言語
張

孫呉(そんご) · 重臣

張彌

登場回
4
台詞の記録
0
人間関係
2
内面の独白
1

史載(Historical Record)

張彌は、三国(さんごく)時代の孫呉(そんご)の官員である。『三国志(さんごくし)』によれば、彼はかつて孫権(そん けん)の命を受け、許晏らとともに遼東へ使者として赴き、公孫淵(こうそんえん)を燕王に冊封することを目的とした。この使行には大量の金玉珍宝が携えられ、公孫淵を取り込んで孫呉に帰服させようとした。孫権のこの挙は、公孫淵を通じて北方の曹魏(そうぎ)政権を牽制し、自らの圧力を軽減することを望んだものであった。しかし、公孫淵は孫権の意図に疑念を抱き、また財物を貪ったため、最終的には張彌や許晏らを誘い込んで捕らえ、これを斬首し、その首級を曹魏に送って忠誠を示した c:182。

この出来事は黄龍二年(230年)三月に起こった。当時、孫権は張彌、許晏、賀達らの将を派遣し、一万の兵馬を率い、金宝珍貨および九錫の備物を携えて、海路から船で遼東へ赴き、公孫淵に燕王の位を授けようとした c:183。孫権は公孫淵に厚い期待を寄せ、彼が伊尹や呂望が商周を輔佐したように大業を助けてくれると考え、幽・青二州の十七郡七十県を公孫淵に封じ、さらに九錫を加賜することすら惜しまなかった c:183。しかし、丞相の雍を含む朝廷の大臣たちは、公孫淵は軽々しく信ずべきではなく、与える恩寵が厚すぎると諫めた。彼らは数百の吏兵で使者を護送すればよいと進言したが、孫権は従わなかった c:183。

公孫淵は果たして孫権を裏切り、張彌らを斬殺し、その首級を曹魏に送るとともに、孫呉の兵資を没収した。孫権はこれを聞いて激怒し、一度は自ら公孫淵を征討しようとしたが、尚書僕射の薛綜(せつそう)らの極力の諫言によってようやく思いとどまった c:183。この出来事は張彌らの犠牲を招いただけでなく、孫呉の遼東における戦略的布石を大きく挫折させた。それでもなお、張彌の随行者の中には、なお国のために仇を報いようとする者もいた。たとえば、中使の秦旦、張群、杜德、黄疆らは、玄菟郡に置かれた後、密かに反抗を謀り、成功はしなかったものの、秦旦と黄疆は最終的に脱出に成功し、句驪王の助けを得て孫呉に帰還することができた。孫権は彼らの忠義に深く慰められ、皆を校尉に拝した c:183。

演中(In the Novel)

『三国演義』においては、張彌の人物像は史実とほぼ一致しており、同じく孫権が遼東へ派遣して公孫淵を燕王に冊封させる使者である。小説の第106回では、公孫淵は公孫度(こうそんたく)の孫であり、公孫康(こうそんこう)の子であると述べられている。彼は成長すると文武を兼ね備え、性格は剛烈で好戦的であり、その叔父である公孫恭(こうそんきょう)の手から地位を奪い取った。孫権は張彌、許晏を派遣して金宝珍玉を携えて遼東へ赴かせ、公孫淵を燕王に冊封した c:5284。

『演義』における張彌が殺される描写も史実と一致しており、公孫淵は中原の曹魏の強大さを恐れ、張彌と許晏の二人を斬殺し、その首級を曹叡(そうえい)に送って曹魏に好意を示した c:5284。小説はさらに、公孫淵が曹叡の封賞を得てもなお満足せず、最終的に自ら燕王を号して紹漢元年と改元したことを描いている。その副将の賈範はかつて彼を諫め、中原の彼への封賞は決して卑賤なものではなく、もし背けば不順であること、また司馬懿(しばい)は用兵に長け、諸葛武侯ですら勝つことができなかったのだから、まして公孫淵においてはなおさらであると指摘した c:5284。これらの細部は史料には明確に記載されておらず、『演義』が筋立てと人物像を豊かにするために行った文学的創作である。

総じて、『三国演義』における張彌の造形は、主に孫権の外交戦略の執行者として、また公孫淵の背信の犠牲者として描かれており、その個人的な人物像はあまり展開されず、より多くは筋の進展を推し進める道具的な人物にとどまっている。

主要な関係

* 孫権(serves):張彌は孫権が派遣した使者であり、命を受けて遼東へ赴き公孫淵を冊封した。彼の使命は、公孫淵を取り込み曹魏を牽制するという孫権の戦略的意図を体現していた c:183。
* 公孫淵(victim of):張彌は公孫淵によって誘い込まれて捕らえられ斬首され、公孫淵が孫呉を裏切り曹魏に投じた犠牲となった c:182。
* 許晏(colleague):張彌は許晏とともに遼東へ使者として赴き、公孫淵を冊封する使命を共に担い、最終的にともに遇害した c:182。
* 秦旦・黄疆ら随行者(related to):張彌の随行者のうち、秦旦、黄疆らは張彌のために仇を報いることはできなかったものの、その忠義の行いは孫権に認められ、校尉に拝された c:183。

象徴的な場面

* 命を受けて遼東へ赴く:張彌は孫権の派遣を受け、金玉珍宝と冊封の詔書を携え、万人の船団を率いて、堂々と海路から遼東へ赴き、公孫淵を燕王に冊封した。これは彼の生涯で最も重要な使命であり、また彼の悲劇的な運命の始まりでもあった c:183。
* 公孫淵に斬首される:公孫淵は背信を働き、張彌と許晏を誘い込んで捕らえ斬首し、その首級を曹魏に送った。この場面は、孫権が公孫淵に対して極めて激怒する直接の原因となり、孫呉内部で遼東を征討すべきか否かをめぐる激しい議論を引き起こした c:182。
* 随行者の復讐の試み(演義独自):張彌はすでに死んでいたが、その随行者である秦旦、黄疆らは玄菟郡で密かに反抗を謀り、国のために仇を報いようとした。成功はしなかったものの、この筋は孫呉の将士の忠義の精神を体現し、また張彌事件が孫呉の軍民に与えた影響を側面から反映している c:183。

人間関係

2 件の関係

登場回4 回 ▸
  • 史ch.8ch.47ch.52
  • 演ch.106
関係の年表2 条 ▸

史 ch.8

史 ch.47

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 海風が船べりを打つ。勅書と金玉は、ともに私の使節としての任務に託されていた。孫権(そん けん)は私に許晏らとともに遠く遼海を渡り、節を携えて公孫淵(こうそんえん)に燕王の称号を授け、珍宝を贈るとともに、九錫の品々を備えるよう命じた。この使節
生涯の大事2 ▸