言語
張

董卓集団(とうたくしゅうだん) · 将軍

張済(ちょうさい)

登場回
8
台詞の記録
1
人間関係
3
内面の独白
1

史書の記載(Historical Record)

張済(ちょうさい)は、後漢末期の人物で、もとは董卓(とう たく)の部将であった。董卓が殺害された後、その旧部である李傕(りかく)、郭汜(かくし)らは一時困窮し、瓦解の局面に直面していた。当時、賈詡(かく)が彼らに策を献じ、軍勢を率いて長安(ちょうあん)へ攻め戻り、董卓の仇を報い朝政を掌握するよう提案した。張済と樊稠らは賈詡の進言を採用し、十数万の兵力を結集して、ついに長安を攻め落とし、城中で呂布(りょふ)と激戦を繰り広げ、呂布は敗走した。その後、李傕、郭汜、樊稠、張済らは共に朝政を握り、大いに殺戮を行い、長安城内を生き地獄と化した。張済はこのことにより驃騎将軍に任じられ、平陽(へいよう)侯に封ぜられ、命を受けて弘農に屯した。後に、張済は関中から兵を率いて南陽(なんよう)を攻めたが、この戦役で不幸にも命を落とした。その甥の張繡(ちょうしゅう)が彼の部衆を継承した。

演義での描写(In the Novel)

『三国演義』において、張済の人物像は史実とおおむね一致するが、より多くの細部と劇的な色彩が加えられている。彼は当初、董卓の部将として登場し、董卓に従って洛陽(らくよう)へ赴いた。董卓が洛陽で専権を振るった後、張済は李傕、郭汜、樊稠らとともに董卓の腹心の将であった。王允(おういん)と呂布が董卓誅殺を謀ったとき、董卓は都へ戻る前に、張済と李傕、郭汜、樊稠の四人に飛熊軍三千を率いて郿塢を鎮守するよう命じていた。董卓の死後、李傕、郭汜らは献帝を殺そうとしたが、張済と樊稠はこれを諫め、ただちに皇帝を殺害すべきではなく、これを主君として奉戴し、諸侯に号令し、羽翼を剪除した後に天下を図るべきだと考えた。この場面は演義における張済の比較的慎重な一面を示している。その後、彼は李傕、郭汜、樊稠とともに高官に封ぜられ、張済は驃騎将軍・平陽侯に封ぜられ、兵を率いて弘農に屯した。献帝が東に帰還する過程で、張済は大軍を率いて陝西から駆けつけ、李傕・郭汜二人の和解を取り持ち、上表して天子に弘農へ行幸するよう請い、百官のために糧草と酒肉を提供した。最終的に、張済は南陽を攻めた際、流れ矢に当たって死亡し、その甥の張繡が部衆を継承し、賈詡を謀士として迎え入れ、劉表(りゅう ひょう)と結盟し、宛城(えんじょう)に屯し、闕を犯して天子を奪おうと企てた。

主要な関係

* 張繡(kin_of):張済の甥であり、張済の死後その部衆と勢力を継承した。
* 董卓集団(とうたくしゅうだん)(general):張済は董卓の重要な部将であり、李傕、郭汜、樊稠らとともに董卓の腹心であり、董卓の死後の長安攻略と朝政の掌握に共に参与した。
* 献帝(けんてい)(serves):李傕、郭汜らが朝政を握っていた期間、張済は名目上は漢の献帝劉協の臣下であり、献帝の東帰の護送に参与したこともある(演義独自)。

象徴的な場面

* 長安攻略、朝政の掌握:董卓の死後、張済は李傕、郭汜、樊稠らとともに賈詡の計を採用し、軍を率いて長安を攻め落とし、呂布を破り、共に朝政を握り、張済は驃騎将軍・平陽侯に封ぜられ、弘農に屯した。
* 弑帝を諫止(演義独自):『三国演義』において、李傕、郭汜が献帝を弑そうとしたとき、張済と樊稠は出て諫止し、まず帝を奉戴して諸侯に号令し、その後に事を図るよう進言し、その比較的慎重な一面を示した。
* 弘農での和解と迎駕(演義独自):献帝の東帰の途上、張済は大軍を率いて李傕、郭汜の和解を取り持ち、上表して天子に弘農へ行幸するよう請い、百官に糧草を提供した。
* 南陽での戦死:張済が兵を率いて南陽を攻めた際、流れ矢に当たって死亡し、その部衆は甥の張繡が継承した。

人間関係

3 件の関係

台詞

  • 演 ch.10 §1→ 李傕(りかく)📍 長安(ちょうあん)

    「不可。今日若便殺之,恐眾人不服;不如仍舊奉之為主,賺諸侯入關,先去其羽翼,然後殺之,天下可圖也。」

登場回8 回 ▸
  • 史ch.1ch.6ch.8
  • 演ch.3ch.9ch.10ch.13ch.16
関係の年表3 条 ▸

史 ch.1

演 ch.13

演 ch.16

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は張済(ちょうさい)、字は不詳である。関中で兵乱が起こり、董卓(とう たく)が死んだ後、長安(ちょうあん)はまた傕(Jue)や汜(Si)らに占拠された。私は驃騎将軍、平陽(へいよう)侯の称号を受け、弘農に駐屯した。名声も地位も高かったが、
生涯の大事1 ▸