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董允(とう いん)

蜀漢(しょくかん) · 太子舍人/太子洗马/黄门侍郎/侍中/虎贲中郎将/辅国将军/尚书令

董允(とう いん)

登場回
3
台詞の記録
2
人間関係
7
内面の独白
1

史載(Historical Record)

董允(とう いん)、字は休昭、掌軍中郎将の董和(とう か)の子である。先主・劉備(りゅうび)が太子を立てたとき、董允は舎人に選ばれ、後にまた洗馬に遷った。後主・劉禅(りゅう ぜん)が即位した後、彼は黄門侍郎に昇った。丞相・諸葛亮(しょかつりょう)が北伐の準備をし、漢中(かんちゅう)に駐屯していた間、後主・劉禅が年少で是非を弁じがたいことを考慮し、心を秉ること公亮なる董允を推薦して宮中の事を司らせた。諸葛亮は上疏して「侍中の郭攸之(かくゆうし)・費禕(ひい)、侍郎の董允らは、先帝が選び抜いて陛下に遺された者であり、彼らは斟酌し規益し、忠言を尽くすことができます。臣は思いますに、宮中の事は、大小を問わず、いずれも彼らに諮るべきで、必ずや欠漏を補い、益するところがありましょう。もし徳を興す言がなければ、董允らを誅して其の慢を彰すべきです」と指摘した c:3120。諸葛亮は続いて費禕に参軍を担わせ、董允は侍中に昇り、あわせて虎賁中郎将を領して宿衛の親兵を統べた。郭攸之は性情が和順で、ただ員数を備えるのみであり、献納の責は董允が専ら任じた。董允は事を処するにあたり、防範と制約を重んじ、力を尽くして匡正補救した。後主・劉禅はかつて女子を選んで後宮を充たそうとしたが、董允は古の天子の后妃の数は十二を超えず、このとき嬪妃はすでに足りており、これ以上増やすべきではないと考え、終始堅持して従わなかった。後主はこれによって彼をいっそう敬い畏れた。尚書令の蔣琬(しょうえん)が益州(えきしゅう)刺史を兼ねたとき、かつて上疏して費禕と董允に謙譲し、「董允は内侍すること多年、王室を輔佐しており、爵土を賜ってその功労を褒奨すべきです」と表奏した c:3120。しかし董允は堅く辞退して受けなかった。後主・劉禅は次第に長じた後、宦官の黄皓(こうこう)を寵愛した。黄皓は人となりが諂媚狡詐で、あの手この手で這い上がろうとした。董允は常に上に対しては正色して主上を規諫し、下に対しては幾度も黄皓を責めた。黄皓はこれによって董允を懼れ、好き勝手にふるまうことができなかった。董允が在世の間、黄皓の官位は終始黄門丞を超えることができなかった。延熙六年、董允は輔国将軍を加えられた。延熙七年、侍中の身分で尚書令を兼任し、大将軍・費禕の副となった。延熙九年、董允は世を去った。当時、蜀の人々は諸葛亮・蔣琬・費禕ならびに董允を「四相」と並び称し、また「四英」とも称した。 c:3123

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』においても、董允の像は史実における忠誠と正直を秉持している。建興元年(223年)八月、魏が五路の大軍を調えて西川に侵攻したとき、後主・劉禅は諸葛亮が「病に染みて出でず」であったために焦慮した。彼は黄門侍郎の董允と諫議大夫の杜瓊(とけい)を遣わして丞相府に伺いに行かせた。董・杜の二人は諸葛亮に会うことができず、杜瓊は先帝の託孤の重きにもかかわらず、丞相が病を推して出ないことを嘆いた。董允は諸葛亮への信任を示し、太后に進言して「娘娘、軽々しく往かれてはなりませぬ。臣が思いますに丞相には必ず高明の見がありましょう。しばらく主上が先に往かれるのをお待ちください。もし怠慢があれば、娘娘が太廟にて丞相を召して問われても遅くはありませぬ」と述べた c:3124。この一節は董允の諸葛亮の智謀に対する確固たる自信を示すとともに、近臣としての慎重さと君主を護る姿勢を体現している。諸葛亮の没後、楊儀(ようぎ)と魏延(ぎえん)の間に衝突が勃発し、両者は互いに上表して訴え合った。董允は蔣琬とともに後主・劉禅に局勢を分析し、魏延は「功高きを自恃し、常に不平の心を懐き、口に怨言を出す。先に即座に叛かなかったのは、丞相を懼れたためである。今、丞相が新たに亡くなり、機に乗じて乱をなすは、勢いの必然である」と考えた c:13237。彼は楊儀が叛かないことを力をこめて保証し、楊儀は丞相が任用した者であると指摘した。後主・劉禅は彼らの進言を採り、董允に節を仮して魏延を説きに行かせたが、この挙は史実には明確な記載がなく、演義の文学創作に属する。これは董允の蜀漢後期の政局における重要な地位と、局勢の安定への貢献をいっそう強めている。

