言語
滕

孫呉(そんご) · 太常

滕胤(とういん)

登場回
4
台詞の記録
5
人間関係
6
内面の独白
1

史载(Historical Record)

滕胤(とういん)、字は承嗣、北海郡(ほっかいぐん)劇の人である。その伯父の滕耽、父の滕冑は劉繇(りゅう よう)と同郷の世交であり、世の乱れのために江を渡って劉繇(りゅう よう)に身を寄せた。孫権(そん けん)が車騎将軍であった時、滕耽は右司馬に任じられ、寛厚で知られたが、惜しくも早世して嗣子がなかった。滕冑は文辞に長け、孫権(そん けん)は賓客の礼をもって遇し、軍国の書疏はしばしば彼に潤色させたが、これもまた不幸にして早く亡くなった。

孫権(そん けん)が呉王を称した後、旧恩を追念して、滕胤(とういん)を都亭侯に封じた。滕胤(とういん)は幼くして節操があり、容貌は俊美であった。『呉書』の記載によれば、彼は十二歳の時すでに孤身でありながら、よく自らを律し、行いが端正であった。その人は肌色が白皙で、威儀に見るべきものがあり、正朔の朝賀のたびに、在位の大臣で賞賛し感嘆しない者はいなかった。弱冠の年、滕胤(とういん)は公主を娶った。三十歳に至り、丹楊太守として起家し、後に呉郡、会稽(かいけい)太守に転任し、赴くところみな称賛を受けた。『呉書』によれば、滕胤(とういん)はしばしば上表して時宜および民間の優劣を陳べ、匡弼の言が多かった。孫権(そん けん)はこのためますます公主を重んじ、しばしば滕胤(とういん)を見舞い慰問した。滕胤(とういん)は案件を審理する際、言を察し色をうかがい、情理を尽くすことに努め、冤屈や悲苦の人に遇うと、しばしばこれがために涙を流した。

太元元年(251年)、孫権(そん けん)が病重くなり、滕胤(とういん)を都に召し、太常に留任させた。彼は大将軍諸葛恪(しょかつかく)らとともに遺詔を受けて太子孫亮(そん りょう)を輔佐した。翌年四月、孫権(そん けん)が崩じ、太子孫亮(そん りょう)が即位し、天下に大赦し、改元した。孫亮(そん りょう)が即位した後、滕胤(とういん)は衛将軍を加えられた。

諸葛恪(しょかつかく)が大挙して魏を伐つことを計画すると、滕胤(とういん)はかつて進諫して諫め止めた。彼は、諸葛恪(しょかつかく)が国家の新喪の際に、伊霍の託を受け、内には朝政を安んじ、外には強敵を挫き、声名遠く揚がり、万民は彼が国家を安定させることを期待していると指摘した。しかし、この時もし労役の後に再び兵を興して出征すれば、百姓は疲弊し、遠方の敵もまた備えがある。もし城を攻めて克てず、野戦で獲るところがなければ、恐らくは前功を失って後責を招くであろう。彼は諸葛恪(しょかつかく)に、兵を休めて養い、機を待って動くに如かずと建議した。滕胤(とういん)は、軍事は国家の大事であり、衆人の力を集める必要があり、もし衆人が喜ばなければ、諸葛恪(しょかつかく)一人がどうして安定させられようかと強調した。しかし、諸葛恪(しょかつかく)は反対者を皆、目先が短く苟安(こうあん)な者とみなし、滕胤(とういん)の言を聞かず、なお魏を伐つことを堅持した。彼は滕胤(とういん)を都下督に任じ、留守の事務を総領させた。滕胤(とういん)は昼は賓客を引見し、夜は文書を批閲し、時には徹夜して眠らないこともあった。『呉書』の記載によれば、滕胤(とういん)は寵任が日々高まるにつれ、士を接するのにますます勤め、表奏や書疏は皆自ら意を経て、下属に手を借りなかった。

