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郭汜(かくし)

董卓集団(とうたくしゅうだん) · 后将军

郭汜(かくし)

字 阿多

登場回
7
台詞の記録
7
人間関係
8
内面の独白
3

史載(Historical Record)

郭汜(かくし)、字は阿多、張掖(ちょうえき)の人で、もとは董卓(とう たく)の部曲であった。董卓の死後、その旧部である李傕(りかく)・郭汜らは誅殺されるのを恐れ、賈詡(かく)の進言により、部隊を糾合して長安(ちょうあん)に反攻した c:6515。当時、王辅は敗れ、衆は依る所なく、涼州(りょうしゅう)の兵馬は赦書がなく、しかも長安が涼州の人を尽く誅殺しようとしていると聞いて憂え恐れる中、賈詡の策を採り、西進して兵を収めた。最終的に、郭汜は李傕・樊稠・李蒙(りもう)・王方ら董卓の旧部と兵を合わせ、兵力は十余万に達し、長安城を包囲攻撃した。十日間の攻城の後、長安城は陥落した。城が陥ちると、郭汜は呂布(りょふ)と城中で交戦し、呂布は敗れて逃げ去った。李傕・郭汜らはただちに兵を放って長安を略奪し、老少を殺戮し、死者が狼藉した。彼らはまた、かつて董卓を殺す謀を巡らせた司徒の王允(おういん)を誅殺し、その屍を市に棄てた。王允は難に臨んでなお国家を念い、苟も免れることを望まず、最終的に李傕・郭汜らに殺害され、その妻子宗族十余人も難を免れなかった。長安城中の男女老少は涙を流さぬ者がなかった c:6515。

董卓の屍は郿に葬られたが、大風暴雨が董卓の墓を震わせ、水が墓室に流れ込んで、その棺槨を漂わせ、天が怒り人が怨む象を示した。事後、李傕は車騎将軍・池陽侯に封じられ、司隷(しれい)校尉を領し節を仮された。郭汜は後将軍・美陽侯に封じられた。樊稠は右将軍・万年侯となった。李傕・郭汜・樊稠の三人はこれより朝政を擅にし、漢室の大権を掌握した c:6515。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』では、郭汜の姿はさらに造形され、彼は董卓の重要な部将として、幾度も董卓の軍事行動と政治的陰謀に加わる。彼は初登場の際、董卓とともに洛陽(らくよう)へ進軍した c:6516。董卓が虎牢関で十八路の諸侯と対峙したとき、郭汜は李傕とともに命じられて五万の兵馬を率いて汜水關を守ったが、戦うなと命じられ、諸侯を牽制した c:3912。

董卓が長安に遷都する際、郭汜は李傕とともに命じられて洛陽の数百万の百姓を長安へ駆り立て、途中で軍士が人の妻女を犯し人の糧食を奪うのを放任し、死者を無数に生み、洛陽の宮庭をことごとく焦土とし、その残虐な一面を示した c:6517。董卓が禅を受けて帝を称する前、郭汜は李傕・張済(ちょうさい)・樊稠の四人とともに董卓に腹心の将として任じられ、飛熊軍三千を率いて郿塢を守った c:6518。

董卓が誅された後、李傕・郭汜らは長安に反攻し、漢の献帝(けんてい)を劫した。彼らは当初は献帝を弑そうとしたが、張済・樊稠の諫めにより、帝を主と奉じて諸侯を関に誘い込む策に改めた。その後、李傕・郭汜らはそれぞれ献帝に高官厚禄を求め、郭汜は後将軍・假節鉞に封じられ、李傕とともに朝政を秉った c:6519。

後に、李傕・郭汜の間で権力を争って矛盾が生じた。楊彪(ようひょう)の反間の計により、郭汜の妻は李傕が毒を盛ったと疑い、郭汜と李傕は兵刃を交え、長安城内は混乱に陥った c:14988。李傕は献帝を劫し、郭汜は宮嬪采女を掠め、宮殿に火を放った c:3913。二人は長安城下で五十余日にわたって斬り合い、死傷が無数であった c:14991。楊彪らの調停により、二人は一時和議を結んだが、まもなく誤解から再び交戦した。郭汜はかつて献帝を劫そうとしたが、楊奉(ようほう)・董承(とうしょう)らに救い出された c:14993。最終的に、郭汜は李傕と兵を合わせて献帝を追ったが、弘農で楊奉・董承らと大いに戦った c:14994。

キーとなる関係

* 董卓集団(とうたくしゅうだん)(senior_official):郭汜は董卓配下の重要な将の一人で、李傕・樊稠・張済らとともに董卓の軍事集団の中核戦力を構成した。彼は董卓の幾度もの重要な軍事行動と政治的決定に参加し、董卓の有力な腹心であった c:6516。
* 董卓(serves):郭汜は董卓に忠誠を尽くし、董卓が殺された後、李傕らとともに董卓の仇を討ち、長安に反攻して、最終的に朝政を掌握した c:6515。演義では、董卓は出立に際してかつて郭汜ら腹心の将を任じて郿塢を守らせた c:6518。
* 西涼軍(せいりょうぐん)(lord_of):郭汜は西涼の軍閥を代表する人物の一人である。董卓の死後、彼は李傕らとともに涼州の兵馬を召集し、一方に割拠する軍閥となり、漢朝の政治の中心である長安を掌握した c:6515。
* 献帝(betrayed_by):郭汜は董卓の死後、名目上は漢の献帝を主と奉じたが、実際には天子を劫し、朝政を操り、漢の献帝を凌ぎ抑圧した。彼と李傕の内訌は、漢の献帝に流離の苦しみを存分に味わわせた c:6519。

