
史載(Historical Record)
蔣琬(しょうえん)は、字を公琰といい、零陵(れいりょう)湘郷の人である。彼は若い頃から従弟の劉敏(りゅうびん)と名を斉しくしていた。劉備(りゅうび)が蜀に入ったとき、蔣琬(しょうえん)は州書佐の身分で随行し、後に広都の長に任じられた。しかし、劉備(りゅうび)があるとき広都を巡視した際、蔣琬(しょうえん)が政務を荒廃させ、しかもちょうど酔っているのを見つけ、劉備(りゅうび)は大いに怒って罪を加えようとした。幸いにも軍師将軍・諸葛亮(しょかつりょう)が助命を請い、蔣琬(しょうえん)を「社稷の器にして、百里の才に非ざるなり」と称し、その政が民を安んずるを本とし、修飾を先とせぬことを指摘して、劉備(りゅうび)に重ねてこれを察するよう勧めた。劉備(りゅうび)は素より諸葛亮(しょかつりょう)を敬重していたので、重罰を加えず、ただその官職を免じるにとどめた c:3208。
免職されてまもなく、蔣琬(しょうえん)は夜に牛の頭が血を流す夢を見て、意にはなはだこれを悪んだ。夢を占う者・趙直が夢を解いて言った。「夫れ血を見るは、事の分明なるなり。牛角および鼻は、『公』の字の象にして、君の位は必ず当に公に至るべし、大吉の徴なり。」 まもなく、蔣琬(しょうえん)は什邡令に任じられた。劉備(りゅうび)が漢中(かんちゅう)王を称すると、蔣琬(しょうえん)は入朝して尚書郎を務めた c:3208。
建興元年、諸葛亮(しょかつりょう)が開府して事を治めると、蔣琬(しょうえん)を東曹掾に徴した。彼が茂才に挙げられたとき、蔣琬(しょうえん)はこれを劉邕(りゅう よう)・陰化・龐延・廖淳らに固く譲ろうとし、諸葛亮(しょかつりょう)はこう教え諭した。「親に背き徳を舎てて、以て百姓を殄ぼすことを思惟するに、衆人すでに心に隠さず、実に又た遠近をして其の義を解せざらしむ、是を以て君は宜しく其の功を顕して挙ぐべし、以て此の選の清重なるを明らかにせよ。」 その後、蔣琬(しょうえん)は参軍に昇った。建興五年、諸葛亮(しょかつりょう)が漢中(かんちゅう)に駐屯すると、蔣琬(しょうえん)は長史・張裔(ちょうえい)とともに留府の事務を担当した。八年、蔣琬(しょうえん)は張裔(ちょうえい)に代わって長史となり、抚軍将軍を加えられた。諸葛亮(しょかつりょう)がたびたび出征すると、蔣琬(しょうえん)はつねに食を足し兵を足してその需に供することができた。諸葛亮(しょかつりょう)はつねにこう言った。「公琰は志を忠雅に託す、当に吾と共に王業を賛くべき者なり。」 彼はあろうことか密かに後主・劉禅(りゅう ぜん)に上表し、「臣もし不幸あらば、後事は宜しく以て琬に付すべし」と称した c:6177。
諸葛亮(しょかつりょう)が没した後、蔣琬(しょうえん)は尚書令に任じられ、まもなく行都護・假節・領益州(えきしゅう)刺史を加えられ、大将軍・録尚書事に遷り、安陽亭侯に封じられた c:6178。当時、蜀漢(しょくかん)は主帥を失ったばかりで、朝野の内外はみな危惧を感じていた。蔣琬(しょうえん)は「群を抜きて萃を出で、群僚の右に処し、既に戚容なく、又た喜色なく、神守挙止、平日のごときあり」、それゆえ次第に衆人の信服を勝ち得た c:6178。
