史書の記載(Historical Record)
公孫度(こうそんたく)は、字を升済といい、遼東襄平(じょうへい)の人である。その父・公孫延は官吏の煩わしさを避けて玄菟へ移り住んだ。公孫度は若くして玄菟郡吏を務めた。幼名を豹といい、当時の玄菟太守・公孫琙の子・豹と同年であったため、公孫琙は彼を大いに気に入り、その遊学を援助し、妻を娶らせた。後に公孫度は有道に挙げられ、尚書郎、冀州(きしゅう)刺史を歴任したが、流言によって免職された c:4552。
巡り合わせから、同郡の出身で当時董卓(とう たく)の中郎将であった徐栄(じょえい)が公孫度を遼東太守に推挙した。初めて遼東に着任した時、公孫度は小吏の出身であったため、現地で軽んじられた。これより前、属国の公孫昭が襄平令を務めており、公孫度の子・公孫康(こうそんこう)を伍長として徴したことがあった。公孫度は着任すると、ただちに公孫昭を逮捕し、襄平の市中で笞殺した。郡中の、かねて彼に恩のない名豪・大姓の田韶らは、皆その法によって誅殺され、夷滅された者は百余家に達し、遼東郡内はこれによって震え上がった c:4552。
公孫度は遼東で足場を固めると、対外的な拡張を始め、東は高句驪を伐ち、西は烏丸を撃って、その威名を海外に広く轟かせた c:4552。初平元年(190年)、公孫度は中原が乱れることを予見し、その腹心・柳毅、陽儀らにこう語った。「漢の祚はまさに絶えようとしている。諸卿とともに王を図るべきだ」 そして讖書の「孫登(そん とう)まさに天子となるべし」という説を借り、その字「升済」が「登」の字に通じることから、自らを天命に応じる者になぞらえた。当時、襄平の延里の社に丈余りの大石が生じ、その下に三つの小石が足となっていた。ある者はこれを漢の宣帝の冠石の祥瑞になぞらえ、里の名が公孫度の先君と同じであることが、彼が土地を有し、三公が輔佐することを予示していると称し、公孫度はこれを聞いて大いに喜んだ c:7104。
公孫度の行いは残暴で、河内太守・李敏はその所業を嫌い、家属を連れて海に入って難を避けたことがあった。公孫度はこれに大いに怒り、なんとその父の墓を掘り、棺を割いて屍を焼き、その宗族を誅殺した c:7104。彼はまた遼東郡を遼西・中遼郡に分け、太守を置いた。海を越えて東莱の諸県を収め、営州刺史を設けた。公孫度は自ら遼東侯・平州牧を立て、その父・公孫延を建義侯に追封した。彼はさらに襄平城の南に漢の二祖の廟を立て、制を承けて壇を設けて天地を祭り、藉田し、兵を治め、出行の際には鸞路に乗り、九旒、旄頭羽騎を用いて、さながら帝王の気象であった。曹操(そうそう)はかつて公孫度を武威将軍に表し、永寧郷侯に封じたが、公孫度はこれを意に介さず、「我は遼東に王たり、何の永寧ぞ」と言って、印綬を武庫に蔵した c:7104。
公孫度の統治期間、多くの中原の名士が戦乱を避けて遼東に身を寄せた。管寧(かんねい)、邴原(へいげん)、王烈(おうれつ)らは皆「公孫度の令が海外に行き渡る」のを聞いて遼東へ赴いた c:168。公孫度はかつて館を空けて管寧を待ったが、管寧は到着すると山谷に庵を結んで住み、世事を問わず、移る志のないことを示した。公孫度はその賢徳を敬いながらも、彼を自らのために用いることはできなかった。邴原は遼東にいた時、劉政の事をめぐって公孫度と周旋し、最終的に劉政とその家族を保全させた c:7103。涼茂(りょうぼう)もまた公孫度に勝手に遼東に留め置かれ、公孫度はかつて曹操が遠征する機に乗じて、兵を率いて西の鄴(ぎょう)を指そうとしたが、涼茂が力をもって諫め、曹操の功が高く徳が広く、これと敵対すべきでないことを指摘すると、公孫度は最終的に涼茂の進言に従った c:7099。公孫度は建安九年(204年)に死去し、その子・公孫康が後を継いだ c:7104。
演義の記述(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』における公孫度の記載は極めて少なく、ただ第三十三回と第百六回に言及されるのみで、計二回登場し、しかも七句の台詞があるだけである [c:33, 106]。小説では、その生涯と事績は詳しく描かれておらず、彼の遼東における割拠・称雄、東伐・西撃などの歴史的功績にも言及されていない。その残暴で節度のない性格についても、小説は重点的に描くことなく、ただ背景人物として一筆で済ませている。
小説では、公孫度は主に公孫瓚集団(こうそんさんしゅうだん)の傍系人物として登場するが、史実では、公孫度と公孫瓚(こうそんさん)には直接の隷属関係はなく、むしろそれぞれ一方に割拠する勢力であった。小説はまた、公孫度が自ら遼東侯・平州牧を立てたことや、曹操が賜った官爵を意に介さなかったことなどの筋立てにも言及していない。これらは史書には詳しく記載されているが、演義には記載がない。
