言語
張

孫呉(そんご) · 中军督

張布(ちょうふ)

登場回
6
台詞の記録
2
人間関係
5
内面の独白
1

史実(Historical Record)

張布(ちょうふ)、三国(さんごく)時代の孫呉(そんご)の重要な官員であり、その生涯の事績は主に孫休(そん きゅう)、孫皓(そん こう)の二朝に集中している。孫休が即位した当初、権臣の孫綝が専権して跋扈し、謀反を図ろうとしているのに鑑みて、密かに張布と対策を相談した c:1648。張布は孫休に丁奉(ていほう)を推薦し、丁奉は文書に長けてはいないが、計謀が人並み外れており、大事を決断できると考えた c:10416。孫休は張布の進言を採り、丁奉を召見し、共に孫綝の誅殺を謀った。腊会の席上で、丁奉と張布は互いに呼応し、孫綝とその一党を一網打尽にすることに成功した c:10416。事後、孫休は詔を下して張布を嘉賞し、その「姦臣を討つ」を称え、張布を中軍督に加封し、その弟の張惇を都亭侯に封じ、兵三百人を与え、もう一人の弟の張恂を校尉とした c:5283。

孫休の在位期間、張布は深く寵幸を受け、官は左将軍に至り、丞相の濮陽興(ぼくようこう)と互いに結託して、権勢は朝野を傾け、邦内を失望させた c:1649。張布の権勢は孫休の日常の決断にまで影響を及ぼした。たとえば、孫休はかつて博士祭酒の韋昭(いしょう)を招いて侍講させようとしたが、張布はその「近習の寵幸にして、事行に玷多し」とのゆえに、また韋昭が古今をもって孫休を警戒させることを恐れて、頑なに韋昭の入宮侍講を阻んだ。孫休はこれを深く不満としたが、最終的に思いを遂げることはできなかった c:1650。

永安(えいあん)七年(264年)七月、孫休が崩じた。左典軍の万彧(ばんいく)は素より烏程侯の孫皓と親しく、そこで濮陽興と張布に孫休の太子を廃し、孫皓を君に立てるよう勧めた。濮陽興と張布は最終的に万彧の進言を採り、孫皓を迎え立てた c:1649。孫皓が即位すると、濮陽興を侍中に加封し、青州(せいしゅう)牧を領させた。しかし、よい時は長く続かず、万彧はほどなく孫皓に讒言し、濮陽興と張布が孫皓を立てたことを後悔していると誣告した。同年十一月朔日、孫皓はこれに乗じて濮陽興と張布を収捕し、彼らを広州(こうしゅう)に流し、途中で追い殺し、三族を夷滅した c:1649。

演義(In the Novel)

『三国演義』において、張布の形象は史実とおおむね一致し、主にその孫綝誅殺への参与と孫皓擁立というこの二大事件を中心に展開するが、いくつかの細部については文学的加工と渲染が施されている。

孫綝の誅殺について、演義はより生き生きと描いている。孫綝が孫休にその牛酒を受け入れられず怨言を生じ、張布の府上で酒の後に本音を吐いて「吾、早晩にお前に見せてやる」と言った折、張布はこれを聞いて「唯唯と答えるのみ」で、翌日には宮に入って密かに孫休に奏し、孫休を「大いに懼れ、日夜不安」にさせた c:1651。この筋立ては、孫綝の陰謀の摘発における張布の肝心な役割を際立たせるとともに、その後の誅殺行動の伏線ともなった。演義において、張布は同じく丁奉を推薦し、丁奉、魏邈、施朔らとともに策を練り、張布が「内応」を担い、最終的に孫綝を除くことに成功した c:1651。この一段の描写は、孫休政権の安定における張布の貢献を強めている。

一方、孫皓を擁立する出来事において、演義の描写は史実といささか異なるが、核心の筋立ては一致している。孫休が病死した後、丞相の濮陽興は太子の孫𩅦を立てようとしたが、左典軍の万彧は孫𩅦が幼いことを挙げ、烏程侯の孫皓を立てるよう進言した。このとき、左将軍の張布は明確に態度を表した。「皓は才識明断にして、帝王たるに堪う」 c:10415 その一言は、群臣の議論の中で肝心な推進の役割を果たし、最終的に孫皓の即位(そんこうのそくい)を促した。演義には万彧の讒言によって張布が殺される筋立てが明確には言及されていないが、張布の最終的な結末は史実と同じく、すなわち孫皓に害された(演義のみ。『演義』の材料には殺害の細部は明確に言及されていないが、孫皓擁立後にほどなく失勢して殺されたことは史実である)。

