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夏侯覇(かこう は)

曹魏(そうぎ) · 右将军

夏侯覇(かこう は)

登場回
12
台詞の記録
20
人間関係
11
内面の独白
3

史実(Historical Record)

夏侯覇(かこう は)、字は仲権、曹魏(そうぎ)の名将・夏侯淵(かこう えん)の次子である。その家族は曹魏皇室と関係が密接で、夏侯淵の妻は曹操(そうそう)の内妹である c:1129。夏侯覇の兄・夏侯衡は太祖(曹操)の弟・海陽哀侯の娘を娶り、家族の恩寵は深厚であった。黄初年間、夏侯覇は爵を賜り、太和年間には、その四人の弟も皆関内侯の爵位を賜った c:1129。

正始年間、夏侯覇は官は討蜀護軍、右将軍に至り、博昌亭侯に進封された。彼は素より大将軍・曹爽(そうそう)と関係が親厚であった c:1129。しかし、司馬懿(しばい)が政変を発動して曹爽を誅殺した後、夏侯覇は曹爽との親近な関係によって疑懼の心を生じた。当時、征西将軍・夏侯玄(かこう げん)は夏侯覇の従子であり、同時に曹爽の甥でもあった。司馬懿が曹爽を誅殺した後、夏侯玄を京に召し戻すと、夏侯覇は禍が必ず自分に及ぶと考えた。加えて彼は以前から雍州刺史の郭淮(かくわい)と不和であり、郭淮が夏侯玄に代わって征西将軍を務めると、これが夏侯覇をさらに不安にさせ、最終的に蜀漢(しょくかん)に投じることを決めた c:1129。

夏侯覇は蜀漢へ逃亡する途中、陰平郡(いんぺいぐん)を南下したが道に迷い、窮谷に入り、糧が尽きてついには馬を殺して歩き、足を傷つけ、岩の下に臥して人を遣わして救援を求めるしかなかった。蜀漢はこのことを知ると、人を遣わして夏侯覇を迎えた c:1129。

夏侯覇が蜀漢に身を寄せた後、蜀漢の後主・劉禅(りゅう ぜん)は自ら彼を引見し、こう慰めた。「そなたの父は戦場で討ち死にしたのであって、わが先祖が自ら手にかけたのではない。」劉禅はまた自らの子を指して夏侯覇に言った。「これは夏侯氏の甥である。」もともと、建安五年、夏侯覇の従妹(夏侯淵の娘)が薪を採っていたところを張飛(ちょうひ)に得られ、張飛は彼女が良家の女と知ると、これを娶って妻とし、娘を生み、後にこの娘が劉禅の皇后となった。そのため、夏侯淵が初めて亡くなったとき、張飛の妻はかつて夏侯淵を埋葬することを請うた。劉禅は夏侯覇に厚く爵寵を加えた c:1129。

夏侯覇の弟・夏侯威(かこう い)は官は兗州(えんしゅう)刺史に至り、その子孫には顕赫な者が多く、例えば夏侯威の子・夏侯駿は并州刺史、夏侯荘は淮南太守、夏侯荘の子・夏侯湛は才学と文章で著名で、官は南陽(なんよう)相、散騎常侍に至った。夏侯荘はまた晋の景陽皇后の姉婿であり、夏侯家族が当時門第が顕赫であったことがうかがえる c:1129。夏侯恵(かこう けい)は官は楽安太守に至り、才学と奏議に長けて名を知られた。夏侯和(かこう か)は官は河南尹、太常に至った c:1129。

演義(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』において、夏侯覇の人物像はより豊かであり、とりわけ諸葛亮北伐(北伐(諸葛亮)(ほくはつ(しょかつりょう)))と姜維の北伐(きょういのほくばつ)の期間、彼は魏将としても蜀将としても重要な出番がある。彼が初めて登場するのは諸葛亮(しょかつりょう)の第六次北伐の際で、司馬懿が魏主・曹叡(そうえい)に夏侯覇、夏侯威、夏侯恵、夏侯和の四兄弟を推薦し、夏侯覇、夏侯威は弓馬に習熟し、夏侯恵、夏侯和は韜略に通暁していると称し、彼らが「常に父のために仇を報いんと欲す」と強調した c:1130。

