言語
樊

董卓集団(とうたくしゅうだん) · 将軍

樊稠

登場回
4
台詞の記録
1
人間関係
2
内面の独白
1

史書の記録(Historical Record)

樊稠は、董卓(とう たく)の旧部曲の一人として、董卓が誅殺された後、李傕(りかく)、郭汜(かくし)らとともに長安(ちょうあん)への包囲攻撃を発起した。当時、董卓の部衆は、董卓がすでに敗れ、呂布(りょふ)が逃れたために統率者を失い、まさに各自散り散りになろうとしていた。しかし、赦免の詔書がなく、かつ長安城中で涼州(りょうしゅう)人を尽く誅殺しようとしていると聞き、人々は憂慮し恐慌に陥り、なすすべを知らなかった。こうした背景のもと、賈詡(かく)が計を献じ、衆を率いて西進し、道中で兵を収めるよう建議した。最終的に、彼らは十余万の兵力を集結し、樊稠、李蒙(りもう)、王方などの董卓の旧部と兵を合わせて一つにまとめ、共に長安城を包囲攻撃した。

十日間の包囲攻撃を経て、長安城は陥落した。樊稠は李傕、郭汜らとともに城中で呂布と交戦し、呂布は最終的に敗走した。城が破られた後、李傕らは士兵を放縦にして長安城中で焼き殺し略奪し、老若の無辜の者で殺された者は数知れず、屍は野に満ちた。彼らはまた董卓の謀殺に関与した王允(おういん)を誅殺し、その屍を市にさらした。その後、董卓は郿塢に葬られたが、記載によれば、大風暴雨が董卓の墓を震わせ、水が墓穴に流れ込み、その棺槨を押し流したという。この後、樊稠は右将軍、万年侯に封じられ、李傕(車騎将軍、池陽侯)、郭汜(後将軍、美陽侯)らとともに朝政を擅にした。

しかし、好景は長く続かず、これらの権力を掌握した将領の間ではほどなくして権力闘争が生じた。樊稠は最終的に殺され、その部衆も併合された。『九州春秋』の記載によれば、馬騰(ばとう)、韓遂(かんすい)が兵敗した後、樊稠は陳倉(ちんそう)まで追撃した。韓遂は樊稠と対話し、「天地は反覆し、いまだ知るべからず。本来争うところは私怨にあらず、王家の事のみ。足下とは同州の里人、今はたとえ小しく違うとも、要するに大いに同じからん。願わくは相ともに善き語をもって別れんことを。万一思うがごとくならざるとも、後にまた相見ゆるを得んか」と言った。二人は馬上で腕を交えて長く語り合った後に別れた。李傕の甥の李利が、韓遂と樊稠が馬上で親密に語り合っていた状況を李傕に告げ、李傕はこのため樊稠が韓遂と私かに和解し、異志を抱いているのではと疑った。樊稠が兵を率いて関中を東出し、李傕に援軍を請おうとした際、李傕は機に乗じて樊稠を議事に招き、宴席上で彼を殺害した。樊稠の死後、李傕と郭汜の間でも互いの猜疑により数ヶ月にわたる戦乱が勃発し、長安城中で死傷者が数知れず出るに至った。

演義の中(In the Novel)

『三国演義』において、樊稠の形象は史実とほぼ一致しているが、より多くの細部と劇的な色彩が加えられている。彼が初めて登場するのは董卓が詔を奉じて入京する際で、董卓の腹心の将領の一人として、李傕、郭汜、張済(ちょうさい)らとともに董卓に従って洛陽(らくよう)へ赴いた。董卓が京城で足場を固めた後、かつて帝位の禅譲を計画し、李傕、郭汜、張済、樊稠の四人に三千の飛熊軍を率いて郿塢を鎮守させ、自らは京に戻って受禅の準備をしようとした。これは史実において董卓が殺された後にその旧部がようやく長安を包囲攻撃したのとは異なり、演義はここで樊稠らの登場と職責を前倒しにしている。

董卓が呂布に誅殺された後、樊稠は李傕、郭汜、張済らとともに賈詡の建議に従い、兵を合わせて長安を攻めた。長安を攻め破った後、李傕、郭汜は献帝を弑殺しようとしたが、樊稠と張済が「なりませぬ。今日すぐに彼を殺せば、衆人が服さぬことを恐れます。むしろ従来どおり彼を主と奉じ、諸侯を欺いて関に入れ、まずその羽翼を除き、しかる後に彼を殺せば、天下は図り得ましょう」と諫めた。この筋立ては史書には明確な記載がなく、演義が人物の形象を造形し筋立てを推進するために加えたものである。最終的に、献帝は迫られて李傕を車騎将軍、郭汜を後将軍、樊稠を右将軍万年侯、張済を驃騎将軍に封じ、四人が共に朝政を秉持した。