主要な関係
* 公孫瓚集団(serves):『三国演義』では、公孫度は公孫瓚集団の一員として言及されるが、史実では公孫度は独立した割拠勢力であり、公孫瓚とは隷属関係がない。(演義独自)
* 公孫度家族(founded):公孫度は遼東公孫氏(こうそんし)の割拠政権の創始者で、その父・公孫延、子・公孫康、公孫恭(こうそんきょう)、孫・公孫淵(こうそんえん)は、皆その一族の統治下にあった c:7104。
* 公孫度集団(lord_of):公孫度は遼東地域の実質的な統治者で、自ら遼東侯・平州牧を立て、独立した軍事的・政治的権力をもっていた c:7104。
* 公孫康(parent_of):公孫度の子で、その死後、遼東の統治権を継いだ c:7104。
* 公孫琙(benefactor):玄菟太守・公孫琙は、公孫度がその子と同名であったため、彼を慈しみ、その遊学を援助し、妻を娶らせた c:4552。
* 徐栄(recommender):同郡の徐栄は董卓の麾下にあった時、公孫度を遼東太守に推挙した c:4552。
* 李敏(victim):河内太守・李敏は公孫度の行いを嫌って難を避け、公孫度はそのためその父の墓を掘り、屍を焼き、その宗族を誅殺した c:7104。
* 管寧、邴原、涼茂(associates):これらの中原の名士は戦乱を避けて遼東に身を寄せ、公孫度と交わりをもったが、真に帰附することはなかった [c:168, c:7103, c:7099]。
象徴的な場面
* 遼東に着任して威を立てる:公孫度は遼東太守に初めて任じられた時、現地の豪強を震懾させるため、かつてその子を伍長として徴した公孫昭を市で笞殺し、また従わない名豪・大姓百余家を誅殺して、郡中を震え上がらせた c:4552。この挙は遼東における彼の絶対的な権威を打ち立てた。
* 自ら王を称する野心:公孫度は初平元年(190年)にすでに「漢の祚はまさに絶えようとしている。諸卿とともに王を図るべきだ」と予言し、讖書を借りて自らを天子になぞらえ、後にはさらに自ら遼東侯・平州牧を立て、壇を設けて天地を祭り、さながら帝王の姿となって、曹操が賜った官爵を意に介さなかった c:7104。これは、一方に割拠して遼東に覇を唱える彼の野心を十分に示している。
* 墓を掘り屍を焼く残暴さ:公孫度は李敏が難を避けたことに大いに怒り、なんとその父の墓を掘り、棺を割いて屍を焼き、その宗族を誅殺した c:7104。この出来事は、その残暴で節度のない性格を深く体現している。
* 涼茂が力をもって退兵を諫める:公孫度はかつて曹操が遠征する機に乗じて、兵三万・騎一万を率いて鄴を直指しようとしたが、涼茂に「曹公は国家の危敗を憂え、百姓の苦毒を愍れみ、義兵を率いて天下のために残賊を誅し、功が高く徳が広い」という理由で力をもって諫め退けられた c:7099。この場面は、公孫度が残暴ではあっても、まったく諫めを聞かないわけではない一面を示している。
* 管寧が遼東で世を避ける:管寧は「公孫度の令が海外に行き渡る」のを聞いて遼東に難を避けたが、山谷に庵を結んで住み、世事を問わなかったため、公孫度はその賢徳を敬いながらも、彼を自らのために用いることはできなかった c:168。これは公孫度が高士に対する時の複雑な態度と、その統治下の遼東が中原の避難者にもつ吸引力を反映している。
人間関係
7 件の関係
名言
全 7 件の台詞 · 厳選 3 件
「漢祚將絕,當與諸卿圖王耳。」
この台詞は公孫度(こうそんたく)の王を称する野心を示す、遼東に割拠したことの重要な歴史的記録である。
「我王遼東,何永寧也!」
この台詞は一方に割拠する公孫度(こうそんたく)の覇気を顕す、独立して王を称する宣言である。
「聞曹公遠征,鄴無守備,今吾欲以步卒三萬,騎萬匹,直指鄴,誰能禦之?」
この台詞は虚に乗じて攻め入ろうとする公孫度(こうそんたく)の軍事的野心を表す、その拡張策の表れである。
登場回5 回 ▸
- 史ch.8ch.11ch.30
- 演ch.33ch.106
関係の年表2 条 ▸
史 ch.11
- 公孫康(こうそんこう)§54
parent_of
父子(康为度子,代居郡)
史 ch.30
- 公孫淵(こうそんえん)§24
kin_of
公孙渊父祖三世有辽东
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は公孫度(こうそんたく)、字は升済(しょうさい)である。今や遼東(りょうとう)では威令が行き渡り、東では高句麗(こうくり)を討ち、西では烏丸(うがん)を攻めることができる。郡内の人々は震えおののき、海外にも私の名は知られている。郡に赴任し
生涯の大事1 ▸
- 0238-01-01 · 襄平(じょうへい)遼東公孫氏(こうそんし)の割拠· 総大将