史実(Historical Record)
牽招(けんしょう)は、字は子経、冀州(きしゅう)安平の人である。その早年の事績は不詳だが、かつて楽隠の門生であったことは知られている。袁紹(えんしょう)が冀州(きしゅう)牧を務めていた間、牽招(けんしょう)は督軍従事に辟召され、烏丸突騎を兼ね領した。彼は軍を厳正に治め、かつて袁紹(えんしょう)の舎人が軍令を犯したためにこれを斬り、事後に袁紹(えんしょう)に報告した。袁紹(えんしょう)はこれを咎めるどころか、かえってその果敢な気風を深く称賛した c:2698。
袁紹(えんしょう)の死後、牽招(けんしょう)は引き続き袁紹(えんしょう)の子袁尚(えんしょう)に仕えた。建安九年、曹操(そうそう)が鄴(ぎょう)を囲んだとき、袁尚(えんしょう)は牽招(けんしょう)を上党に遣わして軍糧の輸送を監督させた。牽招(けんしょう)がまだ戻らぬうちに、袁尚(えんしょう)は敗れて中山へ逃れた。当時、袁尚(えんしょう)の従兄の高幹(こうかん)が并州刺史を務めており、牽招(けんしょう)は状況を見極め、并州は左に恒山の険、右に大河の固めを有し、かつ五万の精兵を擁し、北は強胡を防ぎうると考え、高幹(こうかん)に袁尚(えんしょう)を受け入れ、共に局勢を観望して再起を図るよう説いた。しかし、高幹(こうかん)はその進言を容れず、かえってひそかに牽招(けんしょう)を害する心を起こした。牽招(けんしょう)はそれを察し、ひそかに立ち去ったが、道が阻まれて袁尚(えんしょう)に従うことはできず、最終的に東へ向かって曹操(そうそう)に身を寄せた。曹操(そうそう)は冀州(きしゅう)を領すると、牽招(けんしょう)を従事に辟召した c:2698。
曹操(そうそう)が袁譚(えんたん)を討とうとしたとき、柳城(りゅうじょう)の烏丸の部落が出兵して袁譚(えんたん)を援助しようとした。牽招(けんしょう)にかつて烏丸を統べた経験があったため、曹操(そうそう)は彼を柳城(りゅうじょう)へ派遣した。牽招(けんしょう)が到着したとき、ちょうど烏丸の峭王が五千騎を派遣して袁譚(えんたん)を支援しようとしていた。このとき、遼東太守の公孫康(こうそんこう)は自ら平州牧を称し、使者の韓忠(かんちゅう)に単于の印綬を携えさせて峭王に仮授しようとした。峭王が部落の首領を召集して大会を開き、韓忠(かんちゅう)も同席した。峭王は牽招(けんしょう)に問うた、「かつて袁公は天子の命を受けたと称し、我を仮りに単于とした。今、曹公はまた天子に奏上して再び真の単于に仮授すると言う。遼東もまた印綬を持ってやって来た。では、いったい誰が正統なのか」。牽招(けんしょう)は答えた、「かつて袁公は承制して事を行い、仮授しえた。途中に過ちがあり、天子は曹公に取って代わるよう命じ、天子に奏上して再び真の単于に仮授すると言う。これこそ正理である。遼東は下郡にすぎぬ。どうして擅に仮授を称しえようか」。韓忠(かんちゅう)は反駁した、「我が遼東は滄海の東に位置し、百万の兵を擁し、また扶余・濊貊の助けがある。今の世は強き者が尊い。曹操(そうそう)は何をもって独り正統を称するのか」。牽招(けんしょう)はこれを聞いて大いに怒り、韓忠(かんちゅう)を叱責した、「曹公は允恭明哲、天子を輔佐し、叛逆を討伐し、四海を安んじている。汝ら君臣は頑迷で改めず、今、険遠を恃みにして王命に背き、擅に仮授を行おうとし、神器をもてあそんでいる。まさに屠戮されるべき身でありながら、どうして大人を軽んじ謗ることができようか」。言い終えると韓忠(かんちゅう)の頭をつかんで突きつけ、刀を抜いて斬ろうとした。峭王は大いに驚き失色し、裸足で牽招(けんしょう)を抱きとめ、韓忠(かんちゅう)のために助命を乞い、左右の者も皆驚かぬ者はなかった。牽招(けんしょう)はそこでようやく座に戻り、峭王らに成敗の利害、禍福の帰するところを説き分けた。峭王らは皆席を下りてひれ伏し、恭しく教えを受け、すぐに遼東の使者を辞謝し、出征の準備をしていた騎兵を解散させた c:2700。
