言語
毌

曹魏(そうぎ) · 幽州刺史

毌丘倹(かんきゅうけん)

登場回
9
台詞の記録
5
人間関係
14
内面の独白
3

史載(Historical Record)

毌丘倹(かんきゅうけん)、字は仲恭、河東聞喜の人である。その父の毌丘興は、黄初年間に武威太守を務め、叛乱を討伐し辺境を安撫した功により、高陽郷侯に封じられ、後に朝廷に入って将作大匠となった。毌丘倹は父の爵を継ぎ、初め平原(へいげん)侯の文学となり、明帝が即位した後は、尚書郎・羽林監を歴任し、かつて東宮の旧臣であったため、明帝の親近と信任を深く得た。後に洛陽(らくよう)典農となり、明帝に上疏して諫め、天下の急務は二賊を除き衣食を足すことにあり、宮室を崇修することではないと指摘した。

青龍年間、魏の明帝が遼東を討伐しようとした時、毌丘倹に「干策あり」として、彼を幽州(ゆうしゅう)刺史に転任させ、度遼将軍を加え、持節護烏丸校尉とした。彼は幽州の諸軍を率いて襄平(じょうへい)に進み、遼隧に兵を屯した。この時、かつて袁尚(えんしょう)に従って遼東に奔った右北平烏丸単于の寇婁敦、遼西烏丸都督の王護留らが、五千余人を率いて帰降した。しかし、公孫淵(こうそんえん)が抵抗し、毌丘倹と交戦したが、毌丘倹は勝つことができず、軍を引いて撤退するほかなかった。翌年、明帝は太尉の司馬懿(しばい)を遣わして中軍を統率させ、毌丘倹らとともに公孫淵を討伐し、ついに遼東を平定した。毌丘倹はこの功により、安邑侯に進封され、食邑三千九百戸を得た。

この後、毌丘倹は左将軍に遷り、仮節監豫州(よしゅう)諸軍事となり、豫州刺史を領し、後にまた鎮南将軍に転じた。諸葛誕(しょかつたん)が東関で敗れた後、毌丘倹と諸葛誕は職務を入れ替え、毌丘倹は鎮東将軍となって揚州を都督した。呉の太傅の諸葛恪(しょかつかく)が合肥新城(ごうひしんじょう)を囲攻した時、毌丘倹は文欽(ぶんきん)とともにこれを防ぎ、ついに太尉の司馬孚(しばふ)の援軍が到着した後、諸葛恪は兵を退いた。

正元二年(255年)正月、毌丘倹は揚州刺史の文欽とともに太后の詔令と偽り、司馬景王(司馬師(しばし))が権を専らにして主を廃したことを理由に、寿春(じゅしゅん)で兵を挙げて叛いた。彼らは淮南の将士・吏民を召集し、城西に壇を設けて血をすすって盟い、老弱を分けて城を守らせ、毌丘倹と文欽は自ら五、六万の大軍を率いて淮河を渡り、西進して項城に至った。毌丘倹は項城を堅守し、文欽は外囲で遊兵として策応した。しかし、この挙兵は最終的に失敗し、毌丘倹は逃亡の途中で安風津都尉に斬殺され、首級は京都へ送り伝えられた。

演中(In the Novel)

『三国演義』において、毌丘倹の人物像は史実とある程度重なるが、その司馬師に叛く動機と過程はより強い劇的性を与えられている。演義では、毌丘倹はまず鎮南都督として、かつて司馬師の命を奉じ、王昶(おうちょう)・胡遵(こ じゅん)とともに三路の呉征討(さんろのごせいとう)に出て、武昌(ぶしょう)を攻めた。しかし、この呉攻めの行動は史書には毌丘倹の参加が明確には記載されておらず、その職務も史実と食い違いがある。

