言語
濮

孫呉(そんご) · 丞相

濮陽興(ぼくようこう)

字 子元

登場回
3
台詞の記録
0
人間関係
4
内面の独白
1

史載(Historical Record)

濮陽興(ぼくようこう)は、字を子元といい、陳留(ちんりゅう)の人である。その父の濮陽逸は、漢末に戦乱を避けて江東に移り住み、官は長沙(ちょうさ)太守に至った。濮陽興(ぼくようこう)は幼い頃からその才識によって名を知られていた。孫権(そん けん)の統治の時期、彼は上虞県令に任じられ、後に次第に尚書左曹にまで昇進し、五官中郎将の身分で蜀漢(しょくかん)に使者として赴いた。使命を果たして帰った後、彼は会稽(かいけい)太守に任じられた。

会稽(かいけい)に在任中、琅邪(ろうや)王の孫休(そん きゅう)もまたここに居住していた。濮陽興(ぼくようこう)は孫休(そん きゅう)と深い個人的な関係を築いた。西暦258年、孫休(そん きゅう)が即位した後、濮陽興(ぼくようこう)を朝廷に召し、太常・衛将軍の職を授け、平軍国事の重任を委ね、同時に彼を外黄侯に封じた。

永安(えいあん)三年(西暦260年)、都尉の厳密が丹楊湖に農田を開墾し、浦里塘を築くことを提議した。朝廷の百官はこれについて議論が紛々とし、多くがこの工事は費用が膨大で、しかも農田の収穫を確保しがたいと考えた。しかし、濮陽興(ぼくようこう)は衆議を排し、この工事は可行であると考えた。そこで、孫休(そん きゅう)は詔を下して兵民を集めて施工させた。この工事は数えきれぬほどの労役を費やし、士卒の死を招き、互いに殺し合う者さえあり、住民はこれについて怨嗟の声を上げた。

その後、濮陽興(ぼくようこう)は丞相に任じられた。彼は孫休(そん きゅう)の寵臣である左将軍の張布(ちょうふ)と互いに結託し、内外で呼応し、呉国の朝政を失望させるものとした。

永安(えいあん)七年(西暦264年)七月、孫休(そん きゅう)が崩御した。左典軍の万彧(ばんいく)はかねてより烏程侯の孫皓(そん こう)と親しく、彼は濮陽興(ぼくようこう)と張布(ちょうふ)を説いて孫休(そん きゅう)の嫡子を廃し、転じて孫皓(そん こう)を帝に擁立させた。孫皓の即位(そんこうのそくい)の後、濮陽興(ぼくようこう)に侍中を加え、青州(せいしゅう)牧を兼領させた。

しかし、良い時は長く続かなかった。ほどなくして、万彧(ばんいく)は孫皓(そん こう)の前で讒言し、濮陽興(ぼくようこう)と張布(ちょうふ)が孫皓(そん こう)を擁立したことに後悔の念を抱いていると誣告した。同年十一月の朔日、濮陽興(ぼくようこう)が朝廷に入って謁見すると、孫皓(そん こう)はただちに彼と張布(ちょうふ)を逮捕するよう命じ、彼らを広州(こうしゅう)に流した。流刑の途中、孫皓(そん こう)はさらに人を遣わして追殺し、最終的に濮陽興(ぼくようこう)の三族を夷滅した。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』では、濮陽興(ぼくようこう)の登場は主に小説の第一百二十回に集中しており、その事績は史実とおおむね合致し、顕著な文学的加工や逸脱はなされていない。小説は濮陽興(ぼくようこう)の早年の仕途の経歴を詳しく描かず、直接に孫呉(そんご)後期、とりわけ孫休(そん きゅう)の死後に孫皓(そん こう)を擁立する重要な事件の中に彼を置いている。演義における濮陽興(ぼくようこう)の描写は、より多く筋立ての展開を推し進める道具的人物としてのものであり、その個人的な性格や謀略を重点的に描くものではない。彼は張布(ちょうふ)とともに孫皓(そん こう)を擁立し、またともに孫皓(そん こう)の猜疑によって殺された。この筋立ては演義では史料の記載と異なるところがなく、付加的な虚構の要素はない。したがって、演義における濮陽興(ぼくようこう)の人物像は、より多く歴史的事件の忠実な再現であり、芸術的誇張や虚構を経た文学的形象ではない。史伝に記された浦里塘の工事が民怨を引き起こしたこと、そして彼が張布(ちょうふ)と「表裏をなした」という描写も、演義では特に強調されたり敷衍されたりはせず、ただその政治的生涯の一部として言及されているにすぎない。

