
史載(Historical Record)
雍闓(ようがい)は、益州(えきしゅう)郡の豪強の大姓であり、劉璋(りゅう しょう)が没した後、勢いに乗じて益郡を占拠して反叛し、孫呉(そんご)政権に投じた c:6667。孫権(そん けん)はこのため劉璋の子の劉闡を益州刺史に任じ、これを交州(こうしゅう)と益州の境界に置いた。雍闓は南中(なんちゅう)地域でかなりの威望を持ち、恩信が郷里に著れ、さらに孫権との連携を築いた c:6669。
建興元年(223年)の夏、臧柯太守の朱褒もまた郡を擁して反叛し、雍闓に呼応した c:6668。これに先立ち、益州郡では太守正昂を殺害する事件が起こっており、雍闓は当地の耆帥として、その影響力がうかがい知れる。蜀漢(しょくかん)は張裔(ちょうえい)を益州太守に任じ、叛乱を平定しようとした。張裔は字を君嗣といい、蜀郡成都(せいと)の人で、『公羊春秋』に精通し、『史記』『漢書』を博覧した。彼はかつて劉璋の麾下にあり、のちに劉備(りゅうび)に用いられて巴郡(はぐん)太守を務め、さらに司金中郎将を務めた c:6669。しかし、張裔が益州郡へ赴任すると、雍闓は従うことを拒み、鬼神の名を借りて、張裔は「外は沢々たれど内は実に粗にして、殺すに足らず」と称し、続いて張裔を縛って孫権のもとに送った c:6669。
このとき、越巂の夷王高定もまた蜀漢に背いた c:6668。雍闓の叛乱の行いはきわめて傲慢で、都護の李厳(りげん)はかつて六通の書信を書いて彼を説き、利害を陳べたが、雍闓はただ一通の返信を返すのみで、その信にはこう書かれていた。「けだし聞く、天に二日なく、土に二王なし、と。いま天下は鼎立し、正朔に三あり、これによって遠人は惶惑し、帰すべき所を知らざるなり。」その傲慢不遜な態度がうかがい知れる c:6671。雍闓が孫呉に降った後、孫権は呂凱(りょがい)を遥かに永昌太守に授けた。しかし、永昌郡は益州郡の西に位置し、道路が阻隔され、蜀漢と隔絶していた。呂凱は府丞の王伉とともに吏民を率い、境を閉ざして守りに拠り、雍闓に抵抗した。雍闓はしばしば永昌郡に檄文を発して招降を試みたが、呂凱らは断固として従わなかった c:6671。
演中(In the Novel)
三国(さんごく)演義においては、雍闓の人物像はさらに南中の反乱(なんちゅうのはんらん)の首要人物として造形されている。彼が初めて登場するのは建興元年(223年)の夏で、このとき諸葛亮(しょかつりょう)はまさに南征の準備をしていた。演義では、雍闓は益州の耆帥として描かれ、蛮王孟獲(もうかく)と盟を結び、共に十万の蛮兵を起こして四郡を侵掠した c:4152。この筋立ては史料には明確な記載がないが、史実における雍闓・朱褒・高定らの叛乱の時点と符合する。
演義では、雍闓は漢朝の什方侯雍歯の後裔であり、これは彼の反叛に「名門の後裔」という一層の色彩を加え、また彼が蜀漢政権に対して不満を抱いていた可能性をも暗示している c:6672。彼は自ら反叛しただけでなく、孟獲と結び連なり、牂牁郡太守の朱褒、越嶲郡太守の高定に城を献じて投降させ、ただ永昌太守の王伉だけが反叛を肯んじなかった c:6672。雍闓・朱褒・高定の三人の部下の人馬は、みな孟獲の郷導官となり、共に永昌郡を攻め、永昌郡の形勢を異常に危急なものとした c:6672。
諸葛亮は自ら大軍を率いて南征し、魏延(ぎえん)を先鋒とし、界口で高定の部将鄂煥と遭遇した。魏延は偽りの敗走をして鄂煥を生け捕った。諸葛亮は鄂煥を釈放し、これに恩義を施し、高定は忠義の士であり、雍闓に惑わされているのだと称した。鄂煥は帰ってから高定に諸葛亮の恩徳を語り、高定は深く感動した c:15416。雍闓はこれを知ると、これは諸葛亮の離間の計であると考え、彼と高定の間を挑発しようとした。高定はこれに半信半疑で、心中ためらった。続いて、雍闓と高定は兵を二手に分けて蜀軍の営寨を攻めに来たが、諸葛亮は連続して三日も出戦せず、雍闓と高定をいくらか弛緩させた c:15416。演義はこれらの細部を通じて、雍闓の狡猾さと諸葛亮の計謀への警戒を描き出すとともに、諸葛亮が計謀を用いて敵を分化させる智慧をも示している。
重要な関係
* 蜀漢(defected_from):雍闓はもと蜀漢の治下の益州郡の豪強であり、のちに蜀漢に背いた c:6667。
* 孫呉(defected_to):雍闓は反叛した後、孫呉に投じ、孫権の遥授の官職を得た c:6667, c:6671。
* 劉璋集団(りゅうしょうしゅうだん)(betrayed_by):劉璋が没した後、雍闓は機に乗じて反叛したが、彼と劉璋集団との直接の関係は史料には詳しく述べられていない。しかし、孫権がかつて劉璋の子の劉闡を益州刺史に任じたことは、孫呉が劉璋の旧部を利用して蜀漢に対抗しようとしたことを間接的に示しており、雍闓はまさにこの策略の受益者であった c:6667。
