史実(Historical Record)
王修(おうしゅう)は、字は叔治、北海郡(ほっかいぐん)営陵の人である。その幼年の経歴は不運で、七歳で母を喪い、翌年、隣里の社日に、母を思って哀しみに堪えず、隣里はこれを聞いて彼のために社を罷めた c:2703。二十歳のとき、王修(おうしゅう)は南陽(なんよう)へ遊学し、張奉の家に寄宿した。張奉の一家が病に染まり、看病する者がいなかったので、王修(おうしゅう)は自ら看護し、彼らが癒えてから初めて去った。初平年間、北海太守の孔融(こうゆう)が王修(おうしゅう)を辟召して主簿とし、後にまた彼を高密県令に任じた。高密の地元の孫氏一族は素より豪侠で、その門客はしばしば法を犯した。かつて盗賊が孫氏の家に入ったが、官吏は捕らえようとしなかった。王修(おうしゅう)は吏民を率いて孫氏を囲んだが、孫氏は拒んで守った。王修(おうしゅう)は令を下した、「敢えて攻めぬ者あらば同罪とする」。孫氏は恐れ、ついに盗賊を引き渡した。これより、地元の豪強は慴服した c:2703。
王修(おうしゅう)はかつて孝廉に挙げられたが、彼はそれを邴原(へいげん)に譲ろうとした。孔融(こうゆう)は許さず、返書して王修(おうしゅう)を「身を清くし己を絜くし、諸難を歴試し、謀りて過ち鮮く、恵訓して倦まず」と称賛した c:2703。時に天下が大いに乱れ、孝廉の挙は実行されなかった。ほどなく、郡中に叛乱が起こり、王修(おうしゅう)は孔融(こうゆう)に難ありと聞いて、夜を徹して駆けつけ救援した。孔融(こうゆう)は彼が来たのを見て嘆じた、「難を冒して来うるは、ただ王脩あるのみ」 c:2703。王修(おうしゅう)は後に功曹に任じられた。胶東の地方で盗賊が猖獗をきわめ、王修(おうしゅう)はまた派遣されて胶東県令を務めた。胶東の人公沙盧は宗族が強横で、自ら営寨を築き、徴発調達に応じようとしなかった。王修(おうしゅう)はわずか数騎を率いてまっすぐその門に踏み込み、盧氏兄弟を斬り、公沙氏の族人は驚き、妄りに動かなかった。王修(おうしゅう)はその余の族人を安撫し、これより盗寇はやや平らいだ。孔融(こうゆう)が危難に遭うたびに、王修(おうしゅう)は家で休暇中であっても、駆けつけて助けぬことはなく、孔融(こうゆう)はつねに王修(おうしゅう)に頼って難を免れえた c:2703。
袁譚(えんたん)が青州(せいしゅう)を占めたとき、王修(おうしゅう)を辟召して治中従事とした。袁紹(えんしょう)の死後、袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)の兄弟が内輪もめした。袁尚(えんしょう)が袁譚(えんたん)を攻め、袁譚(えんたん)が敗れると、王修(おうしゅう)は吏民を率いて救援に赴いた。袁譚(えんたん)は喜んで言った、「吾が軍を成すは、王別駕なり」 c:2705。袁譚(えんたん)が敗れた後、劉詢が漯陰で兵を挙げ、諸城が呼応した。王修(おうしゅう)は袁譚(えんたん)兄弟に和睦するよう諫め、「兄弟が還って相攻撃するは、これ敗亡の道なり」 c:2705 と指摘したが、袁譚(えんたん)は聞かなかった。曹操(そうそう)が冀州(きしゅう)を攻め破った後、袁譚(えんたん)はまた叛いた。曹操(そうそう)は兵を引いて南皮(なんぴ)の袁譚(えんたん)を攻めた。王修(おうしゅう)は当時、楽安で糧を運んでおり、袁譚(えんたん)の危急を聞いて、その配下の兵馬および数十名の従事を率いて救援に赴いた。高密に至ったとき、袁譚(えんたん)がすでに死んだと聞き、彼は馬を下りて号哭して言った、「君なくして焉くにか帰せん」 c:2705。