史載(Historical Record)
朱異(しゅい)、字は季文、呉郡呉県(ごけん)の人で、その父は驃騎将軍の朱桓(しゅかん)である。朱異は父の蔭によって出仕し郎官となった。彼は幼少より人並み外れた才華と胆識を示した。『文士伝』の記載によれば、朱異は張惇の子の張純、張俨らと少年の頃に共に驃騎将軍の朱拠(しゅきょ)に拝謁した。朱拠は三人の才能を試そうと、各自に一つの物を賦すよう命じた。朱異は弩を賦して曰く、「南嶽の幹、鍾山の銅、機に応じて命中し、隼を高墉に獲たり」。その辞藻は精妙で、朱拠を大いに感嘆させた。
朱異は後に騎都尉に任じられ、父の朱桓に代わって兵を領した。赤烏四年(241年)、彼は朱然(しゅぜん)に従って魏の樊城(はんじょう)を攻め、その外囲の工事を攻め破る計を献じ、凱旋後には偏将軍に昇進した。魏の廬江(ろこう)太守の文欽(ぶんきん)が六安に多くの屯寨を設け、亡命者や叛逆者を招き入れ、呉国の辺境に脅威を及ぼした。朱異は自ら麾下の二千人を率いて急襲し、一挙に文欽の七つの屯寨を攻め破り、数百を斬首したため、揚武将軍に遷った。孫権(そん けん)が彼と軍事を論じた際、朱異は流れるように応答し、深く孫権の賞識を得た。孫権は朱異の従父の朱拠に対して、「もとより季文が胆の据わっていることは知っていたが、会ってみてさらに聞きしに勝るものであった」と評した。朱異の胆識と軍事の才能が、当時すでに広く認められていたことが窺える。
建興元年(252年)、朱異は鎮南将軍に昇進した。同年、魏の胡遵(こ じゅん)・諸葛誕(しょかつたん)らが軍を率いて東興(とうこう)に出ると、朱異は水軍を督して浮橋を攻め破り、魏軍は大敗した。しかし、朱異の仕途は順風満帆ではなかった。諸葛恪(しょかつかく)に従って新城を囲攻した際、城が久しく攻め落とせなかったため、朱異らは兵を引いて豫章郡(よしょうぐん)へ戻り、石頭城を襲撃するよう建議した。諸葛恪はその建議を採らず、朱異は憤って書信を地に投げ、言辞は激烈であった。その結果、諸葛恪に兵権を奪われ、建業(けんぎょう)へ貶された。
太平二年(257年)、朱異は仮節を与えられ、大都督を務め、軍を率いて魏軍に囲まれた寿春(じゅしゅん)を救援したが、囲みを解くことはできなかった。軍を還した後、彼は権臣の孫綝に害された。『呉書』の記載によれば、孫綝が朱異を召見した際、朱異は陸抗(りくこう)の制止を顧みず、孫綝は身内であって疑うべきではないと考えた。しかし、孫綝は力士に命じて彼を捕らえさせた。朱異は死ぬ間際に「我は呉国の忠臣なり、何の罪あらんや」と叫んだが、最終的に絞め殺された。
演中(In the Novel)
『三国演義』において、朱異は主に第111回と第112回に登場し、その像は史載とは異なる部分があり、軍事将領としての身分と最終的な悲劇的な結末により重点が置かれている。演義では、朱異の登場は孫綝の輔政時期である。魏の諸葛誕が反乱を起こし、東呉に援軍を求めた。孫綝は大将の全懌(ぜんえき)・全端(ぜんたん)を主将とし、朱異・唐咨(とうし)を先鋒とし、文欽を郷導として、七万の大軍を三隊に分けて寿春へ赴かせ、諸葛誕を支援させた。
寿春の戦いにおいて、演義は朱異と文欽が左右に分かれ、諸葛誕と連携して出陣する様を描いている。魏軍の陣形が整わぬ時、諸葛誕が軍を率いて突進し、朱異と文欽は左右の翼となった。しかし、魏軍は伏兵を設け、石苞(せきほう)と州泰(しゅうたい)の二路の兵馬が斬り出てきたため、諸葛誕は大敗し、寿春に退いて固守した。司馬昭(しばしょう)はその後、兵を率いて寿春を囲んだ。演義における、朱異が寿春城外で魏軍と交戦する細部は比較的簡略であり、その具体的な戦術や個人的な働きを詳細に描写しておらず、むしろ諸葛誕の援軍の一員として登場するにとどまる。