諸葛亮が五丈原(ごじょうげん)で病没する前、司馬懿はかつて夏侯覇に一千の軍を率いて五丈原へ哨探に向かわせ、諸葛亮の病状を探らせた c:1131。諸葛亮の死後、司馬懿は当初これを詐死と疑い、ただ夏侯覇に密かに数十騎を率いて哨探に向かわせた c:1132。夏侯覇が蜀兵がすでにことごとく退いたと報告すると、司馬懿はようやく諸葛亮が死んだと確信し、軍を率いて追撃した。しかし、司馬懿は追撃の途中で「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」という古典的な場面に遭遇し、姜維(きょうい)が扮した諸葛亮に吓し退けられ、当時夏侯覇と夏侯恵は司馬懿の側にいた c:9507。

司馬懿が公孫淵(こうそんえん)を討伐した際、夏侯覇と夏侯威はかつて命を受けて済水のほとりで伏兵を設け、公孫淵の部将・卑衍(ひ えん)、楊祚を見事に破り、夏侯覇はさらに自らの手で卑衍を斬り殺した c:1133。

曹爽が誅殺された後、演義における夏侯覇の蜀への投降の描写は史実と少し異なる。小説では、司馬懿は夏侯覇が曹爽の親族であり、にわかに乱を起こすことを心配し、そこで詔を下して夏侯覇を洛陽(らくよう)に召して議事させた。夏侯覇はこれを聞くと大いに驚き、三千の兵を率いて造反した。彼は雍州刺史・郭淮と交戦し、司馬懿の篡権を痛烈に非難した。郭淮、陳泰(ちんたい)との挟撃の中で大敗し、最終的に漢中(かんちゅう)に身を寄せた c:5048。姜維は夏侯覇を引見し、彼を「漢室を匡扶し、古人に愧じず」と称賛した c:9512。

夏侯覇は蜀に投じた後、姜維の重要な謀士であり将領となった。彼はかつて姜維に魏国に新たに出た二人の人才——鍾会(しょうかい)と鄧艾(とうがい)——を分析し、彼らを「深く畏るべきなり」と称した c:9512。姜維の北伐において、夏侯覇は何度も計を献じ、例えば姜維に牛頭山を攻めて麴山の囲みを解くよう建議し c:9514、また鉄籠山の戦いにおいて、彼は姜維に偽って敗れて魏将・徐質を誘殺するよう建議し、徐質の率いる部を見事に擒えた c:9517、 c:1134。

しかし、夏侯覇の結末は演義においてかなり悲壮である。姜維の一度の北伐において、夏侯覇は命を受けて前部として洮陽を攻めた。彼は城門が大きく開き、城上に旗がないのを見て、空城だと誤認し、先頭に立って斬り込んだが、結果として魏将の埋伏にかかり、五百の軍士とともに城下で死んだ c:1138。これは史実における夏侯覇の蜀漢での結末(史に明らかな記載なし)とは異なり、演義は彼により劇的な結末を与えている。

