史載(Historical Record)
公孫続(こうそんぞく)は、後漢末の割拠勢力である公孫瓚(こうそんさん)の子である。その父公孫瓚は建安四年(西暦199年)、袁紹(えんしょう)の大軍に易京(えきけい)で包囲された。公孫瓚は包囲されている間、公孫続を遣わして黒山賊に援軍を求めさせ、自ら突騎を率いて西南山から包囲を突破し、黒山賊衆と連合して冀州(きしゅう)の境内を縦横に駆け、袁紹の退路を断とうと目論んだ c:202。しかし、公孫瓚の長史である関靖(かんせい)がこれを諫めた。将兵たちが固守しているのは、家族を案じ、公孫瓚を主柱と仰いでいるからであり、もし公孫瓚がこの時に去れば軍心は離散し、易京は危機に瀕し、公孫瓚もまた根本を失って草野に流落し、何事も成し得なくなる、と考えたからである。公孫瓚は関靖の進言に従い、包囲を突破することはなかった c:202。
公孫瓚は援軍を待つ間、公孫続に書簡を送り、援軍が到着した後、北方で火を挙げて合図とし、公孫瓚は城内から出撃して、内外から袁紹を挟撃する約束を交わした c:202。『典略』の記載によれば、公孫瓚は書簡の中で公孫続に袁紹の攻勢の激しさを述べ、自らもはや頼みとするものがないと嘆き、公孫続に速やかに張燕(ちょうえん)に軽騎を率いて救援に来るよう請うことを求め、もし自らが敗れれば、天下は広しといえども公孫続もまた身を寄せる地はないと強調した c:202。しかし、この書簡は袁紹の斥候に奪い取られた。袁紹の謀士である陳琳(ちんりん)は書簡の内容を改変したが、『典略』の記載と類似した救援の趣旨は保たれていた c:202。
袁紹の斥候は書簡の約束どおり、期日に火を挙げた。公孫瓚は援軍が到着したものと誤認し、軍を率いて出城し袁紹と戦おうとした。ところが、袁紹はあらかじめ備えをなして伏兵を設けており、公孫瓚の部隊を大破した。公孫瓚はやむなく城中へ退き、固守を続けるほかなかった c:202。袁紹はその後、坑道戦術を採り、地下道を掘って公孫瓚の楼櫓を突き破り、徐々に易京の中心部へと迫った。公孫瓚は敗局が定まったことを自覚し、ついに自らの妻子を殺害した後、自殺して果てた c:202。公孫続については、史料にその結末が明確に記されていないが、その父公孫瓚の滅亡は、公孫続が果たし得る役割もまた終焉を迎えたことを暗示している。
演中(In the Novel)
(演義の材料なし)
重要な関係
* 公孫瓚(kin_of):公孫続は公孫瓚の子である。公孫瓚が袁紹に易京で包囲された際、公孫瓚は公孫続が援軍を率いて来て包囲を解いてくれることに望みを託し、そのために書簡を送って火を挙げて合図とすることを約し、内外から袁紹を挟撃しようとした c:202。公孫瓚は書簡の中で公孫続に厚い期待を寄せ、父子の運命は互いに密接に関わり合っており、もし自らが敗れれば公孫続もまた身を立てる地を得難いと考えた c:202。この父子関係は、史料において公孫続が持つ唯一の明確な重要関係であり、その存在のすべての意義でもある。
象徴的な場面
* 易京での援軍要請:公孫瓚が袁紹に易京で包囲された際、公孫続を遣わして黒山賊に援軍を求めさせ、内外から袁紹を挟撃する計画を立てた c:202。公孫瓚は公孫続に書簡を送り、火を挙げて合図とすることを約束し、公孫続が時を逃さず兵を率いて駆けつけ、共に袁紹に立ち向かうことを期した c:202。しかし、この書簡は袁紹に奪い取られ、公孫瓚の計画は潰え、ついには敗死するに至った。この出来事は、史料において公孫続が登場する最も重要な場面であり、父公孫瓚と運命を緊密に結びつけたことの表れでもある。
人間関係
1 件の関係
登場回1 回 ▸
- 史ch.8
関係の年表1 条 ▸
史 ch.8
- 公孫瓚(こうそんさん)§17
kin_of
公孙瓒之子,遣求救于黑山贼
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は公孫続(こうそんぞく)。字(あざな)は記録に見えない。このとき、父の公孫瓚(こうそんさん)は易京(えきけい)に籠城し、袁紹(えんしょう)の大軍に包囲されていた。使者に書状を持たせ、援軍を求めてきた。書状には、敵軍の太鼓や角笛の音は地中か
生涯の大事1 ▸
- 0199-01-01 · 易京(えきけい)易京の戦い(えきけいのたたかい)· 武将