言語
全

孫呉(そんご) · 将軍

全端(ぜんたん)

登場回
4
台詞の記録
0
人間関係
1
内面の独白
1

史書の記載(Historical Record)

全端(ぜんたん)は、三国(さんごく)時代の呉国の将で、その一族は孫呉(そんご)政権においてかつて隆盛を極めた。彼の一族は孫権(そん けん)の一族と深い婚姻関係をもち、孫亮(そん りょう)の皇后・全夫人は全尚(ぜんしょう)の娘であり、全尚は全端の従祖母にあたる公主に愛された人物であった。全夫人が皇后に立てられると、全尚は城門校尉に任じられ、都亭侯に封じられ、後に滕胤(とういん)に代わって太常・衛将軍となり、永平侯に進封されて、録尚書事となった。当時、全氏一族のうち五人が侯に封じられ、兵権を掌握し、その他の一族は侍郎、騎都尉を務め、宮禁の左右を宿衛した。全氏一族は呉興郡において、その外戚としての顕赫ぶりに並ぶ者がいなかった c:4548。

全端自身も軍事において功績があった。史書によれば、東興の戦い(とうこうのたたかい)において、全端はかつて命を受けて留略(りゅうりゃく)とともに東興(とうこう)の大堤の左右二城を鎮守した。当時、呉国の丞相・諸葛恪(しょかつかく)は建興元年十月に軍を集め、東興の大堤を改めて修築し、大堤の両側に山勢に依って二つの城を築き、それぞれ千人を留め置いて、全端と留略にその防守を担わせた c:4549。魏国の大将・胡遵(こ じゅん)、諸葛誕(しょかつたん)らが七万の大軍を率いて攻め、大堤を破壊しようとした。しかし、全端らが守る城は地勢が高峻で、魏軍は攻め落とすのが難しかった。最終的に、諸葛恪の指揮のもと、呉軍は魏軍を大破し、東興の大捷を得た。しかし、全氏一族の顕赫は長く続くことはできなかった。魏国の大将・諸葛誕が寿春(じゅしゅん)で兵を起こして反逆し、後に呉国へ援を求めた。この間、全端は全懌(ぜんえき)、全禕(ぜんい)、全儀ら全氏一族とともに、この重要な時に魏国に降った。全熙は謀反が漏れて殺され、ここから全氏一族は次第に衰えていった c:4548。

演義の記述(In the Novel)

『三国演義』では、全端は呉国の将として登場し、その事績は主に諸葛誕の寿春の戦いの間に集中しており、史実とある程度合致するが、文学上の脚色と逸脱も存在する。演義では、全端は全懌とともに孫綝に遣わされ、主将として七万の大軍を率いて寿春の諸葛誕を支援した c:4550。この時の呉国は、丞相・孫峻(そん しゅん)が病没し、その従弟・孫綝が政を輔けていたが、人となりが強暴で、権柄はことごとくその手に帰していた。諸葛誕は司馬昭(しばしょう)が主を廃し権を弄ぶことに不満を抱いて兵を起こして魏に反し、吳綱に子・諸葛靚(しょかつせい)を伴わせて呉国へ援を求めた。孫綝はこれを応諾し、全端らを遣わした。

しかし、寿春城が魏軍に囲まれた後、全端の演義における運命は劇的な転機を迎える。彼の子・全禕は兵を率いて寿春城に斬り込んだ後、魏軍の勢いが大きく、進退きわまったのを見て、司馬昭に降った。司馬昭は全禕を偏将軍に加封し、全禕は恩に感じ入って一通の書をしたため、城中へ射込んで、その父・全端と叔父・全懌に降伏を勧め、孫綝の不仁に言及して、魏に帰するに如かずと述べた。全懌は全禕の書を得ると、全端とともに数千人を率いて城を開いて魏国に降った c:165。この筋立ては史書にも記載があり、すなわち全端ら全氏一族は諸葛誕が魏に降る際に魏国に降ったのだが、演義は全禕の勧降の書を通じて、この歴史的出来事により多くの一族内部の劇的な葛藤と情感的要素を加えている。

主要な関係

* 孫呉政権(serves):全端はかつて孫呉の将であり、東興の戦いで命を受けて城を鎮守した c:4549。演義では、さらに孫綝に遣わされて諸葛誕を支援しており、呉将としての身分を体現している c:4550。
* 曹魏(defected_to):史実であれ演義であれ、全端は最終的に曹魏に降った。史書によれば、諸葛誕が魏に降る際、全端は全懌、全禕ら一族とともに魏に降った c:4548。演義では、その子・全禕の勧降を通じて、全端父子の帰順が促された c:165。
* 全禕(parent_of):全禕は全端の子である。演義では、全禕の魏への降伏と勧降の書が全端の最終的な曹魏への降伏の鍵となる要因であり、父子の間の情感的つながりと一族の運命への影響を示している c:165(演義独自)。
* 全懌(同族):全懌は全端の同族の兄弟で、史実でも演義でも全端とともに行動した。史書は彼らがともに魏に降ったと記載し c:4548、演義ではともに孫綝に遣わされて諸葛誕を支援し、ともに城を開いて降ったとする c:4550, c:165。
* 孫亮の全夫人(家族関係):全夫人は全尚の娘で、全尚は全端の従祖父の世代にあたる。全夫人が皇后に立てられたことで、全氏一族は孫呉政権において地位が顕赫となり、全端も一族の一員としてその恩恵を受けた c:4548。

象徴的な場面

* 東興での守城:全端は東興の戦いで、留略とともに命を受けて東興の大堤両側の城を鎮守した。魏軍の強大な攻勢に直面して、彼らは城を守り抜き、呉軍が最終的に勝利を得る基礎を築いた。この場面は全端の呉国の将としての軍事的職責と固守の精神を示している c:4549。
* 寿春での魏への降伏:諸葛誕の寿春の戦いで、全端は全懌ら一族とともに最終的に曹魏への降伏を選んだ。演義では、この場面はより具体的に描かれている。全端の子・全禕がまず魏に降り、続いて書をしたためて降伏を勧め、全端と全懌は書を受け取ると、衆を率いて城を開いて降った。この出来事は全端の政治的立場の転換を示し、全氏一族の呉魏の争いにおける複雑な処境と最終的な選択を反映している c:165。
* 全氏一族の隆盛と衰退:全端の属する呉興全氏一族は、孫権の一族との婚姻によって一時は朝野を傾けるほどの権勢を誇り、五人が侯に封じられ、兵馬を司り、その外戚としての貴盛ぶりに並ぶ者がいなかった。しかし、全端らの魏への降伏と全熙の殺害に伴い、全氏一族は急速に衰退した。この興亡の変遷は、全端個人の運命の壮大な背景であり、三国時代の名門大族の浮沈の縮図でもある c:4548。

人間関係

1 件の関係

登場回4 回 ▸
  • 史ch.50ch.64
  • 演ch.111ch.112
関係の年表1 条 ▸

演 ch.112

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は全端(ぜんたん)。字はここに記載がない。漢末の吳臣であり、孫氏(そんし)が江東を支配していた時代に生きた。昔、東興(とうこう)の堤のほとりに二つの城が築かれたばかりの頃、呉軍はそれぞれ千人を残して守らせた。私は命を受け、留略(りゅうりゃ
生涯の大事3 ▸