背景
孫権(そん けん)の晩年における後継者問題と二宮事件(にきゅうじけん)は、江東第一世代の功臣集団の活力を消耗させた。陸遜(りくそん)は憂憤のうちに死に、張昭(ちょうしょう)の系統は衰え、顧雍(こよう)・諸葛瑾(しょかつきん)も相次いで世を去った。孫権(そん けん)は臨終に際して諸葛恪(しょかつかく)を首席の後見役とし、滕胤(とういん)・呂拠(りょきょ)・孫弘・孫峻(そん しゅん)を副に配したものの、その構図はもはや赤壁(せきへき)の時代における周瑜(しゅうゆ)・魯粛(ろしゅく)が江北流寓の士族を核として「軍政共治」を実現していたあのころの姿ではなく、宗室の武人を頼りに百官を押さえつける脆弱な均衡であった。構造的に見れば、後見の班子のなかで宗室の将領は孫峻(そん しゅん)だけであり、しかも禁衛軍を握っていた。いったん諸葛恪(しょかつかく)が新城での戦いの敗北を経て帰還し、民心の怨嗟が沸騰すれば、権力の天秤は禁衛を掌握するこの若き宗室の側へ容易に傾く。孫峻(そん しゅん)・孫綝兄弟がその後五年にわたって専権を振るったことは、本質的には孫権(そん けん)晩年の制度的設計の副産物であった。
主要人物
孫峻(そん しゅん)、字は子遠、孫堅(そん けん)の弟・孫静(そん せい)の曾孫、孫恭(そん きょう)の子であり、年若く輩行は遠かったが、禁衛軍を掌握していたために政変の最適な実行者となった。孫綝は孫峻(そん しゅん)のいとこの弟で、性情はいっそう疑い深く残酷であり、孫峻(そん しゅん)の死後に大権を引き継いだ際にはもはや孫峻(そん しゅん)が持っていた「呉主のために奸臣を除く」という名分の外衣もなく、純粋な恐怖政治によってのみ支配を維持することができた。孫峻(そん しゅん)・孫綝によって相次いで粛清された反対勢力としては、滕胤(とういん)(孫峻(そん しゅん)の名目上の同盟者だったが、最終的に孫綝の専権後に呂拠(りょきょ)と連携して孫綝に反し、失敗して殺された)、呂拠(りょきょ)(淮南都督、孫綝に反して兵敗し自殺)、さらに孫仪・孫邵(そん しょう)綝恂らの宗室が含まれる。幼主の孫亮(そん りょう)は十歳で即位して以来終始宗室の手の中の操り人形であった。孫休(そん きゅう)は孫綝の専権末期に新たな君主として擁立されたが、最終的には孫綝を倒す鍵となった。
核心的論点
この時期の核心的な論点は三つある。第一は宗室と百官の関係である。孫峻(そん しゅん)は宗室として諸葛恪(しょかつかく)を誅殺し、「君側の奸を清める」ことで威を立てようとしたが、彼と孫綝はその後、宗室の権力を大規模に拡張して執政を家門の世襲にしてしまい、東呉の政権はたちまち「君臣共治」から「宗室軍政府」へと滑落した。第二は禁衛軍の掌握問題である。孫峻(そん しゅん)が殿堂に伏兵を置いて諸葛恪(しょかつかく)を誅殺できたのは禁衛軍を握っていたからであり、孫綝も同様に中軍と宿衛の掌握によって君主の廃立を行った。これは東呉の禁衛体制に宗室を牽制する設計がまったく存在しないことを露呈した。第三は対外軍事の方向性である。孫峻(そん しゅん)の執政期間中、一時北上して寿春(じゅしゅん)を急襲しようとしたことがあり、曹魏(そうぎ)内部の毌丘倹・文欽(ぶんきん)による淮南の反乱に呼応しようとしたが、協調に失敗して留賛(りゅうさん)が途中で病死したため、何の成果も得られずに終わった。これは宗室主政下における東呉の軍事的リズムの混乱を反映している。
政治的後果
最も直接的な後果は東呉中枢の「流官化」であった——滕胤(とういん)・呂拠(りょきょ)ら資深の士族大臣が相次いで誅殺され、二宮事件(にきゅうじけん)ですでに元気を損なっていた文官集団がさらに空洞化し、呉国は「宗室独大・士族不在」の局面へと入っていった。次いで、君臣の信頼が完全に崩壊した。孫亮(そん りょう)は孫峻(そん しゅん)が自分の目前で伏兵によって諸葛恪(しょかつかく)を殺すのを目の当たりにし、孫綝が自分を会稽(かいけい)王として廃するのを見た後、宗室への信頼を二度と持てなくなった。この心理的陰影は孫休(そん きゅう)・孫皓(そん こう)の両朝にまで引き継がれ、最終的には孫皓(そん こう)の時代における宗室への極端な猜疑と粛清へと演化した。第三に軍事の衰退がある。北線の寿春(じゅしゅん)急襲は失敗し、夷陵(いりょう)以来育ってきた将才は内紛の中で半数以上失われ、陸抗(りくこう)が成長して台頭するまでの間、呉国には周瑜(しゅうゆ)・陸遜(りくそん)のような統帥がいなくなってしまった。
反事実的推論
仮に孫権(そん けん)が臨終に際して孫峻(そん しゅん)を補佐の班子に入れず、諸葛恪(しょかつかく)・滕胤(とういん)・呂拠(りょきょ)の三名の非宗室が共に治めていたなら、諸葛恪(しょかつかく)が新城で敗れたとしても、一夜の伏兵による誅殺には至らず、せいぜい罷免される程度だったかもしれない。そうなれば東呉は続く五年の宗室専権と内紛を免れ、陸抗(りくこう)世代の将才をより早く前面に押し出し、蜀漢の滅亡(しょくかんのめつぼう)後の西線の圧力により効果的に対応できたであろう。反対に、孫峻(そん しゅん)が早死せず孫綝が後を継がなかったとすれば、孫峻(そん しゅん)がなお保持していた「奸臣を誅した」という世論的資本によって、彼は体制内で司馬師(しばし)のような安定した執政者へと徐々に移行する可能性さえあった。東呉の崩壊のペースは遅くなっただろうが、終局は変わらなかっただろう。いずれの分岐路においても、孫権(そん けん)晩年が残した「宗室が禁衛軍を握り幼主が後を継ぐ」という組み合わせは、すでに呉国を制度的危機の軌道へと押し込んでいた。専権はその外形的な表れにすぎない。