延熙元年、劉禅(りゅう ぜん)は詔を下し、蔣琬(しょうえん)に諸軍を総帥して漢中(かんちゅう)に屯駐し、東呉の行動を待ち、東西で掎角を成して、魏国の変に乗ずるよう命じた。また蔣琬(しょうえん)に開府を命じ、翌年には大司馬を加えた。蔣琬(しょうえん)はかつて疏を上って自らの身体の不適を表したが、なお戦略の構想を提示し、涼州(りょうしゅう)が胡塞の要地であり、進退に資があること、また羌胡が漢を思うこと渇するがごとくであることを考え、姜維(きょうい)に涼州(りょうしゅう)刺史を担当させ、自らは軍を率いて姜維(きょうい)の鎮継となり、東北方向の戦事に応ずるよう建議した c:6179。
演義(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』においては、蔣琬(しょうえん)の形象は史実とほぼ符合するが、より多く諸葛亮(しょかつりょう)の重要な輔佐にして継承者として造形されており、その性格的特徴と戦略眼が小説の中でさらに描き込まれている。彼が初めて第六十三回に現れる際、「荊襄の名士」として紹介され、時に書記を務め、孔明に従って川に入った c:3209。
小説において、蔣琬(しょうえん)はたびたび諸葛亮(しょかつりょう)に従って出征したが、とりわけ孟獲(もうかく)を南征した際、参軍として、諸葛亮(しょかつりょう)の軍事的部署に一定の憂慮と疑問を示した。たとえば、瀘水の戦いにおいて、蔣琬(しょうえん)は呂凱(りょがい)が築いた営寨の配置に不安を覚え、それが劉備(りゅうび)の夷陵の戦い(いりょうのたたかい)における失敗の過ちを犯していると考え、蛮兵の火攻めを懸念した。しかし諸葛亮(しょかつりょう)は笑って「公、多く疑う勿れ、吾、自ら妙算あり」と言い、蔣琬(しょうえん)が軍事の謀略において諸葛亮(しょかつりょう)に及ばないことを示すとともに、諸葛亮(しょかつりょう)の智謀を側面から引き立てた c:13423。孟獲(もうかく)が秃龍洞に退き守ったとき、蔣琬(しょうえん)はかつて班師して国に帰ることを建議し、「孟獲(もうかく)四たび擒えられ、既にすでに胆を喪う、安んぞ敢えて再び出でんや。況んや今、天気炎熱にして、軍馬疲乏す、之を征するも益なし」と考えたが、諸葛亮(しょかつりょう)は従わず、再びその軍事上の慎重さと諸葛亮(しょかつりょう)の遠見を際立たせた c:3210。
馬謖(ばしょく)が街亭(がいてい)を失って斬られたとき、蔣琬(しょうえん)は成都(せいと)から駆けつけ、馬謖(ばしょく)のために助命を請おうとし、「天下未だ定まらず、而して智謀の士を戮するは、豈に惜しむべからずや」と考えた c:6181。諸葛亮(しょかつりょう)は軍法の厳明を理由に拒み、先帝・劉備(りゅうび)の馬謖(ばしょく)への評価を追憶し、これがさらに蔣琬(しょうえん)の寛厚仁慈な性格を強めた(演義独自)。
諸葛亮(しょかつりょう)が没した後、蔣琬(しょうえん)の地位は顕著に高まった。第一百零五回において、彼は丞相・大将軍・録尚書事を加えられ、諸葛亮(しょかつりょう)の遺志を継いで、蜀漢(しょくかん)の実際の掌権者となった c:6182。小説はまた、楊儀(ようぎ)が自らの功の高さを恃み、また自らの資歴が蔣琬(しょうえん)の上にあると考えながらその下に位することに怨言を生じ、あろうことか「昔日、丞相初めて亡くなりし時、吾もし全師を将いて魏に投ぜば、寧ぞ当に寂寞たることかくのごとくならんや」と狂言を吐いたさまを描いている。費禕(ひい)がこの言を密奏すると、劉禅(りゅう ぜん)は大いに怒って楊儀(ようぎ)を斬ろうとした。蔣琬(しょうえん)は劉禅(りゅう ぜん)に奏請し、楊儀(ようぎ)がかつて丞相に従って多くの功労を立てたことを念じ、庶人に貶めるよう建議した。劉禅(りゅう ぜん)はこれに従い、楊儀(ようぎ)は最終的に羞愧して自刎して死んだ c:13422。この筋立ては、蔣琬(しょうえん)の寛厚を示すのみならず、彼が諸葛亮(しょかつりょう)の継承者としての沈着さと大局観をも際立たせている。
