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陳琳(ちんりん)

袁紹集団(えんしょうしゅうだん) · 軍師

陳琳(ちんりん)

字 孔璋

登場回
8
台詞の記録
3
人間関係
5
内面の独白
1

史実(Historical Record)

陳琳(ちんりん)、字は孔璋、その生没年は詳らかでない。最初は後漢末年の大将軍何進(かしん)の手下で主簿を務めた。何進は宦官を誅そうとしたが、太后が従わなかったため、何進は四方の猛将を都に招き寄せ、これによって太后を威嚇しようと図った。陳琳はこの挙に諫言し、これを「鹿を即(もと)むるに虞(ぐ)なきがごとし」「目を掩(おお)いて雀を捕らうるがごとし」と指摘し、何進は速やかに雷霆を発し、権を行って即断すべきであって、外兵を招くべきではなく、さもなくば「干戈を倒持し、人に柄を授く」ことになり、最終的には「必ず成功せず、ただ乱の階(きざはし)となるのみ」だと考えた。しかし、何進は陳琳の進言を採用できず、最終的にこのために禍を招いた。何進の死後、陳琳は戦乱を避けて冀州(きしゅう)へ逃れ、袁紹(えんしょう)に身を寄せ、その文書の仕事を掌った。袁紹集団(えんしょうしゅうだん)において、陳琳の才華は十分に発揮された。例えば、袁紹が臧洪(ぞう こう)を囲攻した際、かつて陳琳に書を書かせて臧洪に降伏を勧めさせた。また、袁紹の部将である崔琰(さいえん)が士卒の墓を掘り骨を晒す行いに諫言したとき、陳琳もその場に居合わせて見届けた。官渡の戦い(かんとのたたかい)後、袁紹は敗れ、陳琳は曹操(そうそう)に帰附した。曹操は陳琳を引見した際、陳琳が袁紹のために作った檄文に言及した。その言辞は曹操本人を攻撃するばかりでなく、曹操の父祖にまで及んでいた。陳琳はこれについて謝罪したが、曹操はその才華を惜しみ、これによって彼を責めることはなかった。

演義(In the Novel)

『三国演義』においては、陳琳の像は史実とほぼ符合するが、筋立ての描写はより生き生きとして劇的化されている。彼が初めて登場するのは、まさに何進が宦官を誅そうとした際、主簿として何進に進諫する場面である。演義における陳琳の進言は史実とおおむね一致し、彼は何進のこの挙を「目を掩いて燕雀を捕らうるがごとし」と明確に指摘し、「功必ず成らず、かえって乱を生ぜん」と予言した。しかし、何進は陳琳の忠告を「懦夫の見」とみなし、採用しなかった。何進が宮に入って太后に面会しようとしたとき、陳琳は再び言を出して諫止し、太后のこの詔は十常侍(じゅうじょうじ)の陰謀だと考え、何進に「断じて行くべからず。行けば必ず禍あり」と戒めた。惜しくも何進は依然として自説に固執し、最終的に宮に入って殺された。これらの筋立てはいずれも陳琳の遠見卓識、そして何進の剛愎自用ぶりを強化している。袁紹の帳下において、陳琳の才華はさらに発揮された。官渡の戦いの前夜、郭図(かくと)が袁紹に檄文を発して曹操を声討するよう建議すると、袁紹は陳琳に起草を命じた。陳琳は筆を執るやたちまち書き上げ、あの有名な討曹の檄文を著した。この檄文は演義において詳しく引用され、その文采は斐然として、気勢は磅礴とし、曹操の祖父と父を厳しく抨撃している。袁紹が敗れた後、陳琳は曹操に捕らえられた。曹操が陳琳になぜ檄文の中で自らの祖父と父を辱めたのかと問い詰めると、陳琳は「箭は弦上に在り、発せざるを得ざるのみ」と答えた。部下が曹操に彼を斬るよう勧めたが、曹操はその才を惜しみ、最終的に陳琳を赦免し、彼を従事に任じた。演義にはまた、曹操が魏公を称した後、陳琳が他の文官と共に詩章を献じ、曹操の功徳を称頌したことが言及され(演義独自)、曹魏(そうぎ)集団における彼の文人としての身分をさらに際立たせている。

重要な関係

* 何進(advises_in):陳琳は何進の手下で主簿を務め、かつて幾度も何進に進諫し、外兵を都に招かぬよう、また入宮の危険を警告した。しかし、何進はいずれもその進言を採用せず、最終的に自らの覆滅を招いた。演義では、陳琳の何進への諫めが詳しく描かれ、陳琳の遠見と何進の剛愎を際立たせている。
* 袁紹(advises_in, serves):何進の死後、陳琳は冀州に避難して袁紹に身を寄せ、その文書を掌った。彼はかつて袁紹の命を受け、臧洪のために降伏を勧める書を書いた。官渡の戦いの前、陳琳はさらに袁紹のために有名な討曹の檄文を撰した。
* 曹操(serves, pardons):袁紹が敗亡した後、陳琳は曹操に帰順した。曹操はその文才ゆえに彼を赦免し、その麾下に招き入れた。曹操はかつてその討曹の檄文の言辞について陳琳を問い詰めたが、最終的にはその才を惜しんで追及しなかった。演義では、陳琳が「箭は弦上に在り、発せざるを得ず」と曹操の問い詰めに応じ、その才思の敏捷さをいっそう際立たせている。
* 崔琰(witnesses):陳琳はかつて崔琰と共に袁紹の帳下にあり、崔琰が袁紹の士卒の墓を掘り骨を晒す行いに諫言するのを見届けた。
* 袁紹集団(serves):陳琳は袁紹麾下で記室を務め、文書の仕事を担い、袁紹の重要な幕僚の一人であった。

