馬忠

潘璋(はんしょう)の司馬であり部下として、関羽(かんう)の捕縛に加わったことがある。
登場
演義 3 回 · 正史 2 巻
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人物像
- 性格
- 潘璋(はんしょう)の司馬であり部下として、関羽(かんう)の捕縛に加わったことがある。
- 武器
- 弓矢を使用する。
- 逸話
- 『演義』によれば、鉤縄で関羽(かんう)の乗馬を転倒させて関羽を捕らえ、後に黄忠(こうちゅう)の肩口を射抜いた。その後、糜芳(びほう)と士仁(しじん)に刺殺され、首は蜀の陣営に献上された。
史書の記録
建安二十四年(219年)、関羽(かんう)は襄陽(じょうよう)で曹仁(そうじん)を包囲し、曹操(そうそう)は于禁(うきん)を派遣して救援させた。漢水(かんすい)が氾濫すると、関羽は于禁と大勢の兵馬を捕らえた。一方、孫権(そん けん)はその機に乗じて荊州(けいしゅう)の奪取を図り、まず呂蒙(りょもう)に公安を襲撃させ、続いて江陵(こうりょう)を制圧した。関羽が麦城(ばくじょう)まで退くと、孫権の陣営は朱然(しゅぜん)と潘璋(はんしょう)を派遣し、退路を断った。潘璋の部下である司馬の馬忠(ばちゅう)は、章郷(Shōkyō)で関羽とその子の関平(かんぺい)、都督の趙累(ちょうるい)らを捕らえ、これによって荊州は平定された。史書はこの件における馬忠の身分と行動を記すが、出身地や家柄、その後の官歴については述べていない。
『三国志(さんごくし)』の別の箇所には、孫権が関羽を討伐した際、潘璋と朱然が関羽の逃げ道を断ち、臨沮(Rinso)に至って夾石(Kyōseki)に駐屯したと記されている。潘璋の部下である司馬の馬忠は、関羽と関平、趙累らを捕らえた。その後、史書は潘璋の封爵や任官、夷陵の戦い(いりょうのたたかい)への参加について述べているが、馬忠個人の経歴についてはさらに記していない。 したがって、現存する史書の記録において最も明確な馬忠の事績は、潘璋の部下である司馬として、関羽一行の捕縛に加わったことである。
演義での描写
『三国志演義』第七十七回では、馬忠は潘璋の麾下で伏兵による襲撃を実行し、関羽を捕らえる将として描かれている。小説ではまず、呂蒙が関羽は麦城の北門から北上して臨沮へ逃れると予測し、朱然と潘璋に別々の道から伏兵を置かせる。関羽が包囲を突破した後も、幾度となく襲撃を受け、従者は次々と減っていく。決石(Kesseki)のあたりで、伏兵は長い鉤と縄を使って関羽の乗馬をつまずかせ、馬忠が進み出て関羽を生け捕りにする。その後、関平も包囲されて捕らえられる。史書に記されているのは馬忠が関羽らを捕らえたことだけであり、この一連の伏撃や長い鉤と縄、関平が捕らえられた詳細については述べられていない。これらの場面は小説による脚色である。
小説ではさらに、馬忠が関羽を孫権の前に連れていき、孫権が降伏を勧めるものの関羽は屈服を拒み、ついには関羽父子が殺される。関羽の死後、馬忠は赤兎馬を手に入れて孫権に献上し、孫権はその馬を馬忠に与えて乗らせる。赤兎馬は数日間餌を食べずに死んでしまう。降伏を勧めるやり取りや関羽父子が殺される経緯、赤兎馬にまつわる筋書きは、提示された史書の記録にはいずれも見当たらない。
第八十三回でも、馬忠は東呉の将として登場し、蜀軍の復讐譚の標的となる。馬忠は潘璋らとともに戦い、黄忠(こうちゅう)の肩のくぼみに矢を射当てる。黄忠は救出されたものの、ほどなくして死去する。その後、関興(かんこう)が馬忠と遭遇して交戦し、馬忠は一時退却する。さらに小説では、軍心が定まらない糜芳(びほう)と士仁(しじん)が夜に幕舎へ忍び込み、馬忠を刺殺して首を切り落とし、劉備(りゅうび)に献上する。黄忠が矢を受ける場面、関興との交戦、馬忠が刺殺される展開はいずれも演義における人物設定であり、史書には記されていない。
主要な関係
- 潘璋:史書は、馬忠が潘璋の部下である司馬であり、関羽らを捕らえたと記す。小説ではさらに、馬忠は潘璋の部将として描かれ、麦城から臨沮に至る追撃行動で両者が並べて描写される。
- 関羽、関平、趙累:史書によれば、馬忠は関羽とその子の関平、都督の趙累らを捕らえた。演義ではこの行動が、まず関羽が縄で捕らえられ、その後に関平が包囲される場面へと脚色されている。
- 孫権:演義では、馬忠が赤兎馬を孫権に献上し、孫権からその馬を与えられて乗る。この細部は演義独自のものである。
- 黄忠、関興:演義では、馬忠が黄忠に矢を射当て、さらに父の仇を討とうとする関興と交戦する。これらの関係と出来事はいずれも演義独自のものである。
- 糜芳、士仁:演義では、二人が夜に馬忠を襲い、その首を献上する。この出来事は演義独自のものである。
象徴的な場面
- 章郷での関羽捕縛:史書における最も重要な場面は、潘璋の部下である司馬の馬忠が章郷で関羽、関平、趙累らを捕らえ、それに伴って荊州の戦局が決着したことである。