孫峻(そん しゅん)が死んだ後、その従弟の孫綝がその位を継ぎ、朝政を総領した。呂拠(りょきょ)はこれに深く不安を覚え、諸督将と連名で上表して滕胤(とういん)を丞相に推薦した。孫綝は滕胤(とういん)を大司馬に任じ、呂岱(りょたい)に代えて武昌(ぶしょう)を守らせた。呂拠(りょきょ)は兵を引いて還り、人を遣わして滕胤(とういん)に告げ、共に孫綝を廃そうとした。孫綝はこれを聞くと、従兄の孫慮(そん りょ)を遣わして兵を率い江都で呂拠(りょきょ)を阻截させ、文欽(ぶんきん)、劉纂(りゅう さん)、唐咨(とうし)らに合力して呂拠(りょきょ)を攻めるよう命じた。同時に、孫綝は侍中左将軍の華融、中書丞の丁晏を遣わして滕胤(とういん)に呂拠(りょきょ)の事を告げ、滕胤(とういん)に速やかに赴任するよう暗示した。滕胤(とういん)は禍が将に至ろうとしているのを察し、華融、丁晏を留め、兵を勒して自衛し、典軍の楊崇、将軍の孫咨を召集して、孫綝の作乱を告げ、華融らに強いて孫綝を駁する書を書かせた。孫綝は聞かず、上表して滕胤(とういん)が謀反したと称し、将軍劉丞に封爵を許諾して、兵を率いて急ぎ滕胤(とういん)を攻めるよう命じた。滕胤(とういん)はまた華融らを劫して、偽詔をもって兵を発しようとした。華融らは従わず、滕胤(とういん)はついに彼らを全て殺害した。

危局に直面して、滕胤(とういん)は顔色を変えず、談笑は常のごとくであった。ある者が彼に兵を引いて蒼龍門に至るよう勧め、将士たちが彼が城を出るのを見れば、必ず孫綝を捨てて彼に帰附するだろうと考えた。当時すでに夜半であり、滕胤(とういん)は呂拠(りょきょ)との約定に望みをかけ、また富春を攻めることを憚った。彼は部曲を束ね、呂拠(りょきょ)がすぐ近くにいると称し、このため部曲は皆滕胤(とういん)のために死を尽くすことを願い、一人も離散しなかった。しかし、当時は大風で、夜明けに至るまで、呂拠(りょきょ)はなお到着しなかった。孫綝の軍は大挙して囲攻し、最終的に滕胤(とういん)およびその数十名の将士を殺害し、その三族を夷滅した。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』において、滕胤(とういん)の形象は史実と異なるところがあり、とりわけ諸葛恪(しょかつかく)の死の一件において、演義は顕著な文学的創作を行っている。小説では、孫峻(そん しゅん)が諸葛恪(しょかつかく)にその御林軍の兵権を奪われたことを恨んでいる。この時、太常卿の滕胤(とういん)は諸葛恪(しょかつかく)と素より嫌隙のある者として描かれ、彼はこの機に乗じて孫峻(そん しゅん)に進言し、諸葛恪(しょかつかく)が専権恣虐で公卿を殺害し、不臣の心がある恐れがあると指摘し、孫峻(そん しゅん)に早く手を打つよう唆した。

その後、孫峻(そん しゅん)は滕胤(とういん)とともに呉主孫亮(そん りょう)に拝謁し、諸葛恪(しょかつかく)の罪行を密奏した。孫亮(そん りょう)は、自分も諸葛恪(しょかつかく)に恐れを抱いているが、彼を除く機会がないことに苦しんでいると表明した。滕胤(とういん)は計を献じ、孫亮(そん りょう)に宴を設けて諸葛恪(しょかつかく)を宮中に召し、武士を帷帳の中に伏せ、杯を投げるのを合図に、宴席で彼を殺し、後患を絶つよう建議した。この筋は史書には明確な記載がなく、史実では孫峻(そん しゅん)が独りで諸葛恪(しょかつかく)の誅殺を謀り実施したのであって、滕胤(とういん)はその中に参与しておらず、むしろ諸葛恪(しょかつかく)の親近の人であり、ひいては諸葛恪(しょかつかく)が遇害する前にその慎重を勧めたほどである。

