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逢紀(ほうき)

袁紹集団(えんしょうしゅうだん) · 统军

逢紀(ほうき)

字 元圖

登場回
6
台詞の記録
3
人間関係
5
内面の独白
3

史載(Historical Record)

逢紀(ほうき)、字は元図、袁紹集団(えんしょうしゅうだん)において要職を担った。彼は審配(しんぱい)とともに軍事を統べ、袁紹(えんしょう)麾下の重要な謀士の一人であった。袁紹が許都(きょと)を攻め、曹操(そうそう)と決戦すると決めた際、逢紀は審配らとともに出兵を強く主張し、「明公の神武をもって、河朔の彊衆に跨り、もって曹氏を伐つ。たとえば手を覆すがごとし、今時に取らざれば、後に図りがたきなり」と論じた。彼らの見解は、沮授(そじゅ)、田豊(でんほう)らの「師を出して年を歴、百姓疲弊し、倉庾に積なく、賦役まさに殷んなり」 という保守的な策略と相反していた。最終的に袁紹は逢紀らの急進的な主張を採り、南下して曹操と決戦することを決めた。袁紹集団内部において、逢紀は郭図(かくと)らとともに袁紹に讒言を進め、沮授を「内外を監統し、威は三軍を震わす、もしそれ浸んに盛んならば、何をもって之を制せん」と讒訴し、これにより袁紹は沮授に疑念を抱き、沮授の監軍の権を三分して、その影響力を削いだ。これらの記載は、逢紀が袁紹集団において軍事決定の参与者であったばかりか、内部の権力闘争における重要な役割でもあったことを示している。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』においては、逢紀の人物像はさらに造形され、とりわけその迎合に巧みで忠良を陥れる性格的特徴が際立たせられている。彼は初めて登場するや、その謀略を発揮し、袁紹に公孫瓚(こうそんさん)を利用して冀州(きしゅう)を攻めさせ、その機に乗じて韓馥(かんふく)の基業を奪うよう建言した。この計略は袁紹がいともたやすく冀州を占拠するのに成功裏に貢献し、逢紀もこれにより袁紹に重用され、田豊、沮授、許攸(きょゆう)らとともに州事を掌った。

逢紀は袁紹と曹操の官渡の戦い(かんとのたたかい)の前夜、再びその忠言を陥れる本性を発揮した。田豊が上書して袁紹にみだりに大兵を動かすべきでないと諫めたとき、逢紀は袁紹に讒言を進め、田豊が「何ぞ此の不祥の語を出だすを得んや」と言ったと称し、袁紹の田豊への不満を募らせた。官渡(かんと)の戦いで袁紹が敗れたのち、逢紀はさらにその機に乗じて追い打ちをかけた。袁紹が田豊の言を聞かなかったために敗北したと嘆いたとき、逢紀は田豊が獄中でその報を聞き「掌を抚して大いに笑いて曰く、『固より吾が料を出でず』」と偽り称し、これが直接、袁紹が激怒して田豊を殺害する事態を招いた。この場面は史書には明確な記載がなく、演義が逢紀の奸佞の像を造形するために加えたものである。

袁紹の死後、逢紀は審配とともに袁尚(えんしょう)を後継者に擁立し、袁譚(えんたん)を支持する郭図、辛評(しんぴょう)と対立した。袁譚が曹操との戦いで敗れ、袁尚に救援を求めた際、逢紀は袁譚のために救援を請う書を作った。しかし、袁尚が審配の進言によって袁譚に援兵を出すことを拒んだとき、袁譚は激怒し、ついに逢紀を斬殺した。この結末もまた、逢紀が袁氏内部の権力闘争の犠牲者であるという像をいっそう強めている。