樊稠の結末は演義においてより生き生きと描かれている。馬騰、韓遂を追撃した際、樊稠は命を奉じて韓遂を追った。陳倉付近まで追いついた時、韓遂は馬を止めて樊稠に「我と公とは同郷の人なるに、今日なんぞかくも無情なるや」と言った。樊稠もまた馬を止めて「上命は違うべからず」と答えた。韓遂はさらに「我がこの来たるもまた国家のためのみ。公なんぞ我を逼ること、かくも甚だしきや」と説いた。樊稠はこれを聞くと、なんと馬首を転じ、兵を収めて寨に戻り、韓遂を逃した。この筋立ては演義独自のもので、樊稠の同郷の情を際立たせることを旨としている。しかし、この挙動は彼に殺身の禍を招いた。李傕の甥の李別が樊稠が韓遂を逃したことを李傕に告げ、李傕は大いに怒り、樊稠を討伐しようとした。賈詡が計を献じ、宴を設けて功を祝い、宴席上で樊稠を斬殺し、その部衆は張済が引き継いだ。演義の樊稠の死に関する描写は、李傕の残忍さと賈詡の智謀を強化し、また樊稠の同郷の情と彼の悲劇的な結末とを鮮やかに対比させている。

重要な関係

* 董卓集団(とうたくしゅうだん)(高級官員):樊稠は董卓の旧部曲であり、董卓の死後、李傕、郭汜、張済らとともに董卓のために復讐し、最終的に朝政を掌握した。彼は董卓集団において重要な軍事将領の役割を演じた。
* 韓遂(友人):演義において、樊稠と韓遂の間には同郷の情があった。韓遂を追撃した際、樊稠は韓遂の一言によって彼を逃し、その同郷の情が軍令に勝るという性格的特徴を体現した(演義独自)。
* 李傕(ライバル/上司):李傕は樊稠の同僚であり、またその最終的な殺害者でもある。李傕は樊稠が韓遂と私通していると疑って彼を殺害したが、これは董卓集団内部の権力闘争の残酷さを反映している。
* 賈詡(軍師):賈詡は董卓集団の重要な謀士であり、彼はかつて李傕らのために計略を巡らせ、その中には彼らに兵力を収めて長安を攻めるよう建議したことや、後に樊稠を殺害する計を立てたことが含まれる,。

象徴的な場面

* 長安を包囲攻撃し、王允を誅殺する:董卓の死後、樊稠は李傕、郭汜などの董卓の旧部と兵十余万を合わせ、長安を包囲攻撃した。城が陥落した後、彼らは呂布と交戦してこれを破り、続いて長安城中で大いに殺戮を行い、王允を誅殺し、朝政を掌握した。この場面は樊稠が董卓の残党の重要な一員であるという地位を確立した。
* 右将軍に封じられ、朝政を擅にする:長安を攻め破り献帝を掌握した後、樊稠は右将軍、万年侯に封じられ、李傕、郭汜らとともに朝政を執り掌り、当時の漢末における重要な割拠勢力の一つとなった。
* 陳倉で韓遂を逃す:『三国演義』において、樊稠は命を奉じて韓遂を追撃したが、陳倉付近で韓遂が同郷の情をもって説いたため、樊稠はこれを聞いてなんと兵を収めて韓遂を逃した(演義独自)。この場面は樊稠の演義における最も象徴的な筋立てであり、彼の情義を重んじる一面を示すとともに、直接彼の悲劇的な結末を招いた。
* 宴席で殺される:韓遂を逃した一件のため、李傕は樊稠に疑忌を抱いた。賈詡が計を献じ、李傕は宴を設けて樊稠を招き、宴席上で「韓遂と交通し、謀反を図ろうとした」ことを口実に、樊稠を斬殺した。この場面は董卓集団内部の権力闘争の白熱化を示すとともに、樊稠の悲劇的な運命を明らかにしている。

人間関係

2 件の関係

台詞

  • 演 ch.10 §5→ 韓遂(かんすい)

    「上命不可違!」

登場回4 回 ▸
  • 史ch.6
  • 演ch.3ch.9ch.10
関係の年表3 条 ▸

史 ch.6

演 ch.10

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は字を仲穎といったのか? いや、史書に私の字は記されていない。名は樊稠である。この時、私はすでに李傕(りかく)や郭汜(かくし)らと長安(ちょうあん)の朝政を掌握していた。右将軍、万年侯という称号は聞こえこそ華々しいが、城が陥落した日、兵の
生涯の大事1 ▸