言語
劉

蜀漢(しょくかん) · 尚书令

劉巴(りゅうは)

字 子初

登場回
4
台詞の記録
0
人間関係
1
内面の独白
1

史書の記録(Historical Record)

劉巴(りゅうは)、字は子初、零陵(れいりょう)烝陽の人である。彼は少年のころからすでに名を知られ、その祖父の劉曜はかつて蒼梧(そうご)太守を務め、父の劉祥は江夏(こうか)太守・荡寇将軍であった。劉祥は孫堅(そん けん)が董卓(とう たく)を討つとき、南陽(なんよう)太守の張諮が軍糧を与えなかったために殺されたが、劉祥は張諮と心を同じくしていたため、後に南陽(なんよう)の士民に攻め殺された。劉表(りゅう ひょう)はもともと劉祥を喜ばず、かつて幼い劉巴(りゅうは)を拘禁し、これを殺そうとしたが、劉巴(りゅうは)は堅貞不屈で、最終的に劉表(りゅう ひょう)は目的を遂げられなかった c:4692。

劉表(りゅう ひょう)はかつてたびたび劉巴(りゅうは)を召し出し、また茂才に挙げたが、劉巴(りゅうは)はいずれも就任しなかった。建安十三年(208年)、劉表(りゅう ひょう)が没し、曹操(そうそう)が荊州を南征した。劉備(りゅうび)が南のかた江南に奔ると、荊楚の士人の多くがこれに従ったが、劉巴(りゅうは)は北上して曹操(そうそう)のもとに身を寄せた。曹操(そうそう)は彼を掾属に召し、長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽郡(けいようぐん)の三郡を招納するよう遣わした。しかし、劉備(りゅうび)がその機に乗じてこの三郡を略取したため、劉巴(りゅうは)は任務を完成できず、やむなく交趾へ遠く去った c:4692。

劉巴(りゅうは)は交趾にいる間、かつて張と化名し、後に交趾太守の士燮と意見が合わず、そこで牂牁道を経て蜀に入った。益州(えきしゅう)郡にいたとき、彼は一度太守に拘留され、危うく殺されかけたが、幸いにも主簿の救いを得て、益州(えきしゅう)牧の劉璋(りゅう しょう)のもとに送られた。劉璋(りゅう しょう)の父である劉焉(りゅうえん)はかつて劉巴(りゅうは)の父の劉祥の推薦によって孝廉に挙げられていたため、劉璋(りゅう しょう)は劉巴(りゅうは)を見て非常に喜び、しばしば彼に大事を諮った。劉巴(りゅうは)はかつて劉璋(りゅう しょう)に力諫し、劉備(りゅうび)は「雄人」であり、蜀に入れば必ず禍患となるゆえ、受け入れてはならないと指摘した。劉備(りゅうび)が成都(せいと)を攻めたとき、劉巴(りゅうは)は門を閉じて病と称した。劉備(りゅうび)は成都(せいと)を攻め落とした後、わざわざ軍中に「劉巴(りゅうは)を害する者あらば、誅は三族に及ぶ」と令を下し、劉巴(りゅうは)を得たことを非常に喜んだ c:4694。

諸葛亮(しょかつりょう)はたびたび劉備(りゅうび)に劉巴(りゅうは)の才能を称賛し、劉備(りゅうび)はそこで彼を左将軍西曹掾に召した。劉巴(りゅうは)は人となりが清倹で、産業を治めなかった。彼は劉備(りゅうび)に帰附したのは本心からではないと自認し、猜忌を受けることを心配したため、恭黙守静し、退いては私交なく、公事でなければ言わなかった。劉備(りゅうび)が成都(せいと)を攻め落とした後、士卒が争って府庫の財物を奪い、軍用が不足する事態となった。劉備(りゅうび)はこれを憂え、劉巴(りゅうは)は「直百銭」を鋳造し、物価を平定し、官吏に市場の管理を担わせる策を献じ、数か月のうちに府庫を充実させた c:4694。

