史載(Historical Record)
呂凱(りょがい)、字は季平、本籍は永昌不韋(今の雲南保山)であり、その一族は秦代の呂不韋の子弟の宗族がここへ移り住んだものと伝えられる。彼は早年に郡中で五官掾・功曹などの職を務めた。
章武三年(223年)、蜀漢(しょくかん)の先主劉備(りゅうび)が永安(えいあん)で崩御した後、益州(えきしゅう)南部の豪強である雍闓(ようがい)らはその報を聞いて、蜀漢(しょくかん)の国力が衰えたとみなし、ついに兵を起こして反逆し、その傲慢不遜な態度は日増しに顕著になった。都護の李厳(りげん)は幾度も雍闓(ようがい)に書を送って利害を説いたが、雍闓(ようがい)はただ一紙の書信を返すのみで、その言辞には蜀漢(しょくかん)政権への侮りがにじみ出ており、「天に二日なく、土に二王なし。今、天下鼎立し、正朔三つあり。是を以て遠人惶惑して、帰する所を知らざるなり」と称し、転じて東呉に降った。東呉は遠く呂凱(りょがい)を永昌太守に署し、蜀漢(しょくかん)の南中(なんちゅう)における統治を分化させようと図った。しかし、永昌郡は益州(えきしゅう)の西に位置し、交通は不便で、蜀漢(しょくかん)の本土とは隔絶しており、しかも郡中の太守はすでに交代していた。この危急の折、呂凱(りょがい)は府丞の王伉ら忠義の士とともに、吏民を率いて、辺境を固く閉じ、雍闓(ようがい)の反乱に断固として抵抗した。雍闓(ようがい)は幾度も永昌郡に檄文を発し、その軍民を動揺させようとした。呂凱(りょがい)らは孤城を堅守すること十数年に及び、雍闓(ようがい)・高定の叛軍が東北の方向から迫るのに直面しながらも、終始節義を堅守し、叛軍と通じることがなかった。
建興三年(225年)、丞相諸葛亮(しょかつりょう)が南征して雍闓(ようがい)を討伐した。大軍がなお行軍の途上にあるとき、雍闓(ようがい)はすでに高定の部曲によって殺されていた。諸葛亮(しょかつりょう)は南中(なんちゅう)に到着した後、朝廷に上表して、呂凱(りょがい)・王伉らの忠誠と堅守を大いに称賛し、「永昌郡の吏呂凱(りょがい)・府丞王伉ら、忠を絶域に執ること、十有余年。雍闓(ようがい)・高定その東北に逼るも、凱ら義を守りて交通せず。臣、永昌の風俗の敦直なること乃ち爾ありとは意わざりき」と述べた。諸葛亮(しょかつりょう)はそこで呂凱(りょがい)を雲南太守に任命し、これを陽遷亭侯に封じた。しかし、呂凱(りょがい)はほどなくして反乱した夷人に殺害された。その子呂祥が爵位を継ぎ、世襲で永昌太守となった。呂氏の一族は代々官を務め、その後代は晋朝の時代、李雄が寧州を攻め破ったとき、なお従うことを肯んぜず、郡を挙げて固守し、一族の忠義の伝統を示した。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』において、呂凱(りょがい)の姿はさらに文学化され、諸葛亮南征(しょかつりょうなんせい)の際の重要な智囊にして案内役となっている。彼は諸葛亮南征(しょかつりょうなんせい)の折に初めて登場し、永昌太守の王伉が孔明に呂凱(りょがい)を引き合わせ、彼を永昌の高士と称賛し、永昌城が安然と無事でいられたのはひとえに呂凱(りょがい)の力によるものだと述べた。
孔明は呂凱(りょがい)を召見した後、平蛮の策を尋ねた。呂凱(りょがい)はすぐに「平蛮指掌図」という名の地図を献じた。この図は南中(なんちゅう)地区の地理形勢と、兵を屯し交戦しうる場所を詳細に描いたものであり、彼が長年ひそかに人を派遣して蛮境深くに探査させて得たものであった。孔明はこれを大いに喜び、ただちに呂凱(りょがい)を行軍教授に任命し、郷導官を兼ねさせ、南征において鍵となる役割を果たさせた。
南征の過程で、呂凱(りょがい)は幾度も諸葛亮(しょかつりょう)に地理と風俗の面での助言を提供した。例えば、蜀軍が西洱河に至り、水流が激しく船筏もないために阻まれたとき、呂凱(りょがい)は上流に豊富に産する巨竹を利用して竹橋を架けることを勧め、大軍の渡河の難題を見事に解決した。また、孟獲(もうかく)が秃龍洞に退いて守り、蜀軍が険しい山路に阻まれたとき、呂凱(りょがい)は詳しい道筋を完全には知らなかったものの、なおその洞に小道があるという手がかりを提供し、諸葛亮(しょかつりょう)に王平(おうへい)を派遣して別の道を開かせる契機を与えた。
烏戈国の藤甲兵との交戦において、蜀軍は初めて藤甲兵の堅くて破りがたいことと桃葉悪水の劇毒に遭遇し、魏延(ぎえん)は大敗した。孔明は再び呂凱(りょがい)および当地の土人に対策を尋ねた。呂凱(りょがい)は烏戈国人の習性、藤甲の特性、ならびに桃葉悪水の毒性を詳しく紹介し、班師して帰朝することを勧め、たとえ全勝しても益はないと考えた。しかし、孔明は胸に成算があり、すでに平蛮の策を持っていると表明し、呂凱(りょがい)が演義においてはむしろ情報と助言を提供する役柄であり、決策者ではないことを示している。