主要な関係

* 孫呉(serves):張布は孫呉政権の重要な官員であり、孫休、孫皓の二朝を経て、とりわけ孫休の時代には深く寵信を受け、権勢が朝野を傾けた c:1649。
* 孫休(master/confidant):孫休が即位した後、張布はその重要な腹心の臣であり、権臣の孫綝を誅殺する重大な決断に参与し、これによって高位を得た。孫休は彼に信任を寄せたが、ある事務においては彼に対していささか忌憚と不満を抱いた。韋昭の侍講を阻んだ件のごとくである c:1650。
* 丁奉(friend_of/collaborator):孫綝を誅殺する行動において、張布は孫休に丁奉を推薦し、丁奉と緊密に協力して、共に孫綝を除く計を練り実行した c:10416。二人は重要な盟友かつ協力者である。
* 孫綝(enemy_of):張布は孫綝の政治的対手の一人であり、孫綝の除去行動に積極的に参与した。孫綝はかつて孫休にその牛酒を受け入れられず怒り、転じて張布の府上に行って酒を飲み、酒の後に孫休への不満を表し、張布はすぐさま孫休に告発した c:1651。
* 濮陽興(ally/collaborator):孫休の後期、張布は丞相の濮陽興と互いに結託し、権勢が盛んで、邦内を失望させた。孫皓を擁立する出来事においても、二人は共に決断を下した c:1649。
* 孫皓(betrayed_by):張布は孫皓を擁立した肝心な人物の一人であったが、孫皓は即位後、讒言を信じて、張布とその三族を誅殺した c:1649。
* 万彧(collaborator/betrayer):万彧は孫皓擁立の提議者であり、張布はその進言を採った。しかし、万彧は後に孫皓に讒言し、張布を殺害に至らしめた c:1649。
* 韋昭(enemy_of):張布は個人的な私利と権力の維持のために、孫休が韋昭を招いて侍講させるのを阻み、孫休の韋昭の重用を実現させなかった c:1650。

象徴的な場面

* 綝を誅す密謀:孫休が即位した後、権臣の孫綝の専横に直面し、張布と密かに対策を相談した。張布は丁奉を推薦し、丁奉と共に策を練り、最終的に腊会で孫綝を除くことに成功し、孫呉の政局を安定させた。この出来事は孫休の朝における張布の地位を定めた c:10416。
* 酒の後の告密:孫綝が孫休にその牛酒を受け入れられず怨恨を生じ、張布の府上で酒の後に不満の言を吐き、「吾、早晩にお前に見せてやる」と言った。張布はすぐさま孫休に密報し、直接に孫休の孫綝への警戒と孫綝を除く決意を促した c:1651(演義のみ。ただし史実にも張布が孫休に孫綝の「怨みを懐き上を侮り反を図らんと欲す」を告発する筋立てがある c:1648)。
* 侍講を阻む:孫休は博学多才な韋昭を招いて侍講させようとしたが、張布はその「近習の寵幸にして、事行に玷多し」のゆえに、また韋昭が古今をもって孫休を警戒させることを恐れて、頑なに韋昭の入宮を阻んだ。この出来事は、張布の朝中における権勢と、自らの利益を維持するために君主の決断に干渉する行いを示している c:1650。
* 孫皓を擁立す:孫休が崩じた後、張布は濮陽興らの大臣と万彧の進言の下、孫休の太子を廃し、烏程侯の孫皓を君に改め立てた。張布はその中で肝心な推進の役割を果たし、孫皓が「才識明断にして、帝王たるに堪う」と明確に述べた c:10415。しかし、この決定は最終的に彼自身の悲劇的な結末をも招いた。
* 身死し族滅す:孫皓が即位してほどなく、万彧の讒言を信じて、自らを擁立した張布と濮陽興を収捕し、流刑の途中で追い殺し、三族を夷滅した。これは張布の政治生涯の終焉を示すとともに、孫皓の残暴で疑い深い性質をも反映している c:1649。

肖像アーカイブ

人物像

性格
孫休(そん きゅう)の寵臣にして腹心であり、丁奉(ていほう)・濮陽興(ぼくようこう)らとともに孫綝の誅殺を謀り、孫皓(そんこう)を擁立した。
生涯
孫休が琅邪(ろうや)王であったとき、張布(ちょうふ)はその左右将督であった。彼は孫休が孫綝を誅殺するのを助けたが、孫皓の即位(そんこうのそくい)ののちに殺された。
逸話
かつて長水校尉・輔義将軍・永康侯・中軍督・驃騎将軍を務め、のちに左将軍となった。彼はかつて韋昭(いしょう)の侍講を妨げた。

人間関係

5 件の関係

台詞

  • 史 ch.55 §95→ 孫休(そん きゅう)

    「丁奉雖不能吏書,而計略過人,能斷大事。」

  • 演 ch.120 §1→ 濮陽興(ぼくようこう)📍 建業(けんぎょう)

    「皓才識明斷,堪為帝王。」

登場回6 回 ▸
  • 史ch.48ch.55ch.64ch.65
  • 演ch.113ch.120
関係の年表4 条 ▸

史 ch.64

史 ch.65

演 ch.113

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は張布(ちょうふ)、字はもはや考証できない。永安(えいあん)元年、孫休(そん きゅう)が即位したばかりの頃、宮中も外朝も、すべて孫綝兄弟に牛耳られていた。一門から五人が侯に封じられ、禁兵を掌握し、その権勢はほとんど君主に並ぶほどだった。陛
生涯の大事6 ▸