そこで曹操(そうそう)のもとへ赴き、袁譚(えんたん)の屍を収葬することを請うた。曹操(そうそう)は王修(おうしゅう)を試そうとして、黙して応えなかった。王修(おうしゅう)は再び心情を陳べた、「袁氏の厚恩を受けたれば、もし譚の屍を収歛しえて、然る後に戮に就かば、恨むところなし」 c:2705。曹操(そうそう)はその忠義を嘉して、その請いを許した。曹操(そうそう)は王修(おうしゅう)を督軍糧に任じ、楽安に返した。袁譚(えんたん)が敗れた後、諸城は皆降ったが、ただ管統だけが楽安に拠って従わなかった。曹操(そうそう)は王修(おうしゅう)に管統の首級を取るよう命じたが、王修(おうしゅう)はかえって管統を亡国の忠臣と考え、その縛めを解いて、彼を曹操(そうそう)のもとへ赴かせた。曹操(そうそう)は喜んで管統を赦した c:2705。
曹操(そうそう)が鄴(ぎょう)を破ったとき、審配(しんぱい)らの家財を籍没したものは万を以て計えた。南皮(なんぴ)を破ったとき、王修(おうしゅう)の家を査閲すると、穀物は十斛に足らず、蔵書は数百巻であった。曹操(そうそう)は嘆じた、「士は妄りに名を有たず」 c:2705。そこで王修(おうしゅう)を礼聘して司空掾とし、司金中郎将を行わせ、後に魏郡太守に遷した。王修(おうしゅう)は在任の間、強きを抑え弱きを扶け、賞罰を明らかにし、民は称えた c:2705。魏国が建てられた後、王修(おうしゅう)は大司農郎中令を務めた。曹操(そうそう)がかつて肉刑を推し行うことを議したとき、王修(おうしゅう)は時機が至っていないと考え、曹操(そうそう)はその建議を採った。後に王修(おうしゅう)は奉常に転じた。厳才が叛乱を起こし、数十人を率いて掖門を攻めた。王修(おうしゅう)は変を聞き、車馬の暇もなく、官属を率いて歩いて宮門に至った。曹操(そうそう)は銅雀台で望み見て言った、「彼の来る者は必ず王叔治ならん」 c:2707。相国の鍾繇(しょうよう)が王修(おうしゅう)に旧例に従って府に居るよう勧めたが、王修(おうしゅう)は答えた、「その禄を食みて、焉くんぞその離を避けん。府に居るは旧きといえども、難に赴くの義にあらず」 c:2707。ほどなく、王修(おうしゅう)は在任のまま病死した。その子の王忠は、官は東莱太守・散騎常侍に至った。王修(おうしゅう)は早年、高柔(こうじゅう)を弱冠のときに識り、王基(おうき)を幼童のときに異とし、二人は後に皆高官に位したので、世人は王修(おうしゅう)の人を知り善く任じることを称賛した c:2708。
演義(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』において、王修(おうしゅう)は主に袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)の兄弟が争う背景の中で登場し、その姿は史実とほぼ合致しており、その忠義と諫言の挙を重点的に刻んでいる。演義では、袁譚(えんたん)が郭図(かくと)の計を聞き入れ、偽って袁尚(えんしょう)・審配(しんぱい)を酒に招き、刀斧手を伏せて殺そうとした。王修(おうしゅう)はこれを聞き、袁譚(えんたん)を諫めた、「兄弟は左右の手なり。今、他人と争闘して、自らその手を断ち、しかも我必ず勝つと曰うは、いずくんぞ得べけんや。それ兄弟を棄てて親しまずんば、天下それ誰か之に親しまん。彼の讒人が骨肉を離間し、もって一朝の利を求む。願わくは耳を塞いで聴く勿かれ」 c:2710。この一段の対話は史伝における王修(おうしゅう)が袁譚(えんたん)を諫めた言辞と高度に一致し、その忠誠と先見を強めている。
