起因
司馬師(しばし)は嘉平六年(254年)に斉王・曹芳(そうほう)を廃して曹髦(そうぼう)を立て、 魏の中央政治を旧臣にとって極めて厳しい状態に押し込んだ。 正元元年の廃立事件、とりわけ李豐と夏侯玄(かこう げん)らの誅殺によって、 朝廷において曹氏旧朝に同情する人物はほぼ完全に排除された。 外鎮方面では、毌丘倹(かんきゅうけん)が長く東南を鎮守し高句麗を二度征討した実績を持ち、 自主的な軍事力を依然として保持していた数少ない旧朝の重臣だった。 文欽(ぶんきん)は揚州を鎮守し、司馬氏(しばし)とも不和だった。 翌年正月、二人は謀を合わせ「皇太后の詔を奉じる」名目をもって 寿春(じゅしゅん)で兵を起こした [c:17145] [c:17146]。 挙兵の時機の選択はある判断を反映していた—— これ以上行動を遅らせれば、司馬師が外鎮の反発の余地を完全に封じてしまう、という判断だ。
参加勢力
挙兵方の主力は淮南・揚州二鎮の兵五〜六万で、 四人の息子を東呉に人質として送り、外援を求めた。 孫峻(そん しゅん)は一時、呉軍を率いて江を渡り北上して寿春を窺い、 挙兵方の戦略上「内外挟撃」という設計の可能性をもたらした。 鎮圧方の陣容は魏後期の軍事体系の全セットだった—— 司馬師が自ら親征し、傅嘏(ふか)・王基(おうき)・胡遵(こ じゅん)・鄧艾(とうがい)・諸葛誕(しょかつたん)が次々に参戦し、 魏国当時の一線将領をほぼ全てこの戦いに集中させた [c:17147] [c:17148]。 政治的な象徴から見れば、この戦いは実質的に「曹魏地方派」対「司馬氏中央派」 の最後の大規模な対抗だった。
重要な転換
傅嘏は司馬師に「深く溝を掘り高く塁を築き、軽々しく戦わない」策を進言し [c:17147]、 淮南軍が遠路を来た鋭気を消耗させることを目的とした。 王基は敵が南頓を占拠する前に要地を先取するよう提案し、 戦略的主動権を魏軍側へ迅速に傾かせた [c:17147]。 毌丘倹は司馬師主力が堅壁を守って出ないことに直面しながら、 孫峻が江を渡って寿春を奇襲したと聞いて後方喪失を恐れ、 やむなく項城へ退いた [c:17148]—— この後退は実際、挙兵方の攻勢態勢を完全に瓦解させた。 続いて司馬師は「三路出撃」の案を採った—— 鄧艾が楽嘉(樂嘉)を取り、王基が項城を取り、諸葛誕が寿春を取り、 一旬以内に挙兵方を糧が絶え退路もない死地へ追い込んだ。 文欽父子が楽嘉への夜襲を試み、文鴦(ぶんおう)が単騎で突陣したが、 個人の伝説は残しても戦略上は戦局を変えるに至らなかった [c:17149]。
鎮圧と結果
閏正月、文欽は楽嘉での敗戦後寿春へ逃れようとしたが、 寿春がすでに諸葛誕に占拠されていることを知り、さらに胡遵・王基・鄧艾に合囲されて、 最終的に行き場を失い東呉の孫峻に投じた [c:17150]。 毌丘倹は夜間に項城を脱出したが、途中で慎県にて郷人に殺され、 首級が京都に送られた [c:17145]。 戦後、魏廷は淮南で巻き込まれた士民を特赦し、 諸葛誕を鎮東大将軍に拝し、 司馬師はまもなく許昌(きょしょう)で病逝した。 司馬昭(しばしょう)は衛将軍として大将軍・録尚書事を引き継ぎ、 司馬氏の権力移譲における重要な一歩を完成させた。 この一連の政治的帰結は、この戦いが軍事的勝利であるに留まらず、 司馬氏の世袭的な中央兵権が制度化される転換点となったことを示している。
歴史的反響
この反乱はいくつかの長期的な重要性を持つ。 第一に、東南の外鎮が中央への反抗意志を完全に低下させ、 この後の諸葛誕の反乱はより規模が大きくても、もはや一か八かの賭けに過ぎなかった。 第二に、文学の伝統において文鴦の伝説的な形象を残し、 演義第百十回の「単騎七出七入」は後世の武勇叙事の原型となった。 第三に、禅代の歴史から見れば、 この戦いは司馬氏が「師から昭へ」の世代交代を成し遂げるための清掃作業を果たした—— この清掃なくして、司馬昭が十数年で魏に代わる道筋は不可能だっただろう。 より広い視角から見れば、毌丘倹・文欽の乱(かんきゅうけん・ぶんきんのらん)は一つの常見の法則を示している—— 中央集権と外鎮の自主との張力が一度崩れると、 外鎮が用いる「密詔を奉じて兵を起こす」という合法化の包み紙は、 新たな中央が宮廷の台本を掌握し終えた状況下ではほぼ必ず失敗する。 挙兵の真の勝敗は、戦前の政治的構築の段階でとっくに決していたのだ。