演義では、諸葛恪(しょかつかく)が宴に赴く前、まず黄犬が衣を銜え、続いて車前に白虹が天を衝いて現れ、いずれも凶兆であった。腹心の将である張約もかつて宮中の宴に不測があるかもしれないと密告し、軽々しく入るなと勧めた。諸葛恪(しょかつかく)はこれを聞いて車を回そうとしたが、孫峻(そん しゅん)と滕胤(とういん)に追いつかれた。滕胤(とういん)は偽って諸葛恪(しょかつかく)を説き、呉主は彼の軍が還ってからまだ面叙していないので、特に宴を設けて召し大事を議すのであり、たとえ体調が優れなくとも勉めて赴くべきだと言った。この細部はさらに、滕胤(とういん)の演義における孫峻(そん しゅん)の幇助者としての形象を造形し、史実における彼と諸葛恪(しょかつかく)の親近な関係と対照をなしている。

宴席で、諸葛恪(しょかつかく)は疑念を抱き、飲酒を辞退した。孫峻(そん しゅん)は諸葛恪(しょかつかく)の府中で常に薬酒を服していると言い、取り寄せて飲むよう勧めた。諸葛恪(しょかつかく)はそこで人に府に戻って薬酒を取らせ、ようやく安心して飲んだ。これは史実において諸葛恪(しょかつかく)が宴席で孫峻(そん しゅん)に突然襲われ、剣を抜く間もなく殺害された筋とは大いに異なる。演義はこれらの細部を通じて、滕胤(とういん)を、諸葛恪(しょかつかく)を謀略し誘い騙すことに参与した陰険な役柄として造形し、史実における、正直忠誠で、最終的に孫綝と同流合汚することを望まぬために殺害された悲劇の人物とは違うものにしている。

关键关系

* 孫呉(そんご)(serves):滕胤(とういん)は幼くして孫権(そん けん)に重んじられ、都亭侯に封じられ、後に公主を娶った。孫権(そん けん)が病重くなった際、彼は諸葛恪(しょかつかく)とともに遺詔を受けて太子孫亮(そん りょう)を輔佐し、孫亮(そん りょう)即位後に衛将軍を加えられ、孫呉(そんご)政権の重要な輔政大臣であった。
* 諸葛恪(しょかつかく)(friend_of):史実では、滕胤(とういん)は諸葛恪(しょかつかく)と関係が親厚であった。諸葛恪(しょかつかく)が魏を伐つ前、滕胤(とういん)はかつて進諫して諫め止め、友人への気遣いと国事への憂慮を示した。諸葛恪(しょかつかく)が遇害する前、散騎常侍の張約、朱恩がかつて密書で諸葛恪(しょかつかく)に宮中の異常を告げ、諸葛恪(しょかつかく)もこの書を滕胤(とういん)に示しており、二人の関係の密接さがうかがえる。滕胤(とういん)は当時諸葛恪(しょかつかく)に引き返すよう勧めたが、諸葛恪(しょかつかく)は聞かなかった。しかし、『三国(さんごく)演義』では、滕胤(とういん)は諸葛恪(しょかつかく)と嫌隙があり、孫峻(そん しゅん)とともに諸葛恪(しょかつかく)の誅殺を密謀した幇助者として描かれている(演義独自)。
* 孫峻(そん しゅん)(enemy_of):『三国(さんごく)演義』では、滕胤(とういん)は孫峻(そん しゅん)とともに諸葛恪(しょかつかく)の誅殺を密謀し、孫峻(そん しゅん)の同盟者である(演義独自)。しかし史実では、滕胤(とういん)と孫峻(そん しゅん)には直接の衝突がなく、その主要な矛盾は孫綝との間にあった。
* 孫綝(enemy_of):孫綝が孫峻(そん しゅん)に代わって権を掌握した後、滕胤(とういん)は呂拠(りょきょ)らに丞相として推挙されたうえ、孫綝の取り計らいに従うことを望まなかったため、最終的に孫綝と衝突した。滕胤(とういん)は孫綝の転任を拒み、呂拠(りょきょ)と連合して孫綝を廃そうとし、最終的に孫綝に攻め殺され、三族を夷滅された。