演義における朱異が最終的に害される描写は、史実とおおむね一致しているが、新城を囲攻した際の諸葛恪との衝突、および寿春の囲みにおいて囲みを解けなかった細部は省略されている。演義はより直接的に朱異の死を孫綝の残虐と猜疑に帰し、孫綝が忠良を濫殺する像を強調しており、朱異はその暴政の下の犠牲者となっている。
主要な関係
* 朱桓(parent_of):朱異の父、父の蔭によって出仕した。
* 朱然(fights_in):朱異はかつて朱然に従って魏の樊城を攻めた。
* 文欽(rival_of):魏の廬江太守の文欽はかつて屯寨を設けて辺境を騒がせ、朱異は軍を率いてこれを撃破した。後に文欽が偽りの降を申し出ると、朱異はその計略を見破ったが、孫権はなお受け入れることを決め、呂拠(りょきょ)を朱異とともに迎えに行かせた。演義では、二人はまた共に東呉の援軍の先鋒として、諸葛誕を支援した。
* 諸葛恪(enemy_of):朱異はかつて軍事上の意見の相違から、諸葛恪に兵権を奪われ建業へ貶された。
* 孫綝(enemy_of):孫綝は朱異が最終的に害されることを招いた権臣である。朱異は寿春の囲みを解くことに失敗した後、孫綝にいわれのない罪を着せられて殺害された。演義では、孫綝は朱異を遣わして諸葛誕を支援させたが、最終的にはなお孫綝の暴政が朱異の悲劇的な結末を招いた。
* 諸葛誕(fights_in):寿春の戦いにおいて、朱異は東呉の援軍として、文欽とともに諸葛誕を支援して魏軍に対抗した。
象徴的な場面
* 少年にして弩を賦し才華を示す:朱異は少年の頃に張純・張俨とともに朱拠に拝謁し、朱拠が三人に各自一つの物を賦すよう命じると、朱異は弩を賦し、辞藻は精妙で、その早熟と文才を示した。
* 文欽を奇襲して七屯を破る:朱異は二千人を率いて文欽の七つの屯寨を夜襲し、数百を斬首し、その胆識と軍事指揮の能力を示し、深く孫権の賞賛を得て「胆定」と称された。
* 東興の戦いにて浮橋を破る:朱異は水軍を督して魏軍の浮橋を攻め破り、東興の大捷に功を立てた。
* 寿春にて魏を援ける(演義独自):『三国演義』において、朱異は東呉の援軍の先鋒として、文欽とともに諸葛誕を支援し、寿春の戦いに参加した。
* 孫綝を疑わず濫殺に遭う:朱異は陸抗の制止を顧みず、孫綝に会いに行き、最終的に「呉国の忠臣」の名のまま孫綝に濫殺され、孫綝の専権跋扈の犠牲者となった。
人間関係
8 件の関係
登場回5 回 ▸
- 史ch.28ch.56ch.64
- 演ch.111ch.112
関係の年表7 条 ▸
史 ch.28
- 文欽(ぶんきん)§21
rival_of
憎疾
史 ch.56
- 朱然(しゅぜん)§48
fights_in
赤乌四年随朱然攻魏樊城,建计破其外围
- 文欽(ぶんきん)§48
fights_in
掩破文钦七屯斩首数百;后文钦诈降密书与异欲令自迎,异表呈陈伪
- 胡遵(こ じゅん)§48
fights_in
东兴之役异督水军攻浮梁壞之,魏军大破
- 諸葛誕(しょかつたん)§48
fights_in
同上,东兴之役
史 ch.64
- 諸葛恪(しょかつかく)§24
rival_of
有所是非,恪怒立夺其兵
- 孫綝(そん ちん)§56
dies_in
救诸葛诞败退;綝授兵令死战不从,斩之于镬里
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は朱異(しゅい)、字は季文(きぶん)である。今まさに戦事が目前に迫るなか、これまで見聞きし、行ってきたことを振り返ると、最も忘れがたいのは一時の名声ではない。陣に臨んだとき、策が軍を救えるか、忠言が耳に入るかということだ。若い頃、私は張純
生涯の大事4 ▸
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