主要な関係
* 蜀漢(しょくかん)(serves):蔣琬(しょうえん)は生涯にわたって蜀漢(しょくかん)に効力し、劉備(りゅうび)の入蜀から諸葛亮(しょかつりょう)の没後に大権を掌握するまで、つねに蜀漢(しょくかん)政権の重要な支柱であった c:6178。
* 諸葛亮(しょかつりょう)(mentor/predecessor):諸葛亮(しょかつりょう)は蔣琬(しょうえん)の伯楽にして導師である。彼は劉備(りゅうび)が蔣琬(しょうえん)を罰しようとした際にその助命を請うたのみならず、生前から蔣琬(しょうえん)の才能を重んじ、彼を「社稷の器」と称して、密かに後主に表して蔣琬(しょうえん)を自らの継承者に推薦した c:6177。演義においても、諸葛亮(しょかつりょう)の蔣琬(しょうえん)への信任と育成は終始一貫している。
* 董允(とう いん)(friend_of/colleague):董允(とう いん)は蔣琬(しょうえん)とともに蜀漢(しょくかん)後期の重要な輔政の大臣であった。史載では、蔣琬(しょうえん)はかつて疏を上って位を費禕(ひい)と董允(とう いん)に譲ろうとし、「允は内侍歴年、王室を翼賛す、宜しく爵土を賜いて以て勳労を褒むべし」と表奏しており、二人の関係が密接で互いに推崇していたことが見て取れる c:3205。
* 費禕(ひい)(colleague):費禕(ひい)は蔣琬(しょうえん)・董允(とう いん)とともに「四英」と並び称され、諸葛亮(しょかつりょう)の没後の蜀漢(しょくかん)政権の核心的人物であった。蔣琬(しょうえん)はかつて疏を上って益州(えきしゅう)刺史の職を費禕(ひい)に譲ろうとした c:3205。演義においても、費禕(ひい)は蔣琬(しょうえん)とともに後主を輔佐し、共に楊儀(ようぎ)事件を処理した c:13422。
* 楊儀(ようぎ)(rival/subordinate):史実において、楊儀(ようぎ)は魏延(ぎえん)と権を争い、諸葛亮(しょかつりょう)の没後、楊儀(ようぎ)は言葉が不遜であったために貶められた。演義においては、楊儀(ようぎ)は自らの功の高さを恃み、蔣琬(しょうえん)が自らの上に位することに不満を抱き、最終的に怨言を吐いたために庶人に貶められ、羞愧して自刎した c:13422(演義独自、史実では楊儀(ようぎ)は流された後に自殺したが、原因は演義とやや異なる)。
* 魏延(ぎえん)(commands_in):魏延(ぎえん)は蜀漢(しょくかん)の重要な将であり、楊儀(ようぎ)と不和であった。諸葛亮(しょかつりょう)の没後、魏延(ぎえん)は楊儀(ようぎ)と権を争い、最終的に殺された c:6174。演義においては、蔣琬(しょうえん)は魏延(ぎえん)の反叛を処理する一事において、諸葛亮(しょかつりょう)の遺計への信任を示し、魏延(ぎえん)についての判断がより正確であった c:13419(演義独自)。
* 譙周(しょうしゅう)(commands_in):蔣琬(しょうえん)が政を秉ると、譙周(しょうしゅう)を典学従事に任じ、州内の学者を総領させ、教育と人才への重視を示した c:3207。
* 馬謖(ばしょく)(commands_in):演義において、蔣琬(しょうえん)はかつて馬謖(ばしょく)のために助命を請い、その寛厚仁慈を体現した c:6181(演義独自)。
象徴的な場面
