史書の記載(Historical Record)
公孫淵(こうそんえん)は、遼東の公孫度(こうそんたく)の孫、公孫康(こうそんこう)の子である。その父・公孫康の死後、年少であったため、叔父の公孫恭(こうそんきょう)が遼東太守を継いだ。太和二年(228年)、公孫淵は成人すると、その雄壮な性格をもって公孫恭を脅迫し、遼東太守の地位を奪い取った c:181。魏の明帝・曹叡(そうえい)が即位すると、公孫淵を揚烈将軍・遼東太守に任じた。公孫淵は当初、使者を遣わして南方の孫権(そん けん)と通じ、双方は贈答の往来を行った c:181。
魏の青龍三年(235年)十二月、公孫淵は突如として孫権の遣わした使者・張彌、許晏らを斬殺し、その首級を曹魏(そうぎ)に送った。魏の明帝・曹叡はそのため公孫淵を大司馬に任じ、楽浪公に封じた c:180。この挙によって公孫淵は曹魏陣営においてより高い地位を得た。しかし孫権はこれに激怒し、自ら公孫淵を征討しようとしたが、尚書僕射・薛綜(せつそう)らの強い諫言によって取りやめた c:184。公孫淵のこの挙は「両端を反覆する」態度の表れとされ、彼は中原の曹魏の強大さを畏れる一方で、孫権が贈った財物を貪り、最終的に孫権を裏切って曹魏に忠誠を示す道を選んだのである c:182。
演義の記述(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』では、公孫淵は野心に満ち、変節の絶えない割拠勢力の首領として造形されている。小説では、公孫淵は公孫度の孫、公孫康の子であり、その叔父・公孫恭は曹丕(そうひ)の時代に車騎将軍・襄平侯に封じられた。公孫淵は成長すると「文武を兼ね備え、剛直で好戦的」であり、叔父・公孫恭の地位を奪い取った c:187。
小説はさらに、公孫淵が曹魏の封賞を得てもなお満足せず、自ら燕王を号し、紹漢元年と改元して、兵を起こして寇略し、北方を揺るがしたさまを描いている c:4568。その副将・賈範はかつて諫言し、中原がすでに公孫淵に上公の爵位を賜っており、これに背くのは順当でないこと、また司馬懿(しばい)は用兵に巧みで、諸葛武侯(諸葛亮)でさえ勝てなかったのだから、公孫淵にいっそう勝ち目はないことを指摘した c:187。しかし公孫淵は諫めを聞き入れず、最終的に曹魏と対抗する道へと突き進んだ。演義における公孫淵の描写は、その傲慢さと権力への際限ない追求を重点的に強調し、彼を最終的に自滅する反面的な役柄として造形している。
主要な関係
* 公孫恭(kin_of):公孫淵の叔父で、公孫淵に脅迫されて地位を奪われた c:181。
* 曹魏(serves/betrayed_by):公孫淵は当初、曹魏の冊封を受け、後に孫権を裏切って曹魏に忠誠を示し、大司馬・楽浪公の封賞を得た c:180。しかし演義では、最終的に自ら燕王を立てて曹魏と対抗した c:4568。
* 孫権(betrayed_by):公孫淵はかつて孫権と通好し、孫権の冊封を受けたが、最終的に孫権を裏切り、その使者・張彌、許晏を斬殺して首級を曹魏に送った c:182。孫権はこれに激怒し、自ら公孫淵を親征しようとした c:184。
* 公孫淵集団(lord_of):公孫淵は遼東地域の実質的な統治者で、自らの軍隊と官僚体系をもち、自ら燕王を立てた後はさらに独立した政権を樹立した c:4568(演義独自)。
象徴的な場面
* 叔父の地位を脅し奪う:公孫淵は太和二年(228年)、叔父・公孫恭が病弱であるのに乗じて退位を迫り、自ら遼東の権力を掌握した。この出来事は公孫淵の野心と果断さを示している c:181。
