言語
馬

劉備集団(りゅうびしゅうだん) · 从事

馬良(ばりょう)

字 季常

登場回
13
台詞の記録
17
人間関係
11
内面の独白
3

史書の記載(Historical Record)

馬良(ばりょう)、字は季常、襄陽(じょうよう)宜城の人である。彼とその兄弟五人はみな才名があり、郷里の人は「馬氏の五常、白眉が最も良し」と称した。馬良の眉の中に白い毛があったためにこの称を得たのである c:4246。劉備(りゅうび)が荊州(けいしゅう)を領した際、馬良を辟召して従事とした。劉備が入蜀した後、諸葛亮(しょかつりょう)がこれに従って入川し、馬良は荊州に留まり守った。この間、馬良はかつて諸葛亮に書を致し、劉備が雒城(らくじょう)を攻め落としたことへの祝賀を表し、諸葛亮を「時運に応じて世を賛け、業を配して国を光らす」と称賛した c:4246。劉備は後にまた馬良を辟召して左将軍掾とした。馬良はかつて命を受けて東呉に使いした際、出発前に諸葛亮に孫権(そん けん)への引見を請うたが、諸葛亮は彼に自ら文書を撰せよと言った。馬良はすぐに自らを「軽率な華やかさに乏しいが、終わりを全うする美点がある」と称える自薦の書を書き、孫権はこれを読んで彼を敬重した c:4248。

劉備の称帝(りゅうびのしょうてい)の後、馬良を侍中に任じた。章武二年(222年)、劉備が東征して呉を伐つにあたり、馬良を遣わして武陵(ぶりょう)郡へ赴かせ五溪の蛮夷を招撫させた。馬良はその託に背かず、蛮夷の渠帥を説得して蜀漢(しょくかん)の印号を受け入れさせることに成功し、すべてその意図のとおりとなった c:4237。しかし、同年、劉備は夷陵の戦い(いりょうのたたかい)で大敗し、馬良もこの一戦で殺害された。時に三十六歳であった c:4237。劉備は馬良の功を思い、その子の馬秉に騎都尉を追贈した c:4237。

演義の記述(In the Novel)

『三国演義』において、馬良の人物像はより肉付けされており、より多くの重要な歴史的事件に関わっている。彼が初めて登場するのは劉備が荊州を占拠した後で、伊籍(いせき)が劉備に馬氏兄弟を推挙し、特に馬良について「眉間に白毛があり、名は良、字は季常。郷里はこれを諺にして言う、『馬氏の五常、白眉が最も良し』」と言及した c:4249。馬良は劉備に策を献じ、まず零陵(れいりょう)・武陵・桂陽郡(けいようぐん)・長沙(ちょうさ)の四郡を取って根拠地とし、劉琦(りゅうき)を遣わして荊州を鎮守させ、民心を安んじるよう建議した c:4249。劉備はその計を採り、馬良を従事に任じた c:6756。

馬良は小説の中でたびたび諸葛亮の使者あるいは参謀を務める。劉備の入蜀(りゅうびのにゅうしょく)の間、馬良は諸葛亮の命を受け、書信を持って涪関へ赴き、劉備に諸葛亮の戦事の吉凶についての予警を伝えた c:4251。関羽(かんう)が荊州を鎮守する間、馬良は参軍に任じられ、関羽を輔佐した c:6757。彼はかつて関羽に、軽々しく魯粛(ろしゅく)の「単刀赴会(たんとうふかい)」に赴かぬよう諫め、「魯粛には長者の風があるとはいえ、今は事が急であり、異心を生じないとは限らない。将軍は軽々しく赴くべきではない」と指摘した c:4252。関羽の北伐(かんうのほくばつ)で襄樊を攻めた際、馬良は再び参軍を務め、従軍出征した c:4253。

夷陵の戦いの前夜、馬良は劉備の軍事的布置に異議を唱えた。彼は劉備に進言し、陸遜(りくそん)は「年が若く才が多く、深く謀略がある」として、軽く敵とすべきではないと考えた c:4255。劉備が陣営を山林の茂った地に移すと、馬良は再び諫め、呉兵が突如襲来することを憂えた c:15540。彼は劉備に陣営の図本を東川へ送り、諸葛亮に教えを請うよう建議した c:15542。馬良は命を受けて赴き、諸葛亮は図本を見ると、案を叩いて嘆き、蜀漢の命運が尽きようとしていると予言し、「原隰や険阻を包んで営を結ぶのは、兵家の大忌である。もし彼が火攻めを用いれば、どうやって救うのか」と指摘した c:4256。馬良はこれを聞いて大いに驚き、急いで御営へ駆け戻ったが、すでに手遅れで、劉備は夷陵(いりょう)で敗れていた c:4257。小説では、馬良は夷陵の戦いの後、白帝城(はくていじょう)に戻り、劉備に諸葛亮の言を奏上し、劉備はこれを聞いて悔やんでも悔やみきれなかった c:4257。小説は馬良が夷陵の戦いで殺害されたことを明確には言及せず、彼を生き延びさせ、劉備のために謀を巡らせ続けさせ、劉備が永安(えいあん)宮で病没した後も、馬良はなお劉備に過度に哀しまぬよう諫めている c:15536。これは史実における馬良が夷陵の戦いで殺害されたという記載とは異なっている。