* 広都の免官と諸葛亮(しょかつりょう)の助命の請い:蔣琬(しょうえん)が初め広都の長であったとき、政務を理めず、しかも酔っていたために劉備(りゅうび)を怒らせ、罪を加えられようとした。諸葛亮(しょかつりょう)は衆議を排して、彼を「社稷の器」と称し、その助命を請うて、蔣琬(しょうえん)を重罰から免れさせ、その未来の成就を予言した。この事件は蔣琬(しょうえん)の仕途の転換点であるのみならず、諸葛亮(しょかつりょう)の人を識る明をも示している c:3208。
* 諸葛亮(しょかつりょう)の密表の推薦:諸葛亮(しょかつりょう)は生前から蔣琬(しょうえん)に厚い望みをかけ、密かに後主・劉禅(りゅう ぜん)に表して、「臣もし不幸あらば、後事は宜しく以て琬に付すべし」と明確に指摘し、彼を自らの後継者とみなした。これは、諸葛亮(しょかつりょう)の蔣琬(しょうえん)の能力と忠誠への高い認知を体現するとともに、蔣琬(しょうえん)が諸葛亮(しょかつりょう)の没後に円滑に大権を掌握する礎を築いた c:6177。
* 諸葛亮(しょかつりょう)の逝去後「神守挙止、平日のごとし」:諸葛亮(しょかつりょう)が没し、蜀漢(しょくかん)の上下は震動し、人心は惶惶とした。蔣琬(しょうえん)はこのとき「群を抜きて萃を出で、群僚の右に処し、既に戚容なく、又た喜色なく、神守挙止、平日のごとし」、その沈着冷静と威重をもって朝局を安定させ、衆望を勝ち得た c:6178。
* 孟獲(もうかく)南征時の諸葛亮(しょかつりょう)の軍事的部署への憂慮:演義において、蔣琬(しょうえん)は諸葛亮(しょかつりょう)が孟獲(もうかく)を南征した際、瀘水の営寨の設置と孟獲(もうかく)の退守の策に疑問を呈し、その慎重な性格を示した。これらの疑問は諸葛亮(しょかつりょう)の智謀によって化解されたものの、この場面は蔣琬(しょうえん)の輔佐の大臣としての特徴を刻むとともに、諸葛亮(しょかつりょう)の高瞻遠瞩を引き立てた c:13423(演義独自)。
* 楊儀(ようぎ)事件の処理:諸葛亮(しょかつりょう)の没後、楊儀(ようぎ)は蔣琬(しょうえん)の地位への不満から怨言を吐き、あろうことか魏に投ずると言い放った。蔣琬(しょうえん)は劉禅(りゅう ぜん)が楊儀(ようぎ)を斬ろうとした際、楊儀(ようぎ)の功労を念じ、処死せず庶人に貶めることを力主し、その寛厚仁慈な品格と蜀漢(しょくかん)内部の安定を維持する考慮を示した c:13422(演義独自)。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 蔣琬(しょうえん)は物事の処し方が公正で威厳と重みがあり、喜怒を表に出さず、寛大で人々を受け入れ、慎重かつ明晰に決断した。
- 話し方
- 蔣琬(しょうえん)の言葉は平静で公正、自らを抑制しており、常に人を受け入れて争わないことを旨とした。かつて「楚が得臣を殺して文公が喜んだ」という故事を引いて、刑罰を緩めるよう諫めた。
- 生涯
- 蔣琬(しょうえん)は零陵(れいりょう)湘郷の人で、弱冠のころに従弟の劉敏(りゅうびん)と名を並べた。はじめ州の書佐として先主に従って蜀に入ったが、のちに政務を顧みなかったため先主に罪せられて誅殺されそうになり、諸葛亮(しょかつりょう)の弁護を得て官を免じられるにとどまった。亮の没後、尚書令・大将軍・録尚書事・大司馬へと昇り、府を開いて政務を執り、漢中(かんちゅう)に駐屯し、延熙九年に世を去り、恭と諡された。
- 逸話
