史載(Historical Record)
申耽(しんたん)は、字を義挙といい、もと西平・上庸(じょうよう)一帯で数千家の民衆を聚めていた。彼はかつて張魯(ちょうろ)と連絡があり、後にまた使者を曹操(そうそう)のもとへ遣わし、曹操はこれにより彼に将軍号を授け、上庸都尉の職を領させた c:6000。建安の末年、蜀漢(しょくかん)の方が上庸に対して攻撃を発し、申耽はその部衆を率いて蜀漢に帰附した。劉備(りゅうび)が益州(えきしゅう)を平定した後、孟達(もうたつ)を遣わして秭帰から北のかた房陵を攻めさせ、房陵太守の蒯祺は孟達の部下に害された。孟達は続いて上庸を攻めようと準備したが、劉備は孟達が独り当たるには難しいと考え、漢中(かんちゅう)から劉封(りゅうほう)を遣わして沔水を下らせ、孟達と上庸で会合させた。この時、上庸太守の申耽は衆を率いて投降し、妻子および宗族を成都(せいと)へ遣わした c:5999。
劉備はこれにより申耽を征北将軍に加封し、引き続き上庸太守を務めさせ、員郷侯に封じた。同時に、申耽の弟の申儀(しんぎ)は建信将軍・西城太守に任命された。関羽(かんう)が樊城(はんじょう)・襄陽(じょうよう)を囲んだ時、たびたび劉封と孟達を呼んで兵を発して援助するよう求めたが、劉封と孟達は山郡が初めて附いたばかりで軽々しく動かすべきではないことを理由に、関羽の命を聞き入れることができなかった。関羽が敗れた後、劉備はこれに深く不満を抱いた。加えて劉封と孟達が争執して不和となり、劉封は孟達の鼓吹を奪い、孟達は罪を得ることを恐れ、また劉封を恨み、そこで上表して劉備に辞別し、その部衆を率いて曹魏(そうぎ)に投降した c:5999。
孟達が魏に投じた後、魏の文帝曹丕(そうひ)はその才華と容貌を賞し、彼を散騎常侍・建武将軍に任命し、平陽(へいよう)亭侯に封じ、房陵・上庸・西城の三郡を合併して新城郡とし、孟達に新城太守を領させた。曹魏はまた征南将軍の夏侯尚(かこう しょう)、右将軍の徐晃(じょこう)を遣わして孟達とともに劉封を攻めさせた c:5999。この過程で、申儀は劉封を裏切り、劉封を敗れさせて成都へ逃げ帰らせた。申耽もまた曹魏に投降し、曹魏は申耽に懐集将軍の職を授け、彼を南陽(なんよう)へ遷居させた。申儀は魏興太守に任命され、員郷侯に封じられ、洵口に駐守した c:6000。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』においては、申耽の人物像は史実とは異なり、その事績にはより多くの劇的な色彩が与えられている。彼が初めて登場するのは劉備が上庸を攻め取った時である。劉備は劉封・孟達・王平(おうへい)らに上庸の諸郡を攻め取るよう命じ、申耽らは曹操がすでに漢中を棄てて去ったと聞き、衆を率いて投降した c:6001。劉備はこれにより劉封を副将軍に加え、孟達とともに上庸を鎮守させ、申耽は引き続き上庸太守を務めた c:6002。
関羽が麦城(ばくじょう)で敗れた時、廖化(りょうか)が上庸へ救援を求めに来て、劉封・孟達に兵を発して救うよう請うた。だが劉封・孟達は「山郡が初めて附いたばかりで、軽々しく動かせない」ことを理由に出兵を拒んだ(演義ではこの事における申耽の立場を明確には言及していないが、彼は上庸太守として、間接的にこの決定に参与した)。この筋は史実において劉封・孟達が関羽の救援を拒んだ記載と符合するが、演義はそれを廖化が救援を求める場面として具体化している c:6002。
孟達は劉封と不和であり、また劉備が関羽を救わなかった罪を追究することを恐れ、そこで魏に降る意を萌した。演義において、孟達は申耽・申儀兄弟二人に魏に投ずる事を相談した。申耽兄弟は彼らもまた早くから魏に投ずる心があったと表し、孟達に表を書いて劉備に辞別し、曹丕に身を寄せるよう進言し、彼ら二人も随後に帰降すると言った c:2875。孟達はその計に従い、部を率いて魏に投じた。この後、劉封が命を奉じて孟達を攻めると、申耽兄弟は上庸の城頭で反叛し、申耽は「吾はすでに魏に降った!」と高く叫び、劉封の入城を拒んだ c:12868。この筋は史実において申儀が劉封を裏切り、申耽が魏に降った記載と合致するが、演義はそれをより直接的かつ劇的に描いている。