主要な関係

* 蜀漢(serves):馬良は劉備が荊州を領した時から辟召されて従事となり、後に左将軍掾・侍中を務め、生涯を通じて蜀漢に尽くした c:4246。
* 馬謖(ばしょく)(sibling_of):馬良は馬謖の兄であり、兄弟五人はみな才名があり、郷里は「馬氏の五常、白眉が最も良し」と称した c:4246。
* 諸葛亮(friend_of):馬良と諸葛亮の関係は甚だ篤く、互いを「尊兄」と呼び、馬良はかつて諸葛亮に孫権への引見を請うた c:4246, c:4248。演義において、馬良はさらにたびたび諸葛亮の使者にして参謀を務め、諸葛亮の戦略的意図を伝えた c:4251。
* 孫権(friend_of):馬良が東呉に使いした際、孫権は彼を敬重した c:4248。
* 劉備(serves):馬良は劉備の重要な謀士であり、劉備のために謀を巡らせ、深く劉備の信任を得た。演義において、劉備はたびたび馬良の建議を採った c:4249。
* 関羽(colleague_of):演義において、馬良はかつて関羽を輔佐して荊州を鎮守し、その北伐に随った c:6757, c:4253。

象徴的な場面

* 白眉が最も良し:馬良は眉の中に白い毛があったため、郷里の人に「馬氏の五常、白眉が最も良し」と讃えられ、その独特な身分の標識となった c:4246。
* 東呉への使い:馬良はかつて命を受けて東呉に使いし、諸葛亮の建議のもとに自ら文書を撰し、孫権の敬重を得ることに成功した c:4248。
* 五溪の蛮夷を招撫:劉備が東征して呉を伐つ間、馬良は命を受けて武陵へ赴き五溪の蛮夷を招撫し、彼らを説得して蜀漢に帰順させることに成功し、その卓越した外交の才を示した c:4237。
* 関羽の「単刀赴会」を諫める(演義独自):演義において、馬良はかつて関羽に軽々しく魯粛の「単刀赴会」に赴かぬよう諫め、その慎重さと関羽への気遣いを示した c:4252。
* 劉備の夷陵の布陣を諫める(演義独自):夷陵の戦いの前、馬良はたびたび劉備に進言し、その軍事的布置に疑問を呈し、劉備に陣営の図本を諸葛亮に呈して審閲を仰ぐよう建議し、その戦略的眼識と局勢への憂慮を体現した c:15540, c:15542。
* 諸葛亮が夷陵の敗北を予言(演義独自):馬良が劉備の陣営の図本を諸葛亮にもたらすと、諸葛亮は蜀漢の敗亡を予言し、劉備の布陣の致命的な欠陥を指摘した。この場面は、諸葛亮と劉備の間の情報の伝達者としての馬良の重要な役割を際立たせている c:4256。
* 夷陵で殺害される:馬良は夷陵の戦いで殺害され、時に三十六歳で、蜀漢の事業のために命を捧げた c:4237。

人間関係

11 件の関係

名言

全 17 件の台詞 · 厳選 3 件

「荊襄四面受敵之地,恐不可久守。可令公子劉琦於此養病,招諭舊人以守之,就表奏公子為荊州刺史,以安民心;然後南征武陵、長沙、桂陽、零陵四郡,積收錢糧,以為根本。此久遠之計也。」

演 第52回→ 劉備(りゅうび)📍 荊州(けいしゅう)

この計略は劉備集団の荊州における発展戦略を定め、深遠な影響を及ぼした。

「陸遜之才,不亞周郎,未可輕敵。」

演 第83回→ 劉備(りゅうび)

この言葉は陸遜の才能を的確に評価し、夷陵の戦いの結末を予兆している。

「古云:『兼聽則明,偏聽則蔽。』望陛下察之。」

演 第83回→ 劉備(りゅうび)

劉備を諫めるこの一節は馬良の忠直さを表し、今日まで伝わる俗諺ともなっている。

登場回13 回 ▸
  • 史ch.32ch.39
  • 演ch.52ch.63ch.66ch.73ch.75ch.81ch.83ch.84ch.85ch.87ch.95
関係の年表13 条 ▸

史 ch.39

演 ch.52

演 ch.63

演 ch.66

演 ch.73

演 ch.75

演 ch.83

演 ch.84

演 ch.85

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は馬良(ばりょう)、字(あざな)は季常(きじょう)。今、敗報はすでに確定した。かつて猇亭(こうてい)で旌旗が日を覆い、陣営の火が延々と続いた勢いも、たちまち白帝城(はくていじょう)の嘆きへと変わった。陛下が当初、陸遜(りくそん)の名を聞き
  • 私は馬良(ばりょう)、字は季常(きじょう)、襄陽(じょうよう)の宜城(ぎじょう)の人である。郷里では、私たち兄弟五人を「馬氏の五常」と称し、また私の眉に白い毛があったことから、「白眉が最も優れている」と言われた。名声を得たからといって、必ず
  • 私は馬良(ばりょう)、字は季常(きじょう)である。若い頃について言えば、細かな事柄の多くは、今に伝わる記録には見当たらない。私にできるのは、かつて故郷で語られていた評判を思い起こし、兄弟数人が皆、才名を知られていたこと、そして眉の間に白い毛
生涯の大事2 ▸