演義は毌丘倹の司馬師に叛く描写をより詳しくしている。正元二年正月、毌丘倹(この時は鎮東将軍、淮南の軍馬を領す)は、司馬師が擅に廃立の事を行ったことに憤りを生じた。その子の毌丘甸(かんきゅうでん)の言葉がさらに彼の忠君の志を奮い立たせた。彼はすぐに揚州刺史の文欽を招いて相談し、文欽は曹爽(そうそう)の旧部として、司馬師に対しても恨みを抱いていた。二人は後堂で語り合い、毌丘倹は涙を止められず、司馬師が権を専らにして主を廃した罪を痛烈に述べ、文欽は死を捨てて助けると表明し、さらにその子の文淑(小字は阿鴦)が万夫不当の勇を持ち、曹爽のために仇を報いたいと述べた。二人はそこで酒をそそいで誓い、太后の密詔と偽り、寿春城西に壇を設けて血をすすって盟い、公然と司馬師を声討した。毌丘倹は六万の兵を率いて項城に屯し、文欽は二万の兵を率いて外で遊兵として接応し、諸郡に檄を移して、ともに賊を討つよう号召した。

演義において、毌丘倹は項城で司馬師が自ら大軍を率いて来ることを知り、先鋒の葛雍の建議を採り、南頓の要地を抢取しようとした。しかし、彼が駆けつけた時、南頓はすでに魏兵に占拠されていた。さらに彼を慌てさせたのは、哨馬が東呉の孫峻(そん しゅん)が兵を率いて江を渡り寿春を襲うと飛報してきたことであった。毌丘倹は寿春が失われ、退路が断たれることを恐れ、その夜のうちに項城へ退兵した。司馬師は毌丘倹の退兵を利用し、尚書の傅嘏(ふか)と鄧艾(とうがい)の計策を採り、兵を分けて樂嘉・項城・寿春を攻め取り、ついに毌丘倹の失敗をもたらした。演義における毌丘倹の性格造形は、その曹魏(そうぎ)に忠であり司馬氏(しばし)の権の専断を憤る人物像をより重んじ、また彼の軍事的決断における逡巡と失策を示している。

主要な関係

* 公孫淵(こうそんえん):毌丘倹はかつて魏の明帝の命を奉じ、軍を率いて公孫淵を討伐した。初戦は不利であったが、後に司馬懿とともに遼東を平定した。
* 曹魏(そうぎ):毌丘倹は曹魏の忠臣であり、長く辺境を鎮守し、曹魏のために領土を開き辺疆を安定させることに貢献した。彼が司馬師に叛いた根本的な原因も、曹魏政権を守るためであった。
* 司馬師(しばし):毌丘倹が挙兵した主たる対象である。演義でも史実でも、毌丘倹はいずれも司馬師が権を専らにして主を廃したことに不満を抱いて兵を挙げて反抗した。
* 明元郭皇后:毌丘倹は挙兵した時、明元郭皇后(太后)の密詔と偽り、政治的な正当性を得ようとした。
* 文欽(ぶんきん):毌丘倹が司馬師に叛く重要な盟友であり、二人はともに淮南の乱を策画して参加した。
* 習鑿歯:習鑿歯は毌丘倹を「忠臣」と評価し、その曹魏末年における司馬氏の権の専断に反抗した忠義の挙を肯定した。
* 孫権(そん けん):演義において、毌丘倹はかつて司馬師の命を奉じ、三路の呉征討に出て武昌を攻めた(演義独自)。
* 毌丘甸(かんきゅうでん):毌丘倹の子であり、演義において、その言葉が毌丘倹の司馬師に叛く決意を奮い立たせた(演義独自)。