* 張裔(流された者):雍闓は蜀漢が任じた益州太守の張裔を縛って孫呉に送った c:6669。
* 朱褒(盟友):臧柯太守の朱褒が郡を擁して反叛し、雍闓に呼応した c:6668。
* 高定(盟友):越巂の夷王高定が蜀漢に背き、雍闓とともに事を起こした c:6668。演義では、高定は雍闓の盟友であるが、諸葛亮に離間された c:15416(演義独自)。
* 孟獲(盟友):演義では、雍闓は蛮王孟獲と盟を結び、共に兵を起こして蜀漢の辺境を侵犯した c:4152, c:6672(演義独自)。
* 呂凱・王伉(対抗者):永昌太守の呂凱と府丞の王伉は永昌を固守し、雍闓の招降を拒んだ c:6671。
* 諸葛亮(敵手):蜀漢の丞相として、諸葛亮は雍闓の叛乱を平定する主要な指揮者であった c:6667。演義では、諸葛亮はさらに直接雍闓と智を競い勇を争った c:15416(演義独自)。
象徴的な場面
* 郡に拠って反叛し、孫呉に附く:劉璋が没した後、雍闓は益郡を占拠して反叛し、孫呉に投じ、南中の反乱の発端となった。孫権はこのため劉璋の子の劉闡を益州刺史に任じ、雍闓らの勢力を利用して蜀漢を牽制しようとした c:6667。
* 張裔を孫呉へ流す:蜀漢は張裔を益州太守に任じ、叛乱を平定しようとした。雍闓は従うことを拒み、鬼神の名を借りて、張裔を縛って孫権のもとに送った。この挙は、その傲慢不遜と蜀漢政権への蔑視を十分に示している c:6669。
* 李厳に返信し、傲慢不遜:都護の李厳がかつて書を書いて雍闓を説いたが、雍闓はただ一紙を返すのみで、「天に二日なく、土に二王なし、いま天下は鼎立し、正朔に三あり、これによって遠人は惶惑し、帰すべき所を知らざるなり」と称した。その言葉には蜀漢の正統性への疑念と自身の独立した地位への固執が満ちており、その性格の鮮明な写しである c:6671。
* 孟獲と結び連なり、四郡を侵掠:演義では、雍闓は蛮王孟獲と盟を結び、十万の蛮兵を起こして蜀漢の四郡を侵掠し、南中の局勢をいっそう複雑かつ危急なものとし、諸葛亮が自ら大軍を率いて南征することを直接促した c:4152, c:6672(演義独自)。
* 諸葛亮の離間計を見破る:諸葛亮は高定の部将鄂煥を釈放し、高定と雍闓を離間しようとした。雍闓はこれを知ると、ただちにこれが諸葛亮の「反間の計」であり、二人を不和にしようとするものだと指摘し、一定の智謀と警戒心を示した c:15416(演義独自)。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 雍闓(ようがい)は南中(なんちゅう)の豪族の首領であり、益州郡の大姓、南方の豪強で、建寧(けんねい)における跋扈の首魁であった。かつて郡の人民を誘い導いて孫呉(そんご)に附かせ、蜀(しょく)が任命した太守の正昂(せいこう)を殺害した。
- 逸話
- 雍闓(ようがい)は益郡に拠って反乱を起こし、呉に附き、孫権(そん けん)と通じ、孫権によって遠方から永昌(えいしょう)太守に任じられた。かつて鬼教の名を借りて、張裔(ちょうえい)を呉国へ送った。演義においては、孟獲(もうかく)と結んで兵を起こし、最終的に鄂煥に殺された。
人間関係
4 件の関係
名言
全 4 件の台詞 · 厳選 2 件
「張府君如瓠壺,外雖澤而內實粗,不足殺,令縛與吳。」
この一句は雍闓(ようがい)の傲慢不遜で漢の官吏を蔑む性格を示しており、その反乱を裏付ける重要な注釈である。
「蓋聞天無二日,土無二王,今天下鼎立,正朔有三,是以遠人惶惑,不知所歸也。」
この一句は「天に二日なく、土に二王なし」の故事を引き、その政治的野心と蜀漢(しょくかん)への挑戦を体現している。
登場回6 回 ▸
- 史ch.31ch.33ch.41ch.43
- 演ch.86ch.87
関係の年表1 条 ▸
演 ch.86
- 孟獲(もうかく)§19
friend_of
结连蛮王孟获,起十万蛮兵侵掠四郡
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は雍闓(ようがい)、字は不明である。益州(えきしゅう)郡の豪族で、長老たちを率い、長く恩と信義によって南方に名を知られてきた。郡の太守、正昂(せいこう)が殺されると、私はその地を占拠し、臣下として従うことを拒んだ。世の人々は、ただ「謀反」
生涯の大事3 ▸
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