主要な関係

* 夏侯淵(kin_of):夏侯覇の父で、曹魏の名将であり、定軍山の戦い(ていぐんざんのたたかい)において黄忠(こうちゅう)に斬り殺された。夏侯覇が蜀に投じた後、劉禅はかつて彼を慰め、その父が蜀漢の先祖に殺されたのではないと称した c:1129。演義では、夏侯覇兄弟が「常に父のために仇を報いんと欲す」ことが、彼らが早期に曹魏に仕えた重要な動機である c:1130。
* 曹爽(friend_of):夏侯覇は曹魏にいたとき曹爽と関係が親厚であった c:1129。曹爽が司馬懿に誅殺された後、夏侯覇は自疑によって蜀漢に身を寄せ、これは彼の人生の軌跡の重大な転換点である。
* 曹魏(defected_from):夏侯覇はもと曹魏の将領であり、曹爽が誅殺されたことによって疑懼の心を生じ、最終的に蜀漢に身を寄せることを選んだ c:1129。
* 蜀漢(defected_to):夏侯覇は蜀漢に身を寄せた後、劉禅の厚遇と重用を受け、姜維の北伐の重要な将領となった c:1129。
* 司馬懿(rival_of):演義において、夏侯覇は早期に司馬懿の部将として、蜀漢への作戦に参加した c:1130。しかし司馬懿が曹爽を誅殺した後、夏侯覇は司馬懿の政敵となり、最終的に蜀に投じて司馬氏(しばし)に対抗した。
* 姜維(colleague_of):夏侯覇は蜀に投じた後、姜維の重要な謀士であり戦友となり、何度も姜維の北伐に参与し、計を献じ策を進めた c:9514、 c:9517。
* 劉禅(kin_of):夏侯覇の従妹は張飛の妻であり、その娘は劉禅の皇后である。そのため、劉禅は夏侯覇の姪の婿であり、この姻戚関係によって夏侯覇は蜀に投じた後に特別な優遇を得た c:1129。
* 郭淮(rival_of):夏侯覇は曹魏にいたとき雍州刺史・郭淮と不和であった c:1129。演義では、夏侯覇は蜀に投じる前にかつて郭淮と交戦した c:5048。
* 鍾会、鄧艾(rival_of):夏侯覇は蜀に投じた後、かつて姜維に魏国に新たに出た二人の人才・鍾会と鄧艾に言及し、彼らを「深く畏るべきなり」と称した c:9512(演義独自)。

象徴的な場面

* 蜀漢への投降:司馬懿が曹爽を誅殺した後、夏侯覇は自疑によって逃亡し、途中で艱辛を経て、最終的に蜀漢に迎えられた。劉禅はその家族と蜀漢との姻戚関係(夏侯覇の従妹の娘が劉禅の皇后)をもって彼を慰め重用し、これは夏侯覇の人生における最も重要な転換点である c:1129。
* 五丈原での哨探:演義において、諸葛亮が五丈原で病没する前後、夏侯覇はかつて何度も司馬懿の命を受けて蜀軍の虚実を哨探に向かい、間接的に「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」という古典的な場面に参与した c:1131、 c:1132、 c:9507(演義独自)。
* 卑衍を斬り殺す:演義において、司馬懿が公孫淵を討伐した際、夏侯覇は夏侯威と伏兵を設け、夏侯覇は自らの手で公孫淵の部将・卑衍を斬り殺し、その勇武な一面を示した c:1133(演義独自)。
* 鉄籠山での献計:演義において、姜維の北伐の際、夏侯覇は姜維に偽って敗れて敵を誘うよう献計し、魏将・徐質を見事に破り、司馬昭(しばしょう)を鉄籠山に困らせ、その軍事的謀略を示した c:9517、 c:1134(演義独自)。
* 洮陽で伏に遭って死す:演義において、夏侯覇は洮陽を攻めた際、誤って魏軍の空城計(くうじょうけい)にかかり、最終的に部下五百人とともに城下で戦死し、蜀漢のために身を捧げた c:1138(演義独自)。