象徴的な場面

* 何進が外兵を都に招くのを諫止する:陳琳は何進の主簿として、何進が四方の猛将を都に招いて太后を威嚇しようとした決定に対し、それを「干戈を倒持し、人に柄を授く」ものと直言し、この挙が必ずや禍乱を招くと予言した。演義では、この場面はより生き生きと描かれ、陳琳の進言は何進に「懦夫の見」と斥けられ、何進の短見を際立たせている。
* 何進の入宮を諫止する:何進が宮に入って太后に面会しようとしたとき、陳琳は再び警告を発し、これが十常侍の謀であり、入宮すれば必ず禍事があると考えた(演義独自)。何進は忠告を聞かなかったものの、この筋立ては陳琳の洞察力をさらに示している。
* 袁紹のために討曹の檄文を撰する:官渡の戦いの前、陳琳は袁紹の命を受け、筆を執るやたちまち書き上げ、あの有名な討曹の檄文を著した。この檄文は文采が斐然たるばかりでなく、曹操の祖父と父への抨撃ゆえに名高い。この場面は陳琳の文学的才華の集中的な体現である。
* 曹操に赦免される:袁紹が敗亡した後、陳琳は曹操に捕らえられた。曹操が彼になぜ檄文の中で自らの父祖を辱めたのかと問い詰めると、陳琳は「箭は弦上に在り、発せざるを得ざるのみ」と答え、最終的にその才華ゆえに曹操に赦免され、麾下に招かれた。この場面は陳琳の機知を示すばかりでなく、曹操の才を愛し才を惜しむ度量をも体現している。

肖像アーカイブ

人物像

性格
もとより才名があり、かつて袁紹の記室を務め、後に曹操に帰順して赦免された。彼はかつて陰夔とともに太祖に降を乞い、また崔琰を救おうとしたこともある。陳琳は建安七子の一人であり、州里の才士と称賛された。
話し方
章表は殊のほか力強く、いささか繁富であった。その文は排比して誇張し、古を引いて今を証し、罪を鳴らして討伐を促し、篇は極めて長かった。
生涯
陳琳は字を孔璋といい、広陵の人である。はじめ何進の主簿となり、かつて何進に外兵を京に召し入れぬよう、また太后の詔に従って宮中へ入らぬよう諫めたが、いずれも採用されなかった。後に冀州へ避難し、袁紹は彼を記室に用い、かつて袁紹のために檄文を作って曹操の父祖を罵った。袁氏が敗れた後は曹操に帰順して赦免され、阮瑀とともに司空軍謀祭酒となり、記室を管掌した。建安二十二年に没した。
逸話
かつて何進に外兵を京に召し入れぬよう諫め、「干戈を逆さに持ち、人に柄を授ければ、功は必ず成らず、かえって乱を生ずるであろう」と指摘した。彼はまた何進に太后の詔に従って宮中へ入らぬよう諫め、「太后のこの詔は、必ずや十常侍の謀である。決して行ってはならぬ。行けば必ず禍がある」と言った。

人間関係

5 件の関係

名言

全 3 件の台詞 · 厳選 2 件

「不可!俗云:『掩目而捕燕雀』,是自欺也。微物尚不可欺以得志,況國家大事乎?今將軍仗皇威,掌兵要,龍驤虎步,高下在心:若欲誅宦官,如鼓洪爐燎毛髮耳。但當速發,行權立斷,則天人順之﹔卻反外檄大臣,臨犯京闕,英雄聚會,各懷一心:所謂倒持干戈,授人以柄,功必不成,反生亂矣。」

演 第2回→ 何進(かしん)

この言葉は何進(かしん)が自ら災いを招き入れることを予告し、時局を洞察したもので、歴史的意義が大きい。

「箭在弦上,不得不發耳。」

演 第32回→ 曹操(そうそう)

「矢は弦に在り、放たざるを得ず」はすでに慣用句となっており、文化的な認知度が高い。

登場回8 回 ▸
  • 史ch.7ch.12ch.21
  • 演ch.2ch.3ch.22ch.32ch.56
関係の年表7 条 ▸

史 ch.7

史 ch.12

史 ch.21

演 ch.2

演 ch.3

演 ch.22

演 ch.32

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は陳琳(ちんりん)、字は孔璋(こうしょう)である。昔、何進(かしん)の幕府で主簿を務めていた頃を思い起こす。彼は宦官を誅殺しようとしながら、すぐさま決断を下そうとはせず、かえって各地の兵馬を召集し、兵を率いて都へ向かわせ、その勢いで太后に
生涯の大事4 ▸