曹丕(そうひ)が即位すると、牽招(けんしょう)を使持節護鮮卑校尉に任じ、昌平に駐屯させた。当時、辺境の民は山沢に流散し、あるいは鮮卑の部落へ逃亡し、その数は数千に上った。牽招(けんしょう)は広く恩信を施し、招き諭して降服させた。建義中郎将の公孫集らは部曲を率いて皆これに帰附し、原籍へ送り返された。牽招(けんしょう)はさらに鮮卑の素利・弥加ら十余万の部落を招撫し、皆を辺塞に帰附させた c:5871。
魏の明帝が即位すると、牽招(けんしょう)に関内侯の爵を賜った。太和二年、護烏丸校尉の田豫(でんよ)が故馬邑城で軻比能(かびのう)に囲まれ、牽招(けんしょう)に援けを求めた。牽招(けんしょう)はただちに兵馬を整え、救援に赴く準備をした。并州の官吏が通常の制度をもって牽招(けんしょう)を阻んだが、牽招(けんしょう)は主将が困窮しているのに、官吏の議論にこだわってはならぬと考え、自ら上表してすぐに出発した。彼はまた羽檄を発して情勢を述べ、西北から敵の後方を襲い、その後東進して田豫(でんよ)と合流し敵首を誅すると称した。羽檄が田豫(でんよ)の軍に伝わると、士気は大いに振るった。牽招(けんしょう)はまた一通の羽檄を敵軍の要道に落とし、敵はそれを知って即座に恐れおののき、部落は離散した。牽招(けんしょう)の軍が故平城に至ったとき、敵軍はすでに潰え去っていた。軻比能(かびのう)は再び大軍を集結させ、故平州の塞北に至った。牽招(けんしょう)はひそかに潜行して急襲し、多くの首級を斬獲した。蜀漢(しょくかん)の諸葛亮(しょかつりょう)がしばしば兵を出し、軻比能(かびのう)が狡猾で変わりやすく、彼と結託する恐れがあったため、牽招(けんしょう)は上表して防備を固めるよう建議した。当時、朝中の議者は辺境が遥か遠いとしてこれを意に介さなかった。折しも諸葛亮(しょかつりょう)が祁山(きざん)にあり、果たして使者を遣わして軻比能(かびのう)と連絡を取った。軻比能(かびのう)は故北地の石城に至り、諸葛亮(しょかつりょう)と遥かに呼応した。明帝はそこで詔を下し、牽招(けんしょう)に機を見て便宜に討伐するよう命じた。このとき軻比能(かびのう)はすでに漠南(ばくなん)へ戻っており、牽招(けんしょう)は刺史の畢軌(ひつき)と相談して言った、「胡虜は移り住んで定まらぬ。もし師を労して遠く追えば、遅速が相かなわぬ。もしひそかに襲おうとすれば、山溪は険しく、資糧の転運をひそかに行うのは難しい。新興・雁門の二牙門を守らせ、陉北に出屯し、外には鎮撫を示し、内には屯田させ、資糧を蓄え、秋冬に馬が肥え、州郡の兵が合する時を待ち、機に乗じて征討すれば、必ず全勝の計となろう」。しかし、この計がまだ実行されぬうちに、牽招(けんしょう)は病死した。牽招(けんしょう)は郡にあること十二年、威風は遠く及んだ。その辺境を治めた功績は、田豫(でんよ)に次ぐもので、民は彼を慕い続けてやまなかった c:2701。
演義(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』では牽招(けんしょう)について独立した、あるいは詳しい描写はなされていない。彼の生涯の事績と功績、たとえば袁紹(えんしょう)の幕下で令を犯した舎人を斬ったこと、高幹(こうかん)に袁尚(えんしょう)を受け入れるよう説いたこと、曹魏(そうぎ)時代に烏丸・鮮卑などの辺患を平定したことなどは、いずれも演義には現れない。したがって、牽招(けんしょう)は演義においてほとんど存在感がなく、その姿と役割は完全に歴史に覆い隠されており、史伝に記された数多くの精彩ある出来事や、彼個人の胆識と謀略は、演義には一切体現されていない。
主要な関係
* 楽隠:牽招(けんしょう)の師であり、牽招(けんしょう)はかつてその門生であった c:2698。
* 袁紹(えんしょう)集団(えんしょうしゅうだん):牽招(けんしょう)が早年に仕えた相手であり、かつて袁紹(えんしょう)の督軍従事を務め、烏丸突騎を兼ね領した c:2698。
* 袁尚(えんしょう):袁紹(えんしょう)の死後、牽招(けんしょう)は引き続き袁尚(えんしょう)に仕え、その軍糧の輸送を監督した c:2698。