主要な関係

* 孫呉(そんご)(serves):濮陽興(ぼくようこう)は生涯孫呉(そんご)政権に仕え、孫権(そん けん)の時期から仕途に入り、孫休(そん きゅう)を経て、最終的に孫皓(そん こう)の時期に殺された。
* 孫休(そん きゅう)(serves):濮陽興(ぼくようこう)は会稽(かいけい)太守を務めた時、当時会稽(かいけい)に居住していた琅邪(ろうや)王の孫休(そん きゅう)と深い関係を築いた。孫休(そん きゅう)が即位した後、濮陽興(ぼくようこう)は重用され、丞相に任じられ、軍国の大事を掌った。孫休(そん きゅう)は彼を大いに信任し、張布(ちょうふ)との対話の中でも、濮陽興(ぼくようこう)への信任に触れている。
* 孫皓(そん こう)(betrayed_by):孫休(そん きゅう)の死後、濮陽興(ぼくようこう)と張布(ちょうふ)は万彧(ばんいく)の説得のもと、孫皓(そん こう)を帝に擁立した。しかし、孫皓(そん こう)は即位してまもなく、讒言を信じ、濮陽興(ぼくようこう)と張布(ちょうふ)に異心があると疑い、最終的に彼らを逮捕して三族を夷滅した。
* 張布(ちょうふ)(ally/co-conspirator):濮陽興(ぼくようこう)は孫休(そん きゅう)の時期に左将軍の張布(ちょうふ)と関係が密接で、両者は「表裏をなし」、ともに朝政を掌握した。孫皓(そん こう)の擁立の過程でも、両者はともに行動した。最終的に、両者はともに孫皓(そん こう)に殺された。
* 万彧(ばんいく)(accuser):万彧(ばんいく)は左典軍で、孫皓(そん こう)と親しく、孫休(そん きゅう)の死後に濮陽興(ぼくようこう)と張布(ちょうふ)を説いて孫皓(そん こう)を擁立させた。しかし、まさにその万彧(ばんいく)が後に孫皓(そん こう)に讒言し、濮陽興(ぼくようこう)と張布(ちょうふ)の悲劇的な結末をもたらした。

象徴的な場面

* 会稽(かいけい)で孫休(そん きゅう)と交わる:濮陽興(ぼくようこう)は会稽(かいけい)太守を務めた期間、当時なお琅邪(ろうや)王であった孫休(そん きゅう)と深い個人的情誼を築いた。これは彼が後に孫休(そん きゅう)の即位後に重用を得る基礎を築いた。
* 浦里塘の工事を主張する:永安(えいあん)三年、都尉の厳密が浦里塘を築くことを提議した。百官が普遍的に反対する中で、濮陽興(ぼくようこう)は衆議を排し、この工事は可行であると考えた。最終的に工事は民怨を沸き立たせる結果となったものの、この出来事は濮陽興(ぼくようこう)の朝政における影響力とその決断の作風を示している。
* 孫皓(そん こう)を擁立する:孫休(そん きゅう)が崩御した後、濮陽興(ぼくようこう)と張布(ちょうふ)は左典軍の万彧(ばんいく)の説得のもと、孫休(そん きゅう)の嫡子を廃し、転じて烏程侯の孫皓(そん こう)を帝に擁立した。この挙動は孫呉(そんご)の政治的構図を直接に変え、彼自身の悲劇の伏線をも埋めた。
* 孫皓(そん こう)に三族を夷滅される:孫皓(そん こう)が即位した後、万彧(ばんいく)の讒言を信じ、濮陽興(ぼくようこう)と張布(ちょうふ)が後悔の念を抱いていると疑った。ある朝廷での謁見の際、孫皓(そん こう)は突然に濮陽興(ぼくようこう)を逮捕するよう命じ、これを流刑にした。最終的に、濮陽興(ぼくようこう)は流刑の途中で追殺され、三族を夷滅され、その波乱に満ちた一生を終えた。

肖像アーカイブ

人物像

性格
濮陽興(ぼくようこう)はかつて衛将軍、丞相を務め、孫皓(そん こう)を迎え立てることに関与したが、後に孫皓(そん こう)に誅殺された。
生涯
永安(えいあん)五年に丞相を拝し、張布(ちょうふ)とともに孫皓(そん こう)を迎えたが、後に孫皓(そん こう)に誅殺された。孫休(そん きゅう)の時には太常衛将軍として軍国の政を平(総理)し、外黄侯に封じられ、丞相に遷った。孫休(そん きゅう)の嫡子を廃して孫皓(そん こう)を迎え立てたが、後に孫皓(そん こう)に殺され、三族を皆殺しにされた。
逸話
濮陽興(ぼくようこう)は陳留(ちんりゅう)の人で、東呉の丞相である。

人間関係

4 件の関係

登場回3 回 ▸
  • 史ch.48ch.64
  • 演ch.120
関係の年表3 条 ▸

史 ch.48

史 ch.64

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は濮陽興(Bokuyō Kō)、字は子元(Shigen)、陳留(Chinryū)の人である。父の濮陽逸(Bokuyō Itsu)は漢末に乱を避けて江東へ移り、のちに長沙太守にまで昇った。私は若いころから士人として名声があり、孫権(Sonk
生涯の大事3 ▸