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糜芳(びほう)

劉備集団(りゅうびしゅうだん) · 将軍

糜芳(びほう)

字 子方

登場回
10
台詞の記録
8
人間関係
10
内面の独白
3

史載(Historical Record)

糜芳(びほう)は、字を子方といい、本貫は東海(とうかい)郡で、劉備集団(りゅうびしゅうだん)においてかつて南郡(なんぐん)太守に至った。その兄は糜竺(びじく)である。劉備(りゅうび)が蜀に入っている間、糜芳(びほう)は荊州(けいしゅう)に留守し、関羽(かんう)の麾下に属した。しかし、彼と関羽(かんう)との間には嫌隙があった。孫権(そん けん)がその機に乗じて荊州(けいしゅう)を襲撃したとき、糜芳(びほう)は士仁(しじん)(字は君義、広陽の人、当時将軍を務め公安に駐屯)とともに劉備(りゅうび)に背き、孫権(そん けん)に降った。この挙は直接関羽(かんう)の敗亡を招いた。糜芳(びほう)と同時期に、荊州(けいしゅう)が失われたとき東呉に降った劉備集団(りゅうびしゅうだん)の官員も少なからずいた。例えば零陵(れいりょう)太守の郝普は、呉将の呂蒙(りょもう)に誘われて城を開いて降り、また潘濬(はんしゅん)(字は承明、武陵(ぶりょう)の人)は、かつて荊州(けいしゅう)治中を務めて留守の事務を担い、同じく関羽(かんう)と仲が悪く、最終的に孫権(そん けん)が荊州(けいしゅう)を襲取した後に東呉に身を寄せた。郝普は後に廷尉に至り、潘濬(はんしゅん)は太常に昇って侯に封じられたが、糜芳(びほう)が孫権(そん けん)に降った後の具体的な官職や結末については、史料に詳しい記載がない。

演中(In the Novel)

『三国演義』において、糜芳(びほう)の人物像はより肉付けされ、より劇的なものに造形されており、とりわけ劉備集団(りゅうびしゅうだん)を裏切る過程で、その性格の中の迷いと最終的な怯懦を示している。彼の初登場は劉備(りゅうび)が小沛(しょうはい)に駐屯していた時期で、兄の糜竺(びじく)とともに命を奉じて中軍を守り、劉備(りゅうび)の家眷を保護した。この後、彼はたびたび劉備(りゅうび)に従って転戦し、例えば曹操(そうそう)の大軍が劉備(りゅうび)を追撃したとき、彼は孫乾・簡雍(かんよう)らとともに劉備(りゅうび)の妻子を護送して難を逃れた。赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の前夜、諸葛亮(しょかつりょう)が博望坡の戦い(はくぼうはのたたかい)と新野(しんや)で火攻めを行ったとき、糜芳(びほう)もまた命を奉じて軍事行動に参加し、劉封(りゅうほう)とともに軍を率いて鵲尾坡に伏兵を置き、諸葛亮(しょかつりょう)の計に呼応した。

糜芳(びほう)が演義において最もよく知られているのは、関羽(かんう)の北伐の期間における士仁(しじん)との裏切りである。演義は彼が孫権(そん けん)に降る過程を詳しく描いている。関羽(かんう)は襄樊を北伐し、糜芳(びほう)に南郡(なんぐん)を守らせ、士仁(しじん)に公安を守らせた。関羽(かんう)は二人の失職のために処罰すると言い放ち、二人に怨恨を生じさせた。孫権(そん けん)が呂蒙(りょもう)を派遣して荊州(けいしゅう)を襲取したとき、士仁(しじん)がまず降り、糜芳(びほう)にも呉に降るよう勧めた。糜芳(びほう)は初めはなお忠の念があり、「我ら兄弟は久しく漢中(かんちゅう)王に仕えてきた、どうして一朝にして背くことができようか」と言った。しかし、士仁(しじん)が関羽(かんう)の使者を斬殺し、関羽(かんう)が軍を返した後には必ず彼らを軽くは許さないと指摘し、加えて呂蒙(りょもう)の大軍が城に迫る中、糜芳(びほう)は最終的に士仁(しじん)とともに城を出て降った。孫権(そん けん)は二人の降伏を歓迎し厚く賞した。