* 高幹(こうかん):袁尚(えんしょう)の従兄、并州刺史。牽招(けんしょう)は高幹(こうかん)に袁尚(えんしょう)を受け入れるよう説いたが、高幹(こうかん)は容れず、かえって牽招(けんしょう)を害そうとした c:2698。
* 曹操(そうそう):牽招(けんしょう)は高幹(こうかん)のもとで阻まれた後、曹操(そうそう)に身を寄せ、後に従事に辟召され、烏丸の事務を処理するよう命じられた c:2700。
* 公孫康(こうそんこう):遼東太守、自ら平州牧を称し、使者の韓忠(かんちゅう)を烏丸に遣わして峭王に単于の印綬を仮授しようとし、烏丸の部落の中で牽招(けんしょう)と衝突した c:2700。
* 峭王:烏丸の部落の首領、牽招(けんしょう)はかつてその部落へ赴き、公孫康(こうそんこう)の誘いを拒み、袁譚(えんたん)援助の兵を罷めるよう説き伏せた c:2700。
* 田豫(でんよ):護烏丸校尉、かつて軻比能(かびのう)に故馬邑城で囲まれ、牽招(けんしょう)に援けを求め、牽招(けんしょう)は速やかに出兵して囲みを解いた c:2701。
* 軻比能(かびのう):鮮卑の部落の首領、かつて田豫(でんよ)を囲み、後にまた諸葛亮(しょかつりょう)と結託し、牽招(けんしょう)はこれに対して軍事的配置と防備を行った c:2701。
* 畢軌(ひつき):并州刺史、牽招(けんしょう)はかつて彼と軻比能(かびのう)に対処する策を相談した c:2701。
象徴的な場面
* 袁紹(えんしょう)の舎人を斬る:牽招(けんしょう)は袁紹(えんしょう)の幕下で督軍従事を務めていたとき、袁紹(えんしょう)の舎人が令を犯したため、果断に先斬後奏したが、袁紹(えんしょう)は咎めるどころか、かえってその胆識を称賛した c:2698。この出来事は牽招(けんしょう)の軍を厳正に治め、権貴を恐れぬ気風を十分に示している。
* 烏丸で韓忠(かんちゅう)と知略を競う:牽招(けんしょう)は曹操(そうそう)の命を受けて柳城(りゅうじょう)へ赴き、烏丸の峭王を説き伏せた。峭王の大会において、遼東の使者韓忠(かんちゅう)と面と向かって対質し、義正の言辞で韓忠(かんちゅう)を駁し、さらに刀を抜いて斬ろうとし、最終的に首尾よく峭王を説き伏せて公孫康(こうそんこう)の誘いを拒み、袁譚(えんたん)援助の兵を罷めさせた c:2700。この場面は牽招(けんしょう)の外交的才能と個人の勇武の集中的な体現である。
* 田豫(でんよ)の囲みを解く:護烏丸校尉の田豫(でんよ)が軻比能(かびのう)に囲まれたとき、牽招(けんしょう)は并州の官吏の阻みを顧みず、自ら上表して出兵し救援した。彼は羽檄を発して敵軍を撹乱し、最終的に首尾よく囲みを解き、軻比能(かびのう)の部に反撃を加えた c:2701。この行動は牽招(けんしょう)の決断力と軍事的才能、そして同僚への深い情誼を顕している。
* 鮮卑十余万落を招撫する:牽招(けんしょう)は護鮮卑校尉を務めていた間、広く恩信を施し、鮮卑の素利・弥加ら十余万の部落を招撫し、辺境を安定させた c:5871。これは彼の卓越した民族政策と辺疆を治める能力を体現している。
人間関係
5 件の関係
台詞
- 史 ch.26 §27
「昔袁公承制,得有所拜假;中間違錯,天子命曹公代之,言當白天子,更假真單于,是也。遼東下郡,何得擅稱拜假也?」
- 史 ch.26 §27→ 韓忠(かんちゅう)
「曹公允恭明哲,翼戴天子,伐叛柔服,寧靜四海,汝君臣頑嚚,今恃險遠,背違王命,欲擅拜假,侮弄神器,方當屠戮,何敢慢易咎毀大人?」
登場回1 回 ▸
- 史ch.26
関係の年表4 条 ▸
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は牽招(けんしょう)、字は伝わっていない。かつて冀州(きしゅう)にいたころ、袁紹(えんしょう)は私を召し出して督軍従事とし、烏丸突騎も兼ねて率いさせた。袁紹の側近が法を犯したとき、私はまず斬ってから報告した。この行為が職権を越えたと疑われ
生涯の大事2 ▸
- 0228-01-01 · 馬邑牽招の田豫救援・馬邑の包囲(けんしょうのでんよきゅうえん・ばゆうのほうい)· 総大将
- 0247-01-01 · 馬邑曹魏北疆經略· 総大将