* 孫権の使者を斬殺する:魏の青龍三年(235年)十二月、公孫淵は突如として孫権を裏切り、孫権の遣わした使者・張彌、許晏を斬殺し、その首級を曹魏に献じた。この挙によって彼は曹魏の重い褒賞を得たが、同時に孫権を徹底的に激怒させ、その「両端を反覆する」性格の鮮明な表れとなった c:180。
* 自ら燕王を立てる:『三国演義』では、公孫淵は曹魏の封賞を得てもなお満足せず、自ら燕王を号し、紹漢元年と改元して、宮殿を築き官職を設け、兵を起こして曹魏に反逆した c:4568。この場面はその野心が膨張した頂点であり、最終的な敗北をも予示している(演義独自)。
* 賈範の諫言を聞かず:演義では、公孫淵が自ら王を立てた際、その副将・賈範はかつて彼を諫め、曹魏に背くのは順当でない挙であり、司馬懿は用兵に巧みで公孫淵には勝ち目がないと指摘した c:187。しかし公孫淵は聞き入れず、その剛愎で自らを是とし、忠言を容れない性格を示した(演義独自)。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 公孫淵(こうそんえん)は剛強で闘争を好み、欲深く飽くことを知らず、怪異を聞いても悟らず、諫臣の賈範・倫直を斬った。それでもなお凶事を重ね続け、二心を抱いて反覆し、巧みに欺いて裏切りを繰り返した。
- 話し方
- 激怒したときは「左右を叱する」ような短く切迫した命令を発し、困窮したときには使者を通して哀願を伝えさせた。
- 生涯
- 公孫淵は公孫度(こうそんたく)の孫であり、公孫康(こうそんこう)の子である。太和二年、彼は叔父の公孫恭(こうそんきょう)の位を奪い、曹叡(そうえい)は彼を揚烈将軍・遼東太守に封じた。のちに孫権(そん けん)が遣わした張彌・許晏を斬ってその首を献じ、曹叡は彼を大司馬・楽浪公に封じたが、彼は欲深く満足せず、自ら燕王を号して紹漢元年と改元し、ついに敗れて襄平(じょうへい)で死んだ。
- 逸話
- 公孫淵は公孫康の庶子であり、俊才を有していた。彼はかつて遼東太守の位を奪い取り、のちに魏に叛いて南方の呉と結び、さらに盟約を破って呉の使者を殺し、ついに自立して燕王となったが、司馬懿(しばい)に討ち破られた。
人間関係
23 件の関係
登場回10 回 ▸
- 史ch.3ch.8ch.11ch.26ch.28ch.30ch.47ch.52
- 演ch.105ch.106
関係の年表5 条 ▸
史 ch.3
kin_of
兄子淵劫夺恭位
史 ch.52
演 ch.106
kin_of
公孙度之孙
kin_of
公孙康之子
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私、公孫淵(こうそんえん)の字は、ここに挙げた諸史には見えない。今振り返って、最も心残りなのは爵位の高低ではなく、強大な隣国に迫られるたび、その場しのぎを長期の策とみなしてしまったことだ。魏の朝廷は、まず私を遼東太守に任じ、続いて大司馬に拝
- 私は公孫淵(こうそんえん)、字は不詳である。この時、魏の明帝より揚烈将軍・遼東太守に任じられていた。地方を治めていたとはいえ、その名声や地位、基盤のすべてを自らの意のままにできたとは限らない。叔父の公孫恭(こうそんきょう)は病弱で、国を治め
- 我、公孫淵(こうそんえん)は、字はこの種の記録には見えず、遼東の公孫氏の末裔である。かつて叔父の公孫恭(こうそんきょう)が太守の座にあったが、甥である私は、ついにはその地位を奪い、自ら遼東太守を名乗るに至った。史書に記されているのはこの事実
生涯の大事7 ▸
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