- 蔣琬(しょうえん)はかつて費詩(ひし)と同席して李鴻の言を聞き、のちに政を執ったとき費詩(ひし)を諫議大夫とした。かつて李厳(りげん)のために助命を願い出て死を免れさせ、また孔明(こうめい)から、自分の百年の後に蜀漢(しょくかん)の大事を託せる者と指定された。
人間関係
10 件の関係
名言
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「以臣愚見,楊儀為人雖稟性過急,不能容物,至於籌度糧草,參贊軍機,與丞相辦事多時,今丞相臨終,委以大事,決非背反之人。魏延平日恃功務高,人皆下之。儀獨不假借,延心懷恨。今見儀總兵,心中不服,故燒棧道,斷其歸路,又誣奏而圖陷害。臣願將全家良賤,保楊儀不反,實不敢保魏延。」
この言葉は蔣琬(しょうえん)の人を見抜く明晰な判断力を示し、楊儀(ようぎ)を力を尽くして守り、魏延(ぎえん)の反心を見抜くもので、その政治的知恵を体現している。
「丞相素疑此人,必有遺計授與楊儀。若儀無恃,安能退入谷口乎?延必中計矣。陛下寬心。」
この一句は魏延(ぎえん)が計に嵌まることを予見しており、蔣琬(しょうえん)が諸葛亮(しょかつりょう)の遺した計略を理解し、情勢を的確に判断していたことを示している。
「某看呂凱所造之寨甚不好,正犯昔日先帝敗於東吳時之地勢矣,倘蠻兵偷渡瀘水,前來劫寨,若用火攻,如何解救?」
この言葉は蔣琬(しょうえん)の軍事的洞察力を体現し、先帝の轍を踏むのを避けるもので、その慎重さと先見の明を示している。
登場回16 回 ▸
- 史ch.33ch.39ch.41ch.42ch.43ch.44ch.45
- 演ch.63ch.87ch.88ch.89ch.96ch.98ch.100ch.104ch.105
関係の年表6 条 ▸
史 ch.39
- 董允(とう いん)§28
friend_of
蒋琬上疏让费祎及允,又表请赐允爵土
史 ch.41
- 費詩(ひし)§44
commands_in
蒋琬秉政以诗为谏议大夫
史 ch.42
- 譙周(しょうしゅう)§56
commands_in
蒋琬领刺史,徙周为典学从事,总州之学者
演 ch.63
- 諸葛亮(しょかつりょう)§24
serves
现为书记;随孔明引兵入川
演 ch.89
- 諸葛亮(しょかつりょう)§19
advises_in
进言班师,孔明不从
演 ch.100
- 劉禅(りゅう ぜん)§19
advises_in
出班奏问"丞相累建大功,何故宣回"
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 丞相が亡くなると、朝廷はたちまち頼みとする者を失い、遠近の人々は不安におののいた。群臣が心中に抱く憂いを、私が知らぬはずもない。しかし、その位に身を置く以上、悲しみのあまり平常の節度を失うわけにはいかない。私は命を受けて尚書令に就き、次いで
- 私は蔣琬(しょうえん)、字は公琰(こうえん)である。建興三年、丞相に従って南へ赴き、漢陽に戻ったところ、降伏した李鴻(りこう)が訪ねてきた。席上、彼が孟達(もうたつ)の昔のことを語るのを聞き、丞相が書簡を送り、連絡を取ろうとしていたことを思
- 私は蔣琬(しょうえん)、字は公琰(こうえん)、零陵(れいりょう)湘郷の人である。若い頃を思い返すと、郷里で私を知る者の中には、名士として見なす者もいた。その後、先主に従って蜀に入り、軍府で務めることになったが、任されたのは書記の職にすぎなか
生涯の大事3 ▸
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