曹操(そうそう)が南皮(なんぴ)を破り、袁譚(えんたん)が戦死した後、王修(おうしゅう)は曹操(そうそう)のもとへ赴いて袁譚(えんたん)の屍を収葬することを請うた。曹操(そうそう)が彼に自分の命令(袁譚(えんたん)を哭することを許さぬ)を知っているか問うと、王修(おうしゅう)は坦然と答えた、「之を知る」。曹操(そうそう)はまた問うた、「汝、死を怕れざるか」。王修(おうしゅう)は慷慨して陳べた、「我、生きてその辟命を受け、亡びて哭せざるは、義にあらず。死を畏れ義を忘れば、何をもって世に立たんや。もし譚の屍を収葬しえば、戮を受くるも恨みなし」 c:2711。曹操(そうそう)はこれを聞いて嘆じた、「河北の義士、何ぞそれかくのごとく多きや。惜しむらくは袁氏の用いえざるを。もし用いえば、則ち吾いずくんぞ敢えて正眼にこの地を覷んや」 c:2711。そこでその請いを許し、王修(おうしゅう)を上賓として礼遇し、司金中郎将に任じた。演義はここで曹操(そうそう)と王修(おうしゅう)の対話の細部を加え、王修(おうしゅう)の忠義と曹操(そうそう)の才を惜しむ心をいっそう際立たせている。続いて、曹操(そうそう)が王修(おうしゅう)に袁尚(えんしょう)にどう対処するか尋ねたが、王修(おうしゅう)は答えず、曹操(そうそう)は彼を「忠臣なり」 c:2711 と称賛した。この細部は史伝に明確な記載はなく、演義による人物性格のさらなる彩りである。
主要な関係
* 孔融(こうゆう)(serves):王修(おうしゅう)は孔融(こうゆう)の主簿・高密県令・功曹・胶東県令であり、幾度も孔融(こうゆう)の危難の際に身を挺して助け、孔融(こうゆう)も彼を極めて信頼し頼みにした c:2703。
* 邴原(へいげん)(friend_of):王修(おうしゅう)はかつて孝廉の推挙を邴原(へいげん)に譲ろうとし、その財を軽んじ義を好む品格を体現した c:2703。
* 袁紹(えんしょう)集団(えんしょうしゅうだん)(serves):王修(おうしゅう)は前後して袁譚(えんたん)の幕下で治中従事・別駕を務め、袁紹(えんしょう)集団内部の兄弟争いの際、忠心耿々として袁譚(えんたん)を諫め、袁譚(えんたん)が敗れた後は死を冒してその屍を収めた c:2705。
* 曹魏(そうぎ)(serves):王修(おうしゅう)はその忠義によって曹操(そうそう)の賞識を受け、司空掾・司金中郎将・魏郡太守・大司農郎中令・奉常に任じられ、曹魏(そうぎ)政権の重要な官員となった c:2705。
* 高柔(こうじゅう)・王基(おうき)(knows):王修(おうしゅう)は彼らの若いときにその才華を識り、彼らの未来に必ず大成があると予言し、王修(おうしゅう)の人を知り善く任じることを体現した c:2708。
象徴的な場面
* 高密で豪強を治める:王修(おうしゅう)は高密県令の任にあって、地元の豪強孫氏の跋扈に対し、果断に強硬な措置を取り、「敢えて攻めぬ者あらば同罪とする」と令を下し、孫氏に盗賊を引き渡させ、地元の豪強を慴服させて、その治政の果敢と気概を示した c:2703。
* 夜に孔融(こうゆう)のもとへ駆ける:郡中の叛乱の際、王修(おうしゅう)は孔融(こうゆう)に難ありと聞いて、夜を徹し死を冒して救援に赴き、孔融(こうゆう)は「難を冒して来うるは、ただ王脩あるのみ」と嘆じた。この挙は王修(おうしゅう)の旧主への忠誠と情誼を顕している c:2703。
