史書の記録(Historical Record)
朱褒は、三国(さんごく)時代の人物で、かつて牂牁太守の職を務めた。蜀漢(しょくかん)の建興元年(223年)夏、朱褒は牂牁郡で叛乱を起こし、郡を擁して自重した c:5668。この叛乱は孤立した出来事ではなく、当時の益州(えきしゅう)郡の大姓雍闓(ようがい)の反逆、および越巂の夷王高定の背反と互いに呼応していた。『魏氏春秋』の記載によれば、朱褒の叛乱の起因は、益州(えきしゅう)従事常房の行動と関わっていた可能性がある。常房は巡視中に朱褒に異心があることを知り、朱褒の主簿を収捕して審問し、最終的にこれを殺害した。朱褒はこれに大いに怒り、反攻して常房を殺害し、常房が謀反したと誣告した。諸葛亮(しょかつりょう)は朱褒を安撫するために、常房の子らを誅殺し、常房の四人の弟を越巂へ遷した。しかし、朱褒はこれによって悔い改めることなく、最終的に牂牁郡をもって雍闓(ようがい)の叛乱に呼応した c:5668。同年、蜀漢(しょくかん)は張氏を立てて皇后とし、尚書郎鄧芝(とうし)を遣わして東呉に使いさせ、呉王孫権(そん けん)と修好し、両国の関係が回復した。
演義の中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』では、朱褒の人物像は、南蛮王孟獲(もうかく)、建寧太守雍闓(ようがい)、越巂太守高定らと共に蜀漢(しょくかん)に反逆する郡守として造形されている。演義は朱褒の叛乱の時期を建興三年(225年)に設定しており、史実の建興元年ではない。物語では、益州(えきしゅう)が蜀漢(しょくかん)の朝廷へ急報し、南蛮王孟獲(もうかく)が十万の蛮兵を率いて辺境を侵犯し、建寧太守雍闓(ようがい)が孟獲(もうかく)と結んで造反したと告げる。牂牁郡太守朱褒と越巂郡太守高定も城を献じて投降し、叛乱の陣営に加わった c:5669。ただ永昌太守王伉のみが反逆を肯んぜず、功曹呂凱(りょがい)と共に百姓を糾合して城を堅守した。雍闓(ようがい)・朱褒・高定の三人の部下の兵馬は、いずれも孟獲(もうかく)の嚮導官を務め、共に永昌郡を攻め、形勢は極めて危急であった。諸葛亮(しょかつりょう)はそこで後主劉禅(りゅう ぜん)に請命して、自ら大軍を率いて南征し、南蛮の叛乱を平定した。演義では、朱褒の叛乱は諸葛亮(しょかつりょう)の南征・七縦七擒(しちしょうしちきん)という壮大な物語の一部であり、その個人の動機や細部は簡略化され、もっぱら反逆勢力の一員として現れる c:5669。
主要な関係
* 蜀漢(しょくかん):朱褒はかつて蜀漢(しょくかん)の牂牁太守であったが、最終的に蜀漢(しょくかん)を裏切り、郡を擁して自立し、雍闓(ようがい)ら反逆勢力と結んだ c:5668。『三国(さんごく)演義』では、彼はさらに直接孟獲(もうかく)・雍闓(ようがい)・高定と共に蜀漢(しょくかん)の大軍に対抗し、諸葛亮(しょかつりょう)南征の対象の一人となった c:5669。
* 雍闓(ようがい):朱褒は史実において雍闓(ようがい)の叛乱に呼応し、共に蜀漢(しょくかん)に対抗した c:5668。演義でも、二人は反逆連盟の重要な成員であり、共に永昌郡を攻めた(演義独自)。
* 高定:史実では、高定は朱褒・雍闓(ようがい)と同時期に蜀漢(しょくかん)を裏切った c:5668。演義でも、高定は同じく朱褒・雍闓(ようがい)・孟獲(もうかく)と共に反逆する郡守であり、共に蜀漢(しょくかん)に対抗した(演義独自)。
* 孟獲(もうかく):『三国(さんごく)演義』では、朱褒は孟獲(もうかく)と結び、その部下はさらに孟獲(もうかく)の嚮導官を務め、共に蜀漢(しょくかん)の辺境を侵犯した c:5669(演義独自)。史実では朱褒の叛乱と孟獲(もうかく)には直接の関連はない。
* 常房:史実の記載では、常房は朱褒の異心を察してその主簿を殺害したため、最終的に朱褒に逆に殺され謀反と誣告され、朱褒叛乱の直接の導火線となった c:5668。
* 諸葛亮(しょかつりょう):史実では、諸葛亮(しょかつりょう)は朱褒を安撫するために、かつて常房の子を誅殺しその弟を遷したが、朱褒の叛乱を阻止できなかった c:5668。演義では、諸葛亮(しょかつりょう)は朱褒叛乱の最終的な平定者であり、軍を率いて南征し、朱褒を含む叛乱勢力に対応した c:5669。
象徴的な場面
* 郡を擁して反逆し、雍闓(ようがい)に呼応する:朱褒の最も象徴的な場面は、建興元年(史実)あるいは建興三年(演義)に牂牁郡を擁して蜀漢(しょくかん)に反逆したことである。史実では、彼は常房の一件から常房を怒り殺し、謀反と誣告し、最終的に益州(えきしゅう)郡の大姓雍闓(ようがい)の叛乱に呼応した c:5668。この行動は彼が蜀漢(しょくかん)の官員から反逆勢力の一員へと転じたことを示している。
* 孟獲(もうかく)・雍闓(ようがい)・高定と結んで永昌を攻める:『三国(さんごく)演義』では、朱褒の叛乱は南蛮王孟獲(もうかく)、建寧太守雍闓(ようがい)、越巂太守高定らと共同の行動として描かれている。彼らは連合し、朱褒の部下はさらに孟獲(もうかく)の嚮導官を務め、共に永昌郡を攻め、永昌太守王伉と功曹呂凱(りょがい)を窮地に陥れ、城を死守させた c:5669。この場面は演義における反逆連盟の重要な成員としての朱褒の役割を際立たせ、また諸葛亮(しょかつりょう)南征への重要な背景の布石ともなっている(演義独自)。
人間関係
1 件の関係
敵対1
登場回2 回 ▸
- 史ch.33
- 演ch.87
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は朱褒、字は伝わっていない。建興元年の夏、牂牁太守でありながら、郡を挙げてともに反乱を起こすに至った。史書に記されているのは、私が郡を掌握して反旗を翻し、雍闓(ようがい)に呼応したことだけである。胸中でどのような算段をしていたのかは、今と
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