重要な関係

* 袁紹集団(senior_official):逢紀は袁紹集団の重要な謀士であり軍事統領であって、いくつもの重大な決定に関与した。
* 袁紹(advises_in):逢紀は幾度も袁紹に策を献じ、とりわけ冀州の奪取と官渡の戦いの決定において、その建言は袁紹に重要な影響を及ぼした。
* 田豊(betrayed_by):逢紀は幾度も田豊を陥れ、とりわけ官渡の戦いののち、その讒言は直接、田豊が殺される事態を招いた(演義のみ)。
* 袁尚(advises_in):袁紹の死後、逢紀は審配とともに袁尚を後継者に擁立し、これに策を献じた。
* 審配(ally):袁尚の擁立と袁氏内部の闘争において、逢紀は審配と立場を同じくし、共に袁尚を補佐した。
* 郭図・辛評(rival):逢紀は郭図、辛評と袁紹の後継者問題で異なる立場をとり、それぞれ袁尚と袁譚を支持して対立した。

象徴的な場面

* 袁紹に冀州奪取を献策する:逢紀は袁紹に策を献じ、公孫瓚を利用して冀州を攻めさせ、その機に乗じて韓馥の基業を奪い、袁紹がいともたやすく冀州を占拠できるようにした(演義のみ)。
* 官渡決戦を強く主張する:官渡の戦いの前、逢紀は審配らとともに袁紹に南下して曹操と決戦するよう強く主張し、最終的に袁紹は彼らの建言を採った。
* 田豊を陥れて死に至らしめる:官渡の戦いののち、逢紀は袁紹に讒言を進め、田豊が獄中で袁紹の敗北を嘲笑したと偽り称し、直接、袁紹が激怒して田豊を殺害する事態を招いた(演義のみ)。
* 袁尚を後継に擁立する:袁紹の死後、逢紀は審配とともに袁尚を後継者に擁立し、袁氏内部の継承権争いを引き起こした。
* 袁譚に斬殺される:袁譚が袁尚に救援を求めたが果たせず、袁尚が援兵を出すのを拒んだため、袁譚は激怒し、逢紀を斬殺した(演義のみ)。

肖像アーカイブ

人物像

性格
逢紀は逢迎に長け、忠言を陥れることに巧みで、かつて田豊を讒言して殺意を煽り立てた。
生涯
逢紀は字を元図といい、かつて袁紹に冀州を攻め取るよう勧め、公孫瓚を囮として説き伏せた。袁紹の死後、彼は審配を助けて袁尚を擁立した。建安九年、袁尚は逢紀を袁譚に従わせたが、袁譚の増兵の要請が許されなかったため、逢紀は袁譚に怒りのあまり殺された。
逸話
逢紀は袁紹の謀士かつ重臣であり、後に袁尚を補佐した。

人間関係

5 件の関係

名言

全 3 件の台詞 · 厳選 2 件

「主公興仁義之師,田豐何得出此不祥之語?」

演 第30回→ 袁紹(えんしょう)📍 鄴(ぎょう)

この言葉は逢紀(ほうき)と田豊(でんほう)の政見の対立を示しており、袁紹集団(えんしょうしゅうだん)内部の権力闘争の縮図である。

「豐在獄中聞主公兵敗,撫掌大笑曰:『固不出吾之料!』」

演 第31回→ 袁紹(えんしょう)

この台詞は逢紀が田豊を陥れる名場面であり、直接田豊の死を招いた、影響の大きい一節である。

登場回6 回 ▸
  • 史ch.6
  • 演ch.7ch.22ch.30ch.31ch.32
関係の年表3 条 ▸

演 ch.7

演 ch.31

演 ch.32

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は逢紀(ほうき)、字は元図(げんと)である。袁公の生涯を思えば、最も重大な局面は、必ずしも兵と兵が相まみえる時だけにあったのではない。陣中で誰の進言に耳を傾け、誰の言葉を信じるかにもあった。天子を迎える件について、沮授(そじゅ)が説いたの
  • 官渡(かんと)の敗報が耳に入ったとき、私は帰途の軍中に立ち、袁公(えんこう)の憂いに沈んだ顔を見て、事態が出陣前とはもはや違ってしまったことを、心の中で悟っていた。かつて田豊(でんほう)が獄中から上書し、主君にしばらく守りを固め、時機を待つ
  • かつて私がまだ世に出ていなかった頃、袁紹(えんしょう)に従って河内(かだい)に駐屯していた。軍中の食糧は乏しく、冀州(きしゅう)の牧である韓馥(かんふく)が人を遣わして食糧を届けてくれるのを頼みとしていた。その時、倉と兵を目の当たりにし、心
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