象徴的な場面

* 長安への反攻と王允の誅殺:董卓の死後、郭汜は李傕らとともに賈詡の策を採り、涼州の兵馬を糾合して長安に反攻した。城が陥ちると、彼らは兵を放って略奪し、司徒の王允を誅殺し、漢室の朝政を掌握した。これは郭汜の政治生涯の転換点であり、彼が権力の頂点へ向かう象徴でもある c:6515。
* 洛陽の百姓を駆り立てて長安に遷都する:『三国演義』では、郭汜は李傕とともに董卓の命を受け、洛陽の数百万の百姓を長安へ駆り立てた。この過程で、彼らは軍士の焼殺略奪を放任し、百姓を無数に死傷させ、洛陽城を焦土と化させ、その残虐と百姓への荼毒を存分に示した c:6517(演義独自)。
* 李傕との内訌、長安大乱:郭汜と李傕は朝政を掌握した後、権力を争って内訌を起こした。二人は長安城内で兵刃を交え、互いに攻め合い、長安城を混乱に陥れ、漢の献帝もこれによって脅えと流離の苦しみを味わった。この出来事は後漢末の軍閥混戦の縮図であり、漢室の衰退を加速させた c:14988。
* 献帝を劫し、車駕を追う:李傕との内訌の中で、李傕は献帝を劫し、郭汜は宮嬪を掠めた。その後、郭汜はまた兵を率いて献帝の車駕を追い、再び天子を劫そうとした。この一連の出来事は漢の献帝の境遇をさらに困難なものとし、郭汜ら軍閥の皇権に対する蔑視と弄びを際立たせた c:3913。

肖像アーカイブ

人物像

性格
郭汜(かくし)は董卓(とうたく)の部将で、李傕(りかく)とともに朝政をほしいままにし、長安(ちょうあん)を乱した涼州(りょうしゅう)の将である。彼はかつて自立して大将軍を号し、李傕と内訌し、公卿を拉致し、火を放って宮殿を焼いた。
生涯
郭汜(かくし)は張掖(ちょうえき)の人で、別名を多という。彼はかつて長安(ちょうあん)を攻めて呂布(りょふ)を破り、後将軍・美陽侯に封じられた。後に李傕(りかく)と長安城内で互いに猜疑し合い戦った。彼は天子を脅して郿(び)へ帰らせようとしたが、楊奉(ようほう)に敗れた。最終的に、彼はその部将である伍習に襲われ、郿で死んだ。
逸話
郭汜(かくし)はかつて董卓(とうたく)に従って兵を率い洛陽(らくよう)へ向かい、李傕(りかく)とともに袁隗(えんかい)を包囲して殺し、汜水關を守った。彼は妻の離間の計により李傕が自分を毒殺しようとしていると疑い、そこで李傕と攻め合った。

人間関係

8 件の関係

名言

全 7 件の台詞 · 厳選 3 件

「此乃劫駕,何為保駕?」

演 第13回→ 李傕(りかく)

この一言は、郭汜(かくし)の漢献帝に対する本心を明らかにしており、天子を擁して諸侯に号令する姿を描き出している。

「李傕劫天子,偏我劫不得公卿!」

演 第13回

この一言は、郭汜(かくし)と李傕(りかく)が権勢と利益を争い、互いに倣い合う混乱した状況を示しており、後漢末期の軍閥混戦の特徴を反映している。

「楊奉、董承救駕往弘農去了。若到山東,立腳得定,必然布告天下,令諸侯共伐我等,三族不能保矣。」

演 第13回→ 李傕(りかく)

この一言は、郭汜(かくし)の天下の大勢に対する冷静な認識を表し、諸侯の討伐がもたらす結末を予見しており、一定の戦略的な眼識を備えている。

登場回7 回 ▸
  • 史ch.6
  • 演ch.3ch.5ch.6ch.9ch.10ch.13
関係の年表2 条 ▸

演 ch.5

演 ch.13

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 我は郭汜(かくし)、字は阿多。董公が亡くなった後、関中がたちまち乱れ、我と李傕(りかく)らは頼るものもないまま外にいた。さらに、長安(ちょうあん)では涼州(りょうしゅう)の者を皆殺しにしようとしていると聞き、皆が不安と恐れを抱いた。そこで賈
  • 王允(おういん)が誅殺されると、帝は楼上から、なぜ我らが兵を退かないのかと尋ねた。その言葉を聞いても、私に退く気はなかった。董卓(とう たく)は死んだものの、朝廷はまだ我らに爵位を与えておらず、兵士たちも忠誠心だけで解散するわけにはいかなか
  • 私は郭汜(かくし)、字は阿多(あた)、涼州(りょうしゅう)の人である。若い頃を思い返せば、辺境の砂塵はいつも衣の袖に入り、軍中での行動は命令に従うのみで、遠大な策を問うことはなかった。その後、董卓(とうたく)公に従って関東へ入り、西州の兵馬
生涯の大事6 ▸