* 袁譚(えんたん)兄弟に和睦を諫める:袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)の兄弟が相攻めるさなか、王修(おうしゅう)は幾度も直言して諫め、「兄弟が還って相攻撃するは、これ敗亡の道なり」 c:2705 と指摘し、「左右の手」をもって兄弟の関係に喩え、和睦の重要さを力説し、採られなかったものの、その忠心は窺い知れる c:2705 c:2710。
* 死を冒して袁譚(えんたん)を収葬する:袁譚(えんたん)が戦死した後、王修(おうしゅう)は曹操(そうそう)の「敢えてこれを哭する者あらば妻子に及ぶ」という禁令を顧みず、毅然として曹操(そうそう)のもとへ赴いて袁譚(えんたん)の屍を収葬することを請い、慷慨して「我、生きてその辟命を受け、亡びて哭せざるは、義にあらず。死を畏れ義を忘れば、何をもって世に立たんや」 c:2711 と陳べた。曹操(そうそう)はその忠義に感じ、許すばかりでなく、重く用いた。この出来事は王修(おうしゅう)の忠義の品格の集中的な体現であり、その人生の転機でもある c:2705。
* 管統を釈く:曹操(そうそう)が王修(おうしゅう)に管統の首級を取るよう命じたが、王修(おうしゅう)はかえって管統を亡国の忠臣と考え、その縛めを解いて、彼を曹操(そうそう)のもとへ赴かせ、最終的に管統を赦されるに至らせた。この挙は王修(おうしゅう)の忠義の士への尊重と愛惜を体現し、その事を柔軟に処理する能力をも示している c:2705。
* 魏郡太守の清廉:曹操(そうそう)が南皮(なんぴ)を破った後、王修(おうしゅう)の家産を査閲し、穀物が十斛に足らず、蔵書が数百巻であるのを見て、「士は妄りに名を有たず」 c:2705 と嘆じた。これは王修(おうしゅう)の清廉に身を守り、財利を慕わぬ品格を際立たせている。
* 厳才の乱で宮門に赴く:厳才が叛乱を起こして掖門を攻めたとき、王修(おうしゅう)は車馬を待たず、歩いて宮門へ赴き、曹操(そうそう)は望み見て「彼の来る者は必ず王叔治ならん」 c:2707 と知った。この場面は王修(おうしゅう)の危に臨んで乱れず、敢えて難に赴く忠勇を表している。
人間関係
10 件の関係
名言
全 10 件の台詞 · 厳選 3 件
「夫兄弟者,左右手也。譬人將鬬而斷其右手,而曰『我必勝』,若是者可乎?夫棄兄弟而不親,天下其誰親之!屬有讒人,固將交鬬其間,以求一朝之利,願明使君塞耳勿聽也。若斬佞臣數人,復相親睦,以禦四方,可以橫行天下。」
この言葉は兄弟の和解を勧めるもので、比喩が生き生きとしており、王修(おうしゅう)の忠義と先見の明を体現し、歴史的意義を持つ。
「我生受其辟命,亡而不哭,非義也。畏死忘義,何以立世乎!若得收葬譚屍,受戮無恨。」
この言葉は王修(おうしゅう)の忠義を際立たせ、死を恐れず情義を重んじる姿勢を示し、その高潔な人格を形づくっている。
「食其祿,焉避其離?居府雖舊,非赴難之義。」
この言葉は王修(おうしゅう)が危難を避けず職責を守り抜く姿を示し、その忠誠の写しである。
登場回3 回 ▸
- 史ch.11
- 演ch.32ch.33
関係の年表9 条 ▸
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は王脩(おうしゅう)、字は叔治(しゅくち)、北海郡(ほっかいぐん)営陵(えいりょう)の人である。今、宮門の前に立っている。厳才(げんさい)が反乱を起こしたと聞き、車馬を呼び寄せたが、まだ到着しないため、官属を率いて徒歩で駆けつけた。太祖(