主要な関係
* 雍闓(ようがい):呂凱(りょがい)の確固たる敵。史実において、呂凱(りょがい)は王伉とともに雍闓(ようがい)の反乱に抵抗し、永昌郡を堅守すること十数年に及んだ。演義において、雍闓(ようがい)は諸葛亮南征(しょかつりょうなんせい)の主要な叛乱の首領の一人であり、呂凱(りょがい)は諸葛亮(しょかつりょう)を助けてその反乱を平定する(演義独自)。
* 蜀漢(しょくかん):呂凱(りょがい)が忠誠を尽くした政権。彼は蜀漢(しょくかん)の郡吏として、国家の危難の際に、辺疆を堅守し、蜀漢(しょくかん)の南中(なんちゅう)における統治を維持した。
* 諸葛亮(しょかつりょう):呂凱(りょがい)の直接の上級にして主要な顧問の対象。史実において、諸葛亮(しょかつりょう)は南征の後、呂凱(りょがい)の忠誠を大いに称賛し、封賞を与えた。演義において、呂凱(りょがい)はさらに諸葛亮南征(しょかつりょうなんせい)の重要な案内役にして智囊であり、彼に地理情報と風俗の助言を提供した。
* 王伉:呂凱(りょがい)の同僚にして戦友。史実において、二人はともに吏民を率いて、辺境を閉じて雍闓(ようがい)を拒み守った。演義において、王伉は永昌太守であり、諸葛亮(しょかつりょう)に呂凱(りょがい)を引き合わせた。
* 呂祥:呂凱(りょがい)の子。史実において、呂祥は呂凱(りょがい)の爵位を継ぎ、世襲で永昌太守となり、一族の忠義を受け継いだ。
象徴的な場面
* 辺境を閉じて叛を拒み、永昌を堅守する:これは呂凱(りょがい)の史実における最も代表的な事績である。雍闓(ようがい)が反乱を起こし、永昌郡が蜀漢(しょくかん)と隔絶した状況において、呂凱(りょがい)は王伉とともに吏民を率いて、叛軍に断固として抵抗すること十数年に及び、その「忠を絶域に執る」崇高な節義を示した。
* 「平蛮指掌図」を献じる:『三国(さんごく)演義』において、呂凱(りょがい)は諸葛亮(しょかつりょう)に自ら描いた「平蛮指掌図」を献じ、南中(なんちゅう)の地理を詳しく紹介し、諸葛亮南征(しょかつりょうなんせい)に重要な戦略的根拠を提供し、諸葛亮(しょかつりょう)に重用される始まりとなった(演義独自)。
* 西洱河に竹橋を架ける:『三国(さんごく)演義』において、蜀軍が西洱河の渡河に阻まれたとき、呂凱(りょがい)は当地に豊富に産する巨竹を利用して竹橋を架けることを勧め、大軍の渡河の難題を見事に解決し、南中(なんちゅう)の地理への熟知と実際の問題を解決する能力を体現した(演義独自)。
* 藤甲兵と桃葉悪水を解説する:『三国(さんごく)演義』において、蜀軍が烏戈国の藤甲兵と桃葉悪水に遭遇したとき、呂凱(りょがい)は諸葛亮(しょかつりょう)にこれら異族の特性と当地の険悪な環境を詳しく説明し、班師を勧めたものの、諸葛亮(しょかつりょう)が最終的に南蛮を平定するための重要な参考情報を提供した(演義独自)。
人間関係
3 件の関係
名言
全 4 件の台詞 · 厳選 2 件
「某自歷仕以來,知南人欲反久矣,故密遣人入其境,察看可屯兵交戰之處,畫成一圖,名曰『平蠻指掌圖』。今敢獻與明公。明公試觀之,可為征蠻之一助也。」
この一言は南中(なんちゅう)の地理に精通する呂凱(りょがい)を示し、諸葛亮南征(しょかつりょうなんせい)に鍵となる情報を提供している。
「某素聞南蠻中有一烏戈國,無人倫者也。更有籐甲護身,急切難傷。又有桃葉惡水,本國人飲之,反添精神;別國人飲之即死:如此蠻方,縱使全勝,有何益焉?不如班師早回。」
この一言は南蛮の奇異な風俗を描き、その異域的な色彩を際立たせるとともに、当時の中原による辺境への認識をも反映している。
登場回5 回 ▸
- 史ch.43ch.60
- 演ch.87ch.89ch.90
関係の年表2 条 ▸
史 ch.43
- 雍闓(ようがい)§15
enemy_of
与府丞王伉率厉吏民闭境拒闿;作檄答之
演 ch.90
- 諸葛亮(しょかつりょう)§12
advises_in
言乌戈国藤甲、桃叶之异,劝早班师
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 永昌は山川に隔てられ、道も通じず、郡内との連絡は困難だった。太守はたびたび交代し、外からの命令も届くとは限らなかった。雍闓(ようがい)は遠方にいることを頼みに、何度も檄文を送り、呉もまた遠くから私に永昌太守の名を授けた。名号は遠方から授けら