関羽(かんう)が害された後、劉備(りゅうび)は仇を報いるため東征して呉を伐った。糜芳(びほう)と士仁(しじん)は呉の陣中で蜀軍の兵士の彼らへの怨恨の声を聞き、命が保てないことを恐れ、そこで馬忠(ばちゅう)(演義で関羽(かんう)を擒えた将領)を刺殺し、その首級を携えて蜀の陣へ赴き罪を請う密謀をした。彼らは「やむを得ず呉に降った」を理由とし、また劉備(りゅうび)が自分の外甥にあたる身分をもって寛恕を求めようとした。しかし、劉備(りゅうび)はこれに激怒し、彼らが形勢が危うくなって初めて巧言で罪を逃れに来たと考え、関羽(かんう)の霊位の前で、関興(かんこう)に糜芳(びほう)・士仁(しじん)の衣服を剥がせ、自ら刀で彼らを剮殺し、関羽(かんう)を祭った。これは史実で糜芳(びほう)が降った後に明確な結末がないのとは鮮明な対照をなしており、演義はこの筋立てを通じて、その裏切り者の悲惨な結末を強め、忠義を際立たせている。演義では、糜芳(びほう)はかつて曹操(そうそう)に降ったと誤認されたこともあり、彼が人々の心の中での人物像が堅固でないことがうかがえる。

主要な関係

* 孫権(そん けん)(defected_to):糜芳(びほう)は士仁(しじん)とともに劉備(りゅうび)を裏切り、孫権(そん けん)に降り、関羽(かんう)の敗亡と荊州(けいしゅう)の喪失を招いた。演義では、孫権(そん けん)は彼らの降伏を厚く賞した。
* 糜竺(びじく)(sibling_of):糜芳(びほう)は糜竺(びじく)の弟である。演義では、二人はかつてともに命を奉じて劉備(りゅうび)の中軍を守った。
* 劉備集団(りゅうびしゅうだん)(serves):糜芳(びほう)は初期には劉備(りゅうび)の重要な幕僚であり将領で、多くの戦役に参加し、重要な防務を担った。劉備(りゅうび)の次妻は糜竺(びじく)の妹であり、このため糜芳(びほう)は劉備(りゅうび)と郎舅の親があった(演義独自)。
* 諸葛亮(しょかつりょう)(serves):諸葛亮(しょかつりょう)が初めて世に出たとき、糜芳(びほう)もまたその指揮に従い、新野(しんや)の火攻めなどの戦役に参加した。
* 関羽(かんう)(has_feud_with):史実では糜芳(びほう)と関羽(かんう)に嫌隙があったと記載されている。演義では、関羽(かんう)が糜芳(びほう)・士仁(しじん)の失職のために処罰すると言い放ったことが、二人が最終的に東呉に降る直接の原因の一つである。
* 士仁(しじん)(ally_in_defection):二人は共に劉備(りゅうび)を裏切り孫権(そん けん)に降った同盟であり、演義ではともに劉備(りゅうび)に処刑された。

象徴的な場面

* 中軍を守る:『三国演義』第18回において、劉備(りゅうび)が小沛(しょうはい)にいたとき、糜芳(びほう)は兄の糜竺(びじく)とともに命を奉じて中軍を守り、劉備(りゅうび)の妻子を保護した。これは糜芳(びほう)の初期の劉備集団(りゅうびしゅうだん)における地位と職責を示している。
* 新野(しんや)の戦い(しんやのたたかい):『三国演義』第40回において、諸葛亮(しょかつりょう)が新野(しんや)で火攻めを行ったとき、糜芳(びほう)は劉封(りゅうほう)とともに軍を率いて鵲尾坡に伏兵を置き、諸葛亮(しょかつりょう)の計に呼応して曹軍を阻んだ。これは彼の劉備集団(りゅうびしゅうだん)の初期の軍事行動への参加を体現している。
* 関羽(かんう)を裏切り、東呉に降る:これは糜芳(びほう)の生涯で最も重要な転換点であり、史料と演義の両方で濃厚に描かれる一筆である。『三国演義』第76回において、糜芳(びほう)は士仁(しじん)の勧めと呂蒙(りょもう)の兵が城に迫る中、最終的に劉備(りゅうび)への忠誠を放棄し、士仁(しじん)とともに孫権(そん けん)に降り、直接荊州(けいしゅう)の喪失と関羽(かんう)の敗亡を招いた。
* 劉備(りゅうび)に剮殺され関羽(かんう)を祭る(演義独自):『三国演義』第83回において、劉備(りゅうび)が関羽(かんう)の仇を報いるため東征して呉を伐ったとき、糜芳(びほう)と士仁(しじん)は馬忠(ばちゅう)を刺殺した後、その首級を携えて蜀の陣へ赴き罪を請うたが、劉備(りゅうび)に巧言で罪を逃れようとすると怒り叱られ、最終的に劉備(りゅうび)が関興(かんこう)に命じて関羽(かんう)の霊前で自ら剮殺し、関羽(かんう)を祭った。この場面は演義における糜芳(びほう)の結末への劇的な処理であり、その裏切り者の人物像と悲惨な末路を大いに強めている。