建安二十四年(219年)、劉備(りゅうび)が漢中王を称すると、劉巴(りゅうは)は尚書に任じられ、後に法正(ほうせい)に代わって尚書令を務めた。章武元年(221年)、劉備(りゅうび)が帝を称すると、皇天上帝・后土神祇に告げる詔およびすべての文誥策命は、みな劉巴(りゅうは)の手から出た。章武二年(222年)、劉巴(りゅうは)は没した。彼が没した後、魏国の尚書僕射の陳羣(ちんぐん)はかつて丞相の諸葛亮(しょかつりょう)に書を送り、劉巴(りゅうは)の様子を尋ね、彼を「劉君子初」と称し、極めて大きな敬重を表した c:4695。

演義の中で(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』では、劉巴(りゅうは)の形象は劉備集団(りゅうびしゅうだん)に反対の態度を持つ謀士として造形され、その登場の多くは劉璋集団(りゅうしょうしゅうだん)の決策と関連している。彼が初めて登場するのは第六十二回で、当時劉備(りゅうび)が入川し、劉璋(りゅう しょう)に救援を求めた。劉巴(りゅうは)は楊懐(ようかい)・高沛らとともに劉璋(りゅう しょう)を諫め、劉備(りゅうび)は「梟雄」であり、もし長く蜀に留めて遣らなければ、「虎を室に入れる」に等しく、ましてその軍馬銭糧を助けることはできず、さもなくば「虎に翼を添える」ことになると指摘した c:4696。劉璋(りゅう しょう)はこれを聞いて躊躇し、最終的にただ老弱の軍四千と米一万斛を割いただけであった。

第六十五回で、劉備(りゅうび)が成都(せいと)を囲攻し、劉璋(りゅう しょう)が降ろうとした。譙周(しょうしゅう)は「天象」と「童謡」をもって劉璋(りゅう しょう)に天意に順応して劉備(りゅうび)に投降するよう勧めた。このとき、劉巴(りゅうは)と黄権(こうけん)はみな大いに怒り、譙周(しょうしゅう)を斬ろうとしたが、劉璋(りゅう しょう)に阻まれた c:544。これは史実における劉巴(りゅうは)がかつて劉璋(りゅう しょう)に劉備(りゅうび)を受け入れないよう力諫した記載と符合するが、演義ではこれをいっそう激進的で情緒的に描いている。

演義では、劉備(りゅうび)が益州(えきしゅう)を平定した後、投降した文武の官員に封賞を行った。劉巴(りゅうは)は左将軍に任じられた c:4697。これは史実における劉巴(りゅうは)が左将軍西曹掾に召され、後に尚書・尚書令を務めた記載とはいくらか異なり、演義では直接に「左将軍」の官職を与え、かつ彼が後に蜀漢(しょくかん)政権において重要な文職に就いたことには言及していない。

演義における劉巴(りゅうは)の性格の刻画は、とりわけ彼と張飛(ちょうひ)との相互作用において、史料の記載と相似する点がある。史料には、張飛(ちょうひ)がかつて劉巴(りゅうは)の宿に就いたが、劉巴(りゅうは)は語らず、張飛(ちょうひ)はそこで忿恚し、劉巴(りゅうは)はひいては「大丈夫は世に処するに、当に四海の英雄と交わるべし、いかんぞ兵子と語を共にせんや」と直言したと記載されている c:4694。演義はこの場面を直接描いてはいないが、劉巴(りゅうは)が劉璋集団(りゅうしょうしゅうだん)において劉備集団(りゅうびしゅうだん)に対して敵視する態度、および黄権(こうけん)らとの立場は、いずれも間接的に彼の「天素高亮」な性格、すなわち軽々しく人と交好せず、とりわけ彼が認めない人とは伍さない性格を体現している。