孟達が魏に反いて蜀に投じようとした時、申耽・申儀は再び鍵となる役割を演じた。孟達は申耽・申儀に一緒に事を挙げるよう約したが、二人は偽って応諾し、実は密かに軍馬を調練し、魏兵が来るのを待って内応とした c:6004。最終的に、司馬懿(しばい)の大軍が城を囲んだ際、申耽・申儀は城外から斬り込み、孟達を「反賊」と大いに罵り、申耽はさらに一槍で孟達を馬下に刺し、その首級を梟した c:2876。この結末は史実において申儀が孟達を告発し、孟達を殺させた記載とは異なっており、演義では申耽が直接孟達を撃殺する過程に参与し、その裏切り者の形象を大いに強めている。
重要な関係
* 蜀漢(serves):申耽は最初に上庸地域で衆を聚め、後に劉備が上庸を攻めた時に蜀漢に帰降し、劉備によって征北将軍・上庸太守に任命された c:5999。
* 曹魏(defected_to):劉封と孟達が交悪し、孟達が魏に投じた後、申耽もこれに従って曹魏に帰降し、懐集将軍の職を授けられた c:6000。演義では、申耽はさらにたびたび孟達の裏切り者として、最終的に孟達を死なせた c:2876。
* 孟達(advises_in):演義において、申耽と孟達の関係は複雑である。彼はかつて孟達に魏に投ずるよう進言し c:2875、また孟達が魏に反こうとした時に偽って協力し、最終的に裏切って孟達を撃殺した c:2876。
* 劉封(adversary):劉封と孟達が争執した後、申耽は劉封を裏切ることを選び、曹魏に投降し、劉封が上庸を攻めた時にその入城を拒んだ c:12868。
* 申儀(兄弟):申耽の弟であり、二人は史実と演義のいずれにおいてもともに行動し、ともに蜀漢に帰降し、またともに曹魏に投降し、孟達の事件において相似た役割を演じた c:6000。
象徴的な場面
* 蜀漢に帰降し、上庸太守に封ぜらる:建安の末年、劉備は劉封・孟達を遣わして上庸を攻めさせ、申耽は衆を率いて帰降し、劉備は彼を征北将軍に加え、上庸太守を領させ、員郷侯に封じた c:5999。この事件は申耽が正式に三国の歴史の舞台に登場し、短くも蜀漢に効力したことを示している。
* 孟達に従って曹魏に投降す:劉封と孟達が不和で、孟達が曹魏に投降した後、申耽もこれに従って帰降し、曹魏に懐集将軍の職を授けられた c:6000。この転変は申耽の曹魏陣営における身分を定めた。
* 演義における孟達への裏切りと刺殺:『三国演義』において、孟達が魏に反いて蜀に投じようとし、申耽・申儀に一緒に事を挙げるよう約した。しかし、申耽・申儀は偽って応諾し、実は密かに司馬懿と結託していた。最終的に、司馬懿が新城を囲攻した時、申耽は城外から斬り込み、自らの手で孟達を馬下に刺し、その首級を梟した c:2876。この場面は申耽が演義において最も劇的かつ決定的な瞬間であり、その反復無常で盟友を裏切る形象を余すところなく描き、史実において申儀が孟達を告発する筋とは異なるものの、ともに孟達の最終的な結末を指し示している。
人間関係
3 件の関係
名言
全 4 件の台詞 · 厳選 2 件
「吾弟兄欲投魏久矣;公可作一表,辭了漢中王,投魏王曹丕,丕必重用。吾二人亦隨後來降也。」
この一句は申耽(しんたん)の変わり身が早く、風向き次第で舵を切る典型的な姿を示している。
「吾已降了魏也!」
この一句は申耽(しんたん)が劉備(りゅうび)を裏切り、曹魏(そうぎ)に投降することを直接明かしており、その人物の運命の転機となっている。
登場回6 回 ▸
- 史ch.40
- 演ch.73ch.76ch.79ch.94ch.95
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 上庸(じょうよう)がすでに平定され、人々の心がこちらに向かうと、私は先主の命を受け、引き続きこの郡を治めることになり、弟の申儀(しんぎ)も任用された。当初を振り返れば、私は張魯(ちょうろ)と通じ、また使者を曹公(そうこう)のもとへ遣わしてい