起因
孟達(もうたつ)はもともと蜀漢(しょくかん)の宜都太守であったが、建安末年に関羽(かんう)の襄樊での敗北において援救が不十分であったとして恐れ、魏に降伏した。 曹丕(そうひ)はその才能を重んじ、新城太守に封じ、房陵・上庸(じょうよう)・西城の三郡を治めさせた。漢中(かんちゅう)から南陽(なんよう)への咽喉の地を押さえる位置である。 曹丕の死後、魏の明帝が即位すると、孟達は朝廷における後ろ盾を失い、桓階(かんかい)・夏侯尚(かこうしょう)らの旧知も相次いで世を去った。 自身も長年辺郡を守り続けており、旧主に帰ろうという念が生じた。建興六年(228)、蜀漢が第一次北伐(だいいちじほくばつ)を発動すると、 孟達は李厳(りげん)の子の李豐を通じて諸葛亮(しょかつりょう)に密かに意を通じ、新城・上庸・金城三郡の兵力をもって東に出て洛陽(らくよう)に向かい、 漢軍と合流することを約した [c:16957]。戦略的に見れば、これは極めて想像力に富んだ「双線突撃」であった。 孔明が祁山(きざん)に出て関隴の主力を牽制し、孟達が南陽の側後から許・洛の間に切り込む。 もし成功すれば、魏国の西線は一挙に分断されるはずであった。
参加勢力
反側の核心は孟達本人とその側近の李輔・外甥の鄧賢(とうけん)であった。しかしこの二人はのちに事変の中で内通して裏切る者となり、孟達が自分の側近に対する統制を欠いていたことを露わにした。所謂同盟者の申耽(しんたん)・申儀(しんぎ)兄弟はもともと上庸の土豪であり、名目上は共に挙兵すると約したものの、実際には引き続き魏と暗通し、「日々軍馬を調練しながら、魏兵が来れば内応に回るだけを待っていた」 [c:16960]。蜀漢側は遠く山の向こうで見守る諸葛亮であった。孔明は祁山において李豊からの報告を受けた後、すでに孟達の必敗を予測し、手紙を送って厳重に戒備するよう警告したが、孟達は「孔明は心配しすぎだ」と自負して受け入れなかった [c:16958]。魏方の主力は司馬懿(しばい)が統率する宛城(えんじょう)の諸軍であり、前鋒は徐晃(じょこう)、さらに金城・上庸境内の魏室に忠実な地方武装を内応として徴調した。
重要な転換点
この件の第一の転換点は情報の漏洩であった。申儀の家人が機密の事を持って報告に来たため、司馬懿はこれを基に「孟達と諸葛亮の連動」の全貌を把握し、直ちに「先に彼を捕縛し、諸葛亮を心寒からしめて自ら退かせる」と決断した [c:16959]。第二の転換点は司馬懿の「詔を待たずに」という決断であった。彼は奏上し、詔を待ち、帰還するまでの一ヶ月の時差がこの局面全体を台なしにするに足ると判断し、自ら兵を起こした。一日に二日分の道のりを進み、違反した者は即座に斬った。同時に参軍の梁畿に命じて偽の「将令」を伝えて孟達に兵糧の備蓄を欺かせた [c:16959]。第三の転換点は徐晃の前鋒の早期到着であった。孟達はもともと司馬懿の主力がまだ宛城にあり、新城まで来るにはひと月以上かかるはずと思っていた。ところが突然徐晃の旗号が城下に現れ、城上から乱れた矢が徐晃を傷つけて退かせたが、司馬懿の大軍がその後日を覆うように包囲してしまい、時間の窓口が一度に閉じてしまった [c:16960]。最後に申耽・申儀と李輔・鄧賢の内応によって孟達は乱軍の中で死に、反乱はわずか八日で終わった。
鎮圧と結果
司馬懿は事変を平定した後、直ちに長安(ちょうあん)に班師して張郃(ちょうこう)と合兵し、東に出て街亭(がいてい)において諸葛亮の進攻に備えた [c:16961]。孟達の首は洛陽に送られて衆に示され、新城・上庸・西城の三郡は改めて編成され直された。申耽・申儀兄弟は告発の首功によって封を受けた。申儀は魏興太守に遷され、「郡ごと帰附する」という政治的な見返りを最大化した。この処置は二つのシグナルを伝えた。一つは、魏国の辺将の考課からこの後「政治的な信頼性」という次元が明らかに重加された。二つは、地方の土豪と朝廷の間に新たな契約の模式が形成された。重要な局面で寝返る限り、それ以前の反側との接触は宥恕されるというものである。
歴史的な反響
戦略的な層面から見れば、もし孟達が成功していたならば、蜀漢北伐の全体的な構図は「単線の西進」から「南北の挟み撃ち」へと転じており、街亭一戦の重要性は大幅に低下していたかもしれない。司馬懿個人の観点から見れば、この戦役は彼が復出後に「先に行動してから上奏する」という形で威信を立てた最初の軍事行動であり、魏の明帝朝の中後期における「辺境の事は全て彼に委ねる」という政治的地位を確立した。また後に高平陵の変(こうへいりょうのへん)における精確な情報に基づき詔を待たずに果断に行動するという形の、最初の政治的資本を提供した。諸葛亮の孟達に対する判断、「達は司馬懿の相手にならず、必ずや捕縛されるであろう」 [c:16957]は、後世の史家と小説家が共に援用する「孔明の人を見る目」の事例の一つとなった。そしてやや後の泣いて馬謖を斬ることにおける「人を見る目がなかった」との微妙な対照をなしている。