标志性场景

* 遺詔を受けて輔政する:太元元年(251年)、孫権(そん けん)が病重くなり、滕胤(とういん)を都に召して太常に留任させ、諸葛恪(しょかつかく)らとともに遺詔を受けて太子孫亮(そん りょう)を輔佐した。この事件は、滕胤(とういん)が正式に孫呉(そんご)政権の権力の中核に入り、顧命大臣となったことを示している。
* 諸葛恪(しょかつかく)の魏伐ちを諫め止める:諸葛恪(しょかつかく)が大挙して魏を伐つことを計画した際、滕胤(とういん)はかつて直言して進諫し、魏伐ちのリスクと弊害を指摘し、兵を休めて養うよう勧めた。諸葛恪(しょかつかく)は従わなかったが、この場面は滕胤(とういん)が輔政大臣としての先見の明と忠誠正直を示している。
* 士を接するに勤め、表奏は自ら意を経る:滕胤(とういん)は輔政の期間、寵任が日々高まったが、ますます勤勉に士人を引見し、すべての表奏や書疏を自ら目を通して処理し、他人に手を借りなかった。これは彼の勤勉尽責、事必躬親の為政の風格を体現している。
* 孫綝に従うを拒み、兵敗れて殺される:孫綝が権を掌握した後、滕胤(とういん)を都から出そうとした。滕胤(とういん)は禍が及ぶことを察し、従うことを望まず、呂拠(りょきょ)と連合して孫綝を廃そうとした。彼は孫綝の使者を留め、兵を勒して自衛し、危局に直面してもなお談笑自若であった。最終的に呂拠(りょきょ)が適時に駆けつけられなかったために、孫綝に攻め殺され、三族を夷滅された。この場面は滕胤(とういん)の忠烈節操の集中的な体現であり、また彼の悲劇的運命の終点でもある。
* 諸葛恪(しょかつかく)の誅殺の密謀に参与:『三国(さんごく)演義』では、滕胤(とういん)は孫峻(そん しゅん)とともに密謀し、孫亮(そん りょう)に宴を設けて諸葛恪(しょかつかく)を誅殺するよう計を献じた鍵となる人物として描かれている。彼はさらに諸葛恪(しょかつかく)が宴に赴く前、孫峻(そん しゅん)とともに諸葛恪(しょかつかく)を宮中に入るよう説得し、諸葛恪(しょかつかく)の死を促した(演義独自)。

人間関係

6 件の関係

名言

全 5 件の台詞 · 厳選 2 件

「陛下可設席召恪,暗伏武士於壁衣中,擲盃為號,就席間殺之,以絕後患。」

演 第108回📍 建業(けんぎょう)

この計略は滕胤の果断さと権謀を示し、『三国演義』における奸を除く名場面である。

「君以喪代之際,受伊、霍之託,入安本朝,出摧強敵,名聲振於海內,天下莫不震動,萬姓之心,冀得蒙君而息。今猥以勞役之後,興師出征,民疲力屈,遠主有備。若攻城不克,野略無獲,是喪前勞而招後責也。不如案甲息師,觀隙而動。且兵者大事,事以眾濟,眾苟不悅,君獨安之?」

史 第64回→ 諸葛恪(しょかつかく)📍 建業(けんぎょう)

この諫言は、滕胤の深遠な戦略的見識と民の苦しみへの心配りを示し、歴史的意義を持つ。

登場回4 回 ▸
  • 史ch.48ch.64
  • 演ch.108ch.111
関係の年表4 条 ▸

史 ch.64

演 ch.108

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は滕胤(とういん)、字は承嗣(しょうし)、北海郡(ほっかいぐん)の劇県(げきけん)の人である。幼くして孤児となり、先祖は長江を渡ってきた。わが家が代々受けてきた恩義は、孫氏(そんし)と深く結びついている。私自身、頼るべきものは一時の勢いで
生涯の大事7 ▸