主要な関係

* 董和(parent_of):董允は掌軍中郎将の董和の子であり、この父子関係は史伝に明確に言及されており c:3120、董允の出自の背景の基礎をなしている。
* 蜀漢(serves):董允は生涯、蜀漢(しょくかん)政権に仕え、先主・劉備の時期の舎人・洗馬から、後主・劉禅の時期の黄門侍郎・侍中・尚書令に至るまで、終始蜀漢の重要な官員であり、心を尽くして朝政を輔佐した c:3120。
* 黄皓(enemy_of):董允と宦官・黄皓の間には明らかな対立関係がある。董允は「上には正色して主を匡し、下には幾度も皓を責めた」ことで、黄皓は董允が在世の間、悪事をなす勇気がなく、官位も高昇することができなかった c:3120。この関係は董允の公正無私で敢えて直諫する性格を体現している。
* 劉禅(advises_in):董允は侍中として、幾度も後主・劉禅に進諫し、とりわけ後宮の選采の問題において「終に執りて聴かず」、劉禅をして「いよいよ厳しく彼を惮らせた」 c:3120。『三国演義』において、董允はまた劉禅に魏延と楊儀の衝突を分析し、進言を提起した c:13237。
* 諸葛亮(recommended_by):諸葛亮の董允に対する信任と重用は、その仕途の鍵である。諸葛亮は北伐の前、わざわざ上疏して董允を推薦し、彼が「心を秉ること公亮」であり、宮省の事を委ねるに足ると考えた c:3120。
* 費禕(colleague_of):董允は費禕とともに諸葛亮が推薦した近臣であり、二人は宮中で共に後主を輔佐した。董允は後に大将軍・費禕の副も務めた c:3123。
* 蔣琬(colleague_of):蔣琬はかつて上疏して董允の功労を表彰し、爵土を賜るよう進言したが、董允に固辞された c:3120。『三国演義』において、二人はまた共に劉禅に魏延の乱を分析した c:13237。
* 郭攸之(colleague_of):郭攸之は董允とともに諸葛亮が推薦した侍中であるが、史書では郭攸之は「性、素より和順、員を備うるのみ」であり、董允は「献納の任、允皆これを専らにせり」と記される c:3120。
* 魏延(advises_on_in):『三国演義』において、董允はかつて魏延の叛反の一件について劉禅に進言し、魏延を説きに遣わされた(演義独自) c:13237。
* 楊儀(advises_on_in):『三国演義』において、董允はかつて楊儀が叛かないことを力をこめて保証し、その才幹が敏達であると指摘した c:13237。