肖像アーカイブ

人物像

性格
夏侯覇(かこうは)は弓馬に熟達し、性格は率直で激烈であった。警戒心が強く、深謀遠慮の人を見抜くことができた。
話し方
彼は主帥を諫めて敵を侮ってはならぬと止め、軽騎を先に出して速やかに要地を占めるべきだと主張し、また姜維(きょうい)に偽りの降伏を警戒するよう促した。
生涯
夏侯覇(かこうは)は曹爽(そうそう)と親しい関係にあったため、曹爽が誅殺された後に不安を覚え、そこで蜀漢(しょくかん)に身を寄せた。彼はかつて関内侯の爵を賜り、後に討蜀護軍、右将軍を務め、さらに博昌亭侯に進封された。
逸話
夏侯覇(かこうは)は夏侯淵(かこうえん)の子で、かつて魏国の右将軍を務め、後に蜀に降った。彼はかつて姜維(きょうい)とともに軍事行動を謀り、司馬望(しばぼう)との偽降の計の中で戦死した。

人間関係

11 件の関係

名言

全 20 件の台詞 · 厳選 2 件

「吾祖父於國家多建勳勞,今司馬懿何等人,滅吾曹氏宗族,又來取我,早晚必思篡位。吾仗義討賊,何反之有?」

演 第107回→ 郭淮(かくわい)

この一言は、夏侯覇(かこう は)が蜀に降った根本的な原因を示し、曹魏(そうぎ)政権内部の権力闘争を明らかにしている。

「一人見爲秘書郎,乃潁川長社人;姓鍾,名會,字士季;太傅鍾繇之子;幼有膽智。繇嘗率二子見文帝。會時年七歲,其兄毓年八歲。毓見帝惶懼,汗流滿面。帝問毓曰:『卿何以汗?』毓對曰:『戰戰惶惶,汗出如漿。』帝問會曰:『卿何以不汗?』會對曰:『戰戰慄慄,汗不敢出。』帝獨奇之。及稍長,喜讀兵書,深明韜略。司馬懿與蔣濟皆稱其才。一人見爲掾吏,乃義陽人也;姓鄧,名艾,字士載。幼年失父,素有大志。但見高山大澤,輒窺度指畫,何處可以屯兵,何處可以積糧,何處可以埋伏。人皆笑之,獨司馬懿奇其才,遂令參贊軍機。艾爲人口吃,每奏事必稱『艾,艾』。懿戲謂曰:『卿稱艾艾,當有幾艾?』艾應聲曰:『鳳兮鳳兮,故是一鳳。』其資性敏捷,大抵如此。二人深可畏也。」

演 第107回→ 姜維(きょうい)

この対話の一節は、鍾会(しょうかい)と鄧艾(とうがい)の台頭を予言しており、三国(さんごく)後期の歴史の流れに重要な意義を持つ。

登場回12 回 ▸
  • 史ch.9ch.33
  • 演ch.102ch.103ch.104ch.106ch.107ch.109ch.110ch.111ch.114ch.115
関係の年表11 条 ▸

史 ch.9

演 ch.102

演 ch.103

演 ch.104

演 ch.106

演 ch.109

  • fights_in

    擒徐质所分押粮兵一半并尽降其众

演 ch.110

演 ch.111

演 ch.114

演 ch.115

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私はもと夏侯覇(かこう は)、字は仲権である。正始十年、曹爽(そうそう)が誅殺され、私は右将軍の身で降伏した。史書にはこのことだけが記され、当時の私が何を思ったかは載っていない。今、昔を思い返せば、洛陽(らくよう)の権勢は急変し、かつて魏に
  • 私は夏侯覇(かこう は)、字は仲権(ちゅうけん)という。今、蜀の地に身を置き、来し方を振り返れば、悔恨も恐れも、すべて胸の内に重くのしかかっている。父の夏侯淵(かこう えん)は蜀軍に殺され、私は若い頃から仇討ちを心に誓っていた。子午の戦いで
  • 我は夏侯覇(かこう は)、字は仲権(ちゅうけん)という。若き日のことを語るとき、家門の名と父・夏侯淵(かこう えん)の旧事は、いつも心に寄り添っていたように思う。史書には、兄弟とともに父の仇を討とうと常に望んでいたとある。今この言葉を思い返
生涯の大事5 ▸