の出発点である。
* 諸葛恪の誅殺:これは孫峻の生涯において最も決定的な事件である。彼は呉主の孫亮と密謀し、宮廷の宴会において伏兵を設け、朝野に権勢を振るっていた諸葛恪を斬殺し、もって大権を独り占めし、呉国の新たな実質的権力者となった c:5096。演義はこの場面を生き生きと描き、諸葛恪が宴に赴く前の異象や孫峻の果断な行動を加え、劇的効果を大いに高めている c:9755, c:1277。
* 驕慢険悪、刑殺多し:孫峻は権力を握った後、その性格の暗黒面を余すところなく露わにし、権力を濫用し、大いに殺戮を行い、民の怨みを沸騰させた c:1274。この時期、彼はまた「宮人を姦乱し、公主魯班と私通」し、その道徳的堕落をさらに露呈した c:1274。
* 孫和に死を賜る:孫峻は在位中、廃太子の孫和を長沙から新都へ遷して死を賜った。この挙はその権力を固めるとともに、その政治手腕の残酷さをも反映している c:1269。
* 孫儀の謀反を平定:将軍の孫儀、孫邵、綝恂らはかつて孫峻を刺殺しようと試みたが、事は露見し、孫峻はこの謀反を平定し、連座して数十人を殺害した。その中には公主の孫魯育も含まれていた c:5099。これは孫峻の権力に対する高度の警戒と維持を示している。
* 文欽を厚遇する:魏国の文欽が敗れて呉国へ降伏した後、孫峻は彼を「厚く待遇」し、たとえ文欽が他の諸将と不和であっても、孫峻は終始彼を庇護した c:1268。これは孫峻が降将を扱う上での策略を体現するとともに、人心を得て自身の勢力を強大にするためでもあったと考えられる。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 孫峻(そん しゅん)は人となりが驕り高ぶって陰険で害を好み、多くの者を刑殺し、宮人を犯して乱し、公主の魯班(ろはん)と密通した。彼は果断で陰険険悪、精悍にして胆力があり決断的であった。
- 生涯
- 孫峻(そん しゅん)は孫堅(そん けん)の弟である孫静(そん せい)の曽孫で、幼くして弓馬に巧みであった。孫権(そん けん)の臨終に際して遺命を受けて政を輔け、後に諸葛恪(しょかつかく)を誅して丞相に遷った。五鳳二年に軍を率いて寿春(じゅしゅん)を襲い、太平元年九月に病死した。時に三十八歳であった。
- 逸話
- 孫峻(そん しゅん)が病死した後、権柄は従弟の孫綝(そんちん)に引き継がれた。彼はかつて御林軍の兵馬を掌握し、後に権を専らにし、孫和(そん か)の璽綬を奪って死を賜った。
人間関係
14 件の関係
名言
全 9 件の台詞 · 厳選 3 件
「使君病未善平,當有常服藥酒,自可取之。」
この一句は殺意を秘めており、孫峻(そん しゅん)が諸葛恪(しょかつかく)を誅殺する古典的な伏線となっている。
「有詔收諸葛恪!」
この一句は諸葛恪(しょかつかく)の政治的終焉を直接宣告するものであり、歴史的転換点としての意義が極めて大きい。
「鯀、禹罪不相及,滕侯何為?」
この一句は故事を用いて威圧し、孫峻(そん しゅん)の権謀と冷酷さを示している。
登場回9 回 ▸
- 史ch.28ch.48ch.50ch.56ch.59ch.64
- 演ch.108ch.110ch.111
関係の年表10 条 ▸
史 ch.28
- 文欽(ぶんきん)§21
friend_of
厚待之
史 ch.50
- 孫和(そん か)§47
enemy_of
徙和居新都,遣使赐死
史 ch.59
- 孫和(そん か)§19
enemy_of
奪其玺绶徙新都,又遣使赐死
史 ch.64
- 諸葛恪(しょかつかく)§14
friend_of
以孙弘矫诏事告恪
- 孫亮(そん りょう)§26
advises_in
因民之多怨,构恪欲为变,与亮谋置酒请恪
- 諸葛恪(しょかつかく)§27
enemy_of
称诏收恪并刀斫之
- 滕胤(とういん)§45
rival_of
因恪子妻父辞位事,峻安胤进爵高密侯
演 ch.108
- 孫静(そん せい)§15
kin_of
孙静曾孙
- 孫恭(そん きょう)§15
kin_of
孙恭之子
- 張約§18
fights_in
斩诸葛恪后转身一刀砍中张约右臂,武士剁之为肉泥
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は字を子遠(Ziyuan)といい、若い頃から弓馬を習い、果敢な自分なら大事を任せられると思っていた。先帝は臨終に際し、私に宿衛をつかさどらせ、遺命を受けて政務を補佐させた。その時、私が背負ったのは兵権だけではなく、君主から託されたものでも
- 私は先帝の遺命を奉じ、遺託を受けて少主を補佐した。あの日、孫権(そん けん)が病に苦しみ、恪(かく)、弘(こう)、滕胤(とういん)、呂拠(りょきょ)、そして私を召して宮中に入れ、後事を託した。先帝は恪の剛直で独善的なところを嫌っておられたが
- 私は孫峻(そん しゅん)、字は子遠(しえん)、江東の孫氏の出である。遠い昔、我が祖先の孫静(そん せい)は孫堅(そん けん)の弟で、私は孫恭(そん きょう)の子にあたる。こうした身分と家柄によって、私は宗室に近い立場にあったが、同時に、呉の
生涯の大事10 ▸
- 0252-01-01 · 建業(けんぎょう)孫権の遺命輔政(そんけんのゆいめいほせい)· 軍師
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- 0253-01-01 · 建業(けんぎょう)孫峻・孫綝の専権(そんしゅん・そんちんのせんけん)· 首謀者
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- 0253-01-01 · 建業(けんぎょう)孫峻、諸葛恪を誅殺(そんしゅん、しょかつかくをちゅうさつ)· 首謀者
- 0254-01-01 · 建業(けんぎょう)孫儀の孫峻暗殺謀議(そんぎのそんしゅんあんさつぼうぎ)· 被害者
- 0255-01-01 · 寿春(じゅしゅん)孫峻の寿春攻撃(そんしゅんのじゅしゅんこうげき)· 総大将
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- 0258-01-01 · 建業(けんぎょう)孫綝の専政と孫休の復辟(そんちんのせんせいとそんきゅうのふくへき)· 首謀者
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