主要な関係

* 劉表集団(りゅうひょうしゅうだん)(defected_from):劉巴(りゅうは)はかつて劉表(りゅう ひょう)にたびたび召し出され、茂才に挙げられたが、いずれも就かなかった。劉表(りゅう ひょう)が没した後、劉巴(りゅうは)は劉備(りゅうび)に従わず、北上して曹操(そうそう)のもとに身を寄せることを選んだ c:4692。
* 曹魏(そうぎ)(serves):劉巴(りゅうは)は劉表(りゅう ひょう)が没した後に曹操(そうそう)のもとに身を寄せ、曹操(そうそう)に掾属として召され、長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽郡(けいようぐん)の三郡を招納するよう命を受けた c:4692。
* 劉璋集団(りゅうしょうしゅうだん)(serves):劉巴(りゅうは)は交趾を転々とした後に蜀に入り、劉璋(りゅう しょう)に重用され、たびたび劉璋(りゅう しょう)に進諫し、劉備(りゅうび)を受け入れ重用することに反対した c:4694。
* 蜀漢(しょくかん)(serves):劉備(りゅうび)が益州(えきしゅう)を攻め取った後、劉巴(りゅうは)は劉備(りゅうび)に帰附した。諸葛亮(しょかつりょう)のたびたびの推薦によって、劉備(りゅうび)は彼を左将軍西曹掾に召し、後に尚書・尚書令を務めさせ、重要な文書の起草を担わせた c:4694。
* 劉備集団(りゅうびしゅうだん)(serves):劉巴(りゅうは)は最終的に蜀漢(しょくかん)に尽くし、劉備(りゅうび)の重要な謀士・官員となり、とりわけ財政と文書の方面で卓越した貢献をなした c:4694。
* 諸葛亮(しょかつりょう):諸葛亮(しょかつりょう)はたびたび劉巴(りゅうは)の才能を称賛し、劉備(りゅうび)に彼を推薦した。劉巴(りゅうは)が没した後、諸葛亮(しょかつりょう)と魏国の尚書僕射の陳羣(ちんぐん)との通信の中でも劉巴(りゅうは)に言及しており、彼への敬重を示している c:4694。
* 張飛(ちょうひ):史載では張飛(ちょうひ)がかつて劉巴(りゅうは)の宿に就いたが、劉巴(りゅうは)は彼と語らず、張飛(ちょうひ)を忿恚させた。劉巴(りゅうは)はひいては「兵子」と語ることを潔しとしないと直言し、その高傲な性格を示している c:4694。

象徴的な場面

* 劉表(りゅう ひょう)の召し出しを拒み北のかた曹操(そうそう)に投ず:劉巴(りゅうは)はたびたび劉表(りゅう ひょう)の召し出しを拒み、劉表(りゅう ひょう)が没した後、劉備(りゅうび)に従って南奔せず、かえって北上して曹操(そうそう)のもとに身を寄せ、その独特の政治的選択と遠見を示した c:4692。
* 劉璋(りゅう しょう)に劉備(りゅうび)を受け入れないよう力諫す:劉巴(りゅうは)は劉備(りゅうび)の入蜀の前と入蜀の後、たびたび劉璋(りゅう しょう)に進諫し、劉備(りゅうび)の脅威を指摘し、劉璋(りゅう しょう)に劉備(りゅうび)を受け入れ重用しないよう勧め、局勢への深い洞察を示した c:4694。
* 成都(せいと)城破の後に鋳幣を献策して府庫を充実させる:劉備(りゅうび)が成都(せいと)を攻め落とした後、軍用が不足し、劉巴(りゅうは)は「直百銭」を鋳造し、物価を平定し、府庫を数か月のうちに充実させる策を献じ、劉備(りゅうび)の燃眉の急を解決し、その卓越した経済的才能を示した c:4694。
* 劉備(りゅうび)の称帝の文誥を起草す:劉備(りゅうび)が帝を称したとき、皇天上帝・后土神祇に告げる詔およびすべての文誥策命は、みな劉巴(りゅうは)によって起草され、彼の蜀漢(しょくかん)政権における重要な地位と文学的才能を体現した c:4695。
* 『三国(さんごく)演義』における劉璋(りゅう しょう)への劉備(りゅうび)を助けないよう諫める進言:『三国(さんごく)演義』では、劉巴(りゅうは)は楊懐(ようかい)・高沛らとともに劉璋(りゅう しょう)を諫め、劉備(りゅうび)は「梟雄」であり、その軍馬銭糧を助けるべきではなく、さもなくば「虎に翼を添える」ことになると指摘した c:4696(演義独自)。

人間関係

1 件の関係

登場回4 回 ▸
  • 史ch.32ch.39
  • 演ch.62ch.65
関係の年表1 条 ▸

演 ch.65

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 成都(せいと)がすでに平定されると、先主は私を要職に就けた。このとき私が思いを巡らせていたのは、一時の栄辱ではなく、帰順した先が義にかなっているか、任された役目が器量に見合っているかということだった。昔を思えば、荊州(けいしゅう)の牧であっ
生涯の大事2 ▸