肖像アーカイブ

人物像

性格
初めは忠念があったが、たちまち士仁に迫られて降伏した。かつて士仁と酒を飲んで失火の失態を犯し、後にまた士仁とともに馬忠を刺殺して先主に投じた。
生涯
糜芳は東海の人で、かつて南郡太守を務めた。後に孫権に叛降し、最後は関公の霊前で剮の刑に処された。
逸話
糜芳は糜竺の弟であり、かつて兄とともに中軍を守り、古城に帰した。彼はかつて玄德の幕僚であり、また劉封とともに兵を率いて屯駐し、船を準備した。当陽の混戦においては身に数箭を受けて逃げ帰り、趙雲が曹に投じたと誤って言った。彼はかつて武将として関羽を輔けて荊州を守り、後に旧日の荊襄の官員として昇賞された。彼はかつて南郡の守将であり、孫権に招降されようとし、最後は士仁とともに城を出て東呉に投降した。

人間関係

10 件の関係

名言

全 8 件の台詞 · 厳選 3 件

「趙子龍反投曹操去了也!」

演 第41回

この言葉は糜芳(びほう)が長坂(ちょうはん)で趙雲(ちょううん)が寝返ったという流言を広めたもので、その小人ぶりを表している。

「吾等受漢中王厚恩,安忍背之?」

演 第76回→ 士仁(しじん)

この言葉は糜芳が東呉に降る前、士仁(しじん)に対して行った偽善的な説得であり、その裏切りを際立たせている。

「軍心變動,我二人性命難保。今蜀主所恨者,馬忠耳;何不殺了他,將首級去獻蜀主,告稱:『我等不得已而降吳,今知御駕前來,特地詣營請罪。』」

演 第83回→ 士仁(しじん)

この言葉は糜芳が身を守るために士仁を唆して馬忠(ばちゅう)を殺しその首を献じさせたもので、その変わり身の速さを余すところなく示している。

登場回10 回 ▸
  • 史ch.45
  • 演ch.18ch.28ch.31ch.40ch.41ch.63ch.75ch.76ch.83
関係の年表7 条 ▸

史 ch.45

演 ch.18

演 ch.40

演 ch.41

演 ch.83

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は今日ここに至り、もはや自ら弁明する余地はない。かつて南郡(なんぐん)にいた頃、漢中王の任を受け、一方の城邑を守っていたからには、命を慎んで奉じ、官吏や民を安んじるべきであった。だが荊州(けいしゅう)を失うと、私は士仁(しじん)とともに、
  • 私は糜芳(びほう)、字は子方である。命を受け、劉封(りゅうほう)とともに二千の兵を率い、新野(しんや)城外三十里の鵲尾坡(Jakubiha)の前に駐屯した。軍の半数は赤旗を、半数は青旗を持ち、孔明(Kōmei)は、曹軍が来たら道を分かれて退
  • 昔、我が家は玄徳と姻戚関係を結び、兄の糜竺(びじく)と私はともにその麾下にあった。私もこの縁によって、彼の家事に関わることができた。乱世にあって、血縁は取るに足らぬ話ではない。一族の命運は、しばしばそのまま安危に結びつく。私はその弟であり、
生涯の大事4 ▸