象徴的な場面

* 明帝を諫める:毌丘倹は洛陽典農を務めた時、かつて明帝に上疏して諫め、天下の急務は二賊を除き衣食を足すことにあり、宮室を崇修することではないと指摘し、その国を憂い民を憂う政治的見識を示した。
* 公孫淵を討伐する:毌丘倹は幽州刺史として、軍を率いて公孫淵を討伐し、初戦は不利であったが、最終的に司馬懿と力を合わせて遼東を平定し、曹魏の東北辺疆を固めた。
* 諸葛恪を防ぐ:諸葛恪が合肥新城を囲攻した時、毌丘倹は文欽とともに呉軍を防ぎ、城を守り抜くことに成功し、その軍事的才能を示した。
* 寿春での挙兵:毌丘倹は文欽とともに寿春で太后の詔令と偽り、壇を設けて血をすすって盟い、兵を挙げて司馬師に反抗し、魏末の重要な政治的事件となった。この挙は失敗したものの、その曹魏に忠なる立場を体現している。
* 項城での退兵:演義において、毌丘倹は項城で南頓がすでに魏軍に占拠されたことを知り、また東呉が寿春を襲うと聞き、退路を断たれることを恐れ、夜通し退兵し、ついにその敗亡をもたらした。この場面は彼の軍事的決断における逡巡と情勢への誤判を描いている(演義独自)。
* 斬られて首を伝えられる:毌丘倹は淮南の乱に失敗した後、逃亡の途中で安風津都尉に斬殺され、首級は京都へ送り伝えられ、その政治的生涯の終焉を告げた。

肖像アーカイブ

人物像

性格
毌丘倹(かんきゅうけん)は才識が抜群で、習鑿歯からは忠臣と評された。鄭褒は彼を、謀を好むが決断がないと見なした。
生涯
毌丘倹(かんきゅうけん)は河東聞喜の人で、父の爵を襲い、かつて明帝の東宮の旧人であった。彼は幽州(ゆうしゅう)刺史を歴任し、遼東を平定し、東のかた高句驪を征した。のちに正元二年、文欽(ぶんきん)とともに淮南で反乱を起こし、敗れた後、慎県で射殺された。
逸話
毌丘倹(かんきゅうけん)はかつて軍を率いて高句驪・濊貊を征討し、また呉を征した。彼はかつて幽州(ゆうしゅう)刺史として、璽書を奉じて公孫淵(こうそんえん)を征討した。のちに文欽(ぶんきん)とともに乱を起こして司馬師(しばし)に叛き、最後には敗死した。

人間関係

14 件の関係

名言

全 5 件の台詞 · 厳選 3 件

「司馬師專權廢主,天地反覆,安得不傷心乎?」

演 第110回→ 文欽(ぶんきん)

この一句は毌丘倹(かんきゅうけん)が兵を挙げて司馬師(しばし)に反抗した核心的な理由を明らかにし、重要な歴史的意義を持つ。

「陛下即位已來,未有可書。吴、蜀恃险,未可卒平,聊可以此方无用之士克定辽东。」

史 第22回

この一句は毌丘倹(かんきゅうけん)が遼東を平定した際の戦略的見識を示し、その初期の功績の表れである。

「臣愚以為天下所急除者二賊,所急務者衣食。誠使二賊不滅,士民飢凍,雖崇美宮室,猶無益也。」

史 第28回

この一句は毌丘倹(かんきゅうけん)の国家社稷に対する深い洞察を表し、民生の根本を強調している。

登場回9 回 ▸
  • 史ch.3ch.4ch.22ch.27ch.28ch.30
  • 演ch.108ch.109ch.110
関係の年表13 条 ▸

史 ch.3

史 ch.4

史 ch.28

演 ch.110

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は毌丘倹(かんきゅうけん)、字は仲恭(ちゅうきょう)である。人生の終わりに至り、この生涯に背負ったものを思うとき、まず心に浮かぶのは淮南だった。昔、呉の太傅である諸葛恪(しょかつかく)が合肥新城を包囲した際、私は文欽(ぶんきん)とともに命
  • 私は毌丘倹(かんきゅうけん)、字は仲恭(ちゅうきょう)、河東聞喜(かとうぶんき)の人である。父の毌丘興(かんきゅうこう)は武威(ぶい)で役人や民を慰撫し、羌胡(きょうこ)を懐柔し、幾度も戦乱に遭いながら人々を帰服させた。私は父の爵位を継ぎ、
  • 私は毌丘倹(かんきゅうけん)、字は仲恭(ちゅうきょう)という。若い頃に耳にしたのは、辺境の風聞と朝廷の詔令が多かった。漢王室が衰え、魏(ぎ)がその統を継ぐ時代に生まれた。世のありさまは、書斎に座っているだけでは見通せない。私に分かっていたの
生涯の大事8 ▸