- 臨沮での伏撃、決石での捕縛:演義では、まず朱然に関羽を追い立てさせ、潘璋に迎え撃たせる。続いて伏兵が長い鉤と縄で馬をつまずかせ、馬忠がその機に乗じて関羽を生け捕りにする。この劇的な伏撃の細部は演義独自のものである。
- 赤兎馬の絶食:関羽の死後、馬忠が赤兎馬を献上してそれを賜り、赤兎馬は数日間餌を拒んで死ぬ。忠義の意味合いを強めるこの筋書きは、演義独自のものである。
- 夜半の刺殺:夷陵の戦いを背景に、糜芳と士仁が幕舎に忍び込んで馬忠を刺殺し、首を切り落として蜀に差し出す。これは復讐の筋を締めくくるために演義が設けた場面であり、演義独自のものである。
史と演義
6 項目 · 演義のみ 3
| 史 | 演義 |
|---|---|
| 関羽(かんう)の捕縛演義の脚色 | |
史書によると、馬忠(ばちゅう)は潘璋(はんしょう)の配下の司馬で、潘璋とは朱然(しゅぜん)が関羽(かんう)の退路を断った後、関羽と関平(かんぺい)、趙累(ちょうるい)らを捕らえた。捕縛の過程については詳述されていない。 巻55 | 『演義』では、関羽が決石に差しかかったところで伏兵が長鉤と縄を使って馬を転倒させ、馬忠がただちに関羽を捕らえたと描かれる。史書の簡略な記述が、伏撃の場面へと膨らまされている。 第77回 |
| 関平の捕縛演義の脚色 | |
史書によると、馬忠が関羽を捕らえた際、関平も同時に捕らえられた。関平がどのように捕まったかは記されていない。 巻55 | 小説では、父が捕らえられたのを見た関平が救援に駆けつけ、潘璋と朱然の軍に包囲され、奮戦の末に捕らえられたと描かれている。 第77回 |
| 趙累の最期演義のみ | |
| — | 小説では、趙累は関羽が包囲を突破する際に乱軍の中で死んだとされる。史料には、関羽や関平らとともに馬忠に捕らえられたとしか記されておらず、乱軍の中で死んだとは記されていない。 第77回 |
| 決石での伏撃演義のみ | |
| — | 関羽が決石に差しかかったとき、両側から伏兵が突然襲いかかり、長鉤と縄で馬を転倒させて、関羽を落馬させ捕らえた。決石での伏撃と具体的な捕縛の手段は、小説で膨らませて描かれたものである。 第77回 |
| 黄忠(こうちゅう)を射傷演義のみ | |
| — | 小説では、黄忠が潘璋を追撃する際に呉軍の包囲に陥り、馬忠が山腹から軍を率いて現れ、矢を放って黄忠の肩口を射抜いたと描かれている。黄忠はその後、傷が重くなって死んだ。 第83回 |
| 夷陵(いりょう)の戦い演義の脚色 | |
史書によると、劉備(りゅうび)が夷陵に出兵した後、潘璋と陸遜(りくそん)が力を合わせて防ぎ、潘璋の部下が劉備の護軍である馮習(ふうしゅう)らを斬った。馬忠の参加や黄忠を射傷したことには触れていない。 巻55 | 『演義』では、夷陵の戦いで馬忠が黄忠を射傷したことになっており、黄忠の負傷とその後の死をもたらす重要な筋立てとなっている。史伝にはこの出来事の記載はない。 第83回 |
- 関羽(かんう)の捕縛演義の脚色
- 史
史書によると、馬忠(ばちゅう)は潘璋(はんしょう)の配下の司馬で、潘璋とは朱然(しゅぜん)が関羽(かんう)の退路を断った後、関羽と関平(かんぺい)、趙累(ちょうるい)らを捕らえた。捕縛の過程については詳述されていない。
巻55
- 演義
『演義』では、関羽が決石に差しかかったところで伏兵が長鉤と縄を使って馬を転倒させ、馬忠がただちに関羽を捕らえたと描かれる。史書の簡略な記述が、伏撃の場面へと膨らまされている。
第77回
- 関平の捕縛演義の脚色
- 史
史書によると、馬忠が関羽を捕らえた際、関平も同時に捕らえられた。関平がどのように捕まったかは記されていない。
巻55
- 演義
小説では、父が捕らえられたのを見た関平が救援に駆けつけ、潘璋と朱然の軍に包囲され、奮戦の末に捕らえられたと描かれている。
第77回
- 趙累の最期演義のみ
- 演義
小説では、趙累は関羽が包囲を突破する際に乱軍の中で死んだとされる。史料には、関羽や関平らとともに馬忠に捕らえられたとしか記されておらず、乱軍の中で死んだとは記されていない。
第77回
- 決石での伏撃演義のみ
- 演義
関羽が決石に差しかかったとき、両側から伏兵が突然襲いかかり、長鉤と縄で馬を転倒させて、関羽を落馬させ捕らえた。決石での伏撃と具体的な捕縛の手段は、小説で膨らませて描かれたものである。
第77回
戦績
戦場の記録
原文に記された一騎討ち・討ち取り・処刑を、史書と演義に分けて数えます。

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- 我が名は忠、潘璋(はんしょう)の配下にある司馬である。このとき私は臨沮(りんしょ)の夾石に立っていた。四方から山道が迫り、兵卒たちは息を潜め、前方の道はすでに断たれていた。私が命じられたのは、関羽(かんう)の帰路を遮ることだった。かつて関羽