象徴的な場面

* 正色して主を匡し、后妃の増を拒む:董允は後主・劉禅が後宮を拡充しようとしたとき、断固として古制を秉持し、「今、嬪嬙すでに具わり、増益すべからず」とし、「終に執りて聴かず」、劉禅をして彼を「いよいよ厳しく惮らせた」。 c:3120 この場面は董允の剛正不阿で敢えて直諫する品格を十分に示しており、たとえ君主に対しても、少しも退かず、朝綱の清明を維持した。
* 黄皓を力をもって抑え、悪事をなさせず:董允が在世の間、劉禅が寵幸した宦官・黄皓に対し、彼は「上には正色して主を匡し、下には幾度も皓を責めた」ことで、黄皓は「允を畏れ、悪事をなす勇気がなく」、その官位も終始黄門丞を超えることができなかった。 c:3120 これは董允が蜀漢の政治の清明を維持した重要な貢献であり、また邪悪な勢力に対する彼の強硬な態度をも体現している。
* 驂を解いて士に下り、情義を重んじ宴楽を軽んず:董允はあるとき費禕らとともに外出して遊宴しようとし、馬車もすでに整えられていた。郎中の董恢が訪ねてきたが、董恢は年少官微で、董允が外出しようとしているのを見て辞去しようとした。董允はこれを許さず、「私はもともと出かけて同好と語り合うつもりであった。今、君がわざわざ来てくれたのだから、ちょうど存分に語り合える。この語らいを捨てて宴に赴くのは、私の望むところではない」と述べた。そこで彼は人に命じて馬を解かせ、費禕らもこれによって行程を取りやめた。 c:3123 この場面は董允の正を守り士に下り、情義を重んじ宴楽を軽んずる君子の風範を生き生きと刻んでいる。
* 諸葛亮の託孤、宮中の事を悉くこれに諮る:諸葛亮は北伐の前、後主が幼いことを深く知り、わざわざ上疏して董允を推薦し、彼を「心を秉ること公亮」と称し、「宮中の事は、事の大小なく、悉くこれに諮るべし、必ずや欠漏を補い、益するところあらん」と進言した。 c:3120 これは諸葛亮の董允に対する高度な信任であるとともに、董允の蜀漢後期の政治における中核的地位を定めるものでもある。
* 演義における楊儀の擁護と魏延の説得:『三国演義』において、諸葛亮の没後、魏延と楊儀が衝突を起こし、董允は蔣琬とともに劉禅に局勢を分析し、楊儀を力をこめて擁護し、劉禅に魏延を説きに遣わされた(演義独自)。 c:13237 この筋は史実には明確な記載がないが、危急の時に朝局を安定させ、是非を明弁する董允の像をいっそう造形している。

肖像アーカイブ

人物像

性格
心を公正誠実に持ち、政務に当たっては力を尽くして輔佐匡正し、面を正して主君を諫め、しばしば黄皓(こうこう)を責め、正道を守って士人に身を下し、爵位や封土を固辞して受けなかった。費禕(ひい)と名を等しくし、蜀漢(しょくかん)の重臣であった。
話し方
面を正して主君を諫め、しばしば宦官を責めた。
生涯
董和(とう か)の子で、先主が太子を立てた際に舍人に選ばれ、後に洗馬に遷った。後主が位を継ぐと黄門侍郎に遷り、丞相諸葛亮(しょかつりょう)が北征する際、彼を推挙して宮中の事務を主管させた。後に侍中に遷って虎賁中郎将を領し宿衛の親兵を統べ、延熙六年に輔国将軍を加えられ、七年には侍中のまま尚書令を守(代行)して大将軍費禕(ひい)の副貳となり、九年に死去した。
逸話
蜀の人々は彼を諸葛亮(しょかつりょう)・蔣琬(しょうえん)・費禕(ひい)と並べて「四相」と称し、「四英」と号した。彼の存命中、黄皓(こうこう)の職位が黄門丞を超えることは一度もなかった。

人間関係

7 件の関係

台詞

  • 演 ch.85 §25→ 吳氏📍 成都(せいと)

    娘娘未可輕往。臣料丞相必有有高明之見。且待主上先往。如果怠慢,請娘娘於太廟中,召丞相問之未遲。

  • 演 ch.105 §8📍 成都(せいと)

    「魏延自恃功高,常有不平之心,口出怨言。向所以不即反者,懼丞相耳。今丞相新亡,乘機為亂,勢所必然。若楊儀才幹敏達,為丞相所任用,必不背反。」

登場回3 回 ▸
  • 史ch.39
  • 演ch.85ch.105
関係の年表4 条 ▸

史 ch.39

演 ch.85

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は董允(とう いん)、字は休昭(きゅうしょう)である。先帝が私を抜擢して太子舎人に任じ、後主が帝位に就くと、さらに黄門侍郎、侍中の職に就かせてくださったことを思うたび、受けたものは個人的な恩ではなく、託された務めなのだと分かる。丞相が北方
生涯の大事3 ▸