言語
張

曹魏(そうぎ) · 议郎

張範(ちょうはん)

登場回
1
台詞の記録
1
人間関係
4
内面の独白
1

史書の記録(Historical Record)

張範(ちょうはん)、字は公儀。河内修武の人である c:1769。その祖父・張歆はかつて漢朝の司徒を務め、父・張延もまた官は太尉に至った。太傅の袁隗(えんかい)はかつてその娘を張範に嫁がせようとしたが、張範は辞謝して受けなかった。彼は性質が恬静で道を楽しみ、功名利禄をさほど重んじず、朝廷が幾度も彼を征召して仕えさせようとしても、いずれも命に応じなかった c:1769。

張範の弟・張承(ちょうしょう)、字は公先もまた声名が遠く伝わり、その方正の名によって征召され、議郎に拝され、後に伊闕都尉に遷った。董卓(とう たく)が乱を起こした際、張承はかつて民衆を召集し、天下の義士とともに董卓を討伐しようと意図した。しかし、当時議郎であった弟の張昭(ちょうしょう)がちょうど長安(ちょうあん)から帰ってきて、張承を諫めて言った。「今、董卓を誅そうとしても、衆寡敵せず。しかも兵を起こすのが倉促で、百姓は訓練を経ておらず、士兵も熟練していないので、成功しがたい。董卓は兵を擁して自重しているとはいえ、その行いは無義であり、必ず長くは保たない。明主に帰附することを選び、時を待って動けば、願いどおりにできるだろう。」張承は張昭の進言に従い、そこで官印綬帯を解き、ひそかに家に帰り、張範とともに揚州へ避難した c:1769。

袁術(えんじゅつ)はかつて厚礼をもって張範を招いたが、張範は病と称して赴かず、袁術も強いて求めなかった。袁術は転じて張承を遣わして会いに来させた。袁術は張承に問うた。「昔、周室が衰微すると、斉桓・晋文の覇業があった。秦朝が政を失うと、漢朝が継いでこれを用いた。今、私は広大な土地と多くの百姓を擁し、斉の桓公に倣い、漢の高祖に追随しようと思うが、あなたはどう思うか。」張承は応えた。「成敗は徳行にあって強盛にあらず。もし徳行をもって天下の心を帰せしむれば、たとえ匹夫の資であっても、覇王の功を成すことができ、これは難しいことではありません。もしただ僭越に妄りに事を行い、時に逆らって動き、衆人に棄てられるならば、誰がそれを興させることができましょうか。」袁術は聞いて不悦であった。当時、曹操(そうそう)はまさに冀州(きしゅう)を征討しようとしており、袁術はまた張承に問うた。「今、曹公は数千の疲れた兵をもって、十万の衆に対抗しようとしている。身の程知らずと言うべきだ。あなたはどう思うか。」張承は答えた。「漢朝の徳行は衰えたとはいえ、天命はいまだ改まっていません。今、曹公は天子を挟んで天下に令しており、たとえ百万の衆に対抗しても可能です。」袁術はこれを聞いて顔色を変え、はなはだ不悦となり、張承はそこで立ち去った c:1769。

曹操が冀州を平定した後、かつて使者を遣わして張範を迎請した。張範は病のため彭城に留まり、張承を遣わして曹操に拝謁させた。曹操は上表して張承を諫議大夫に奏請した c:1770。

張範の子・張陵と張承の子・張戩がかつて山東の賊寇にさらわれた。張範は自ら賊営に赴いて二子の返還を請い、賊寇は張陵を張範に返した。張範はしかし謝して言った。「諸君が私の子を返してくれたこの恩は重い。だが、人の常情は自分の子を愛するものとはいえ、私はむしろ張戩が幼いことを憐れむ。どうか張陵をもって張戩と換えさせてほしい。」賊寇はその言葉に敬服し、そこで二人の子をともに張範に返した c:1770。

曹操が荊州(けいしゅう)から帰った後、張範は陳の地で曹操と会うことができ、議郎に任じられ、丞相の軍事に参与し、曹操に深く敬重された。曹操は出征するたびに、しばしば張範と邴原(へいげん)を留守させ、世子・曹丕(そうひ)とともに後方を鎮守させた。曹操はかつて曹丕に言った。「およそ事の挙動は、必ずこの二人に諮れ。」曹丕は張範と邴原に子孫の礼を執った。張範は貧困を救済し、家には余分な財がなく、内外の孤寡の人々はみな彼のもとへ身を寄せに来た。彼は人の贈り物を受けても、最終的には使わず、去る時には、これらの財をことごとく返した c:1770。

建安十七年(212年)、張範は死去した。魏国が初めて建てられたとき、張承は丞相参軍祭酒の身分で趙郡太守を領し、その施政教化は世に大いに行われた。曹操が西征しようとした際、張承を召して軍事に参与させたが、張承は長安に至って病没した c:1770。

演義の記述(In the Novel)

『三国演義』には張範に対する独立した文学的造形はなく、その事績と形象は小説に詳しい記載や言及がない。したがって、演義において、張範の形象は欠如しており、その生涯の事績、性格的特徴、および曹魏(そうぎ)などの勢力との交流は、いずれも小説の叙事の枠組みに取り込まれていない。史伝における彼の「恬静で道を楽しみ、栄利を忽せにす」 c:1769 という鮮明な個性と比べると、演義における張範の存在感はほぼ皆無であり、彼のいかなる対話や筋立ても史書に明記がない。

主要な関係

* 張承(Sibling_of):張範の弟。二人はともに揚州へ避難し、張承はかつて兄に代わって袁術と会い、曹操の行動を肯定した c:1769。
* 曹魏(Serves):張範は曹操が冀州を平定した後に征召されたが、病と称して赴かず、その弟・張承が代わって出仕した。後に張範本人も曹操に敬重され、丞相の軍事に参与し、邴原とともに留守し、世子・曹丕を輔佐した c:1770。
* 張陵(Parent_of):張範の子。かつて張承の子とともに賊寇にさらわれ、張範はその父愛と仁義をもって賊寇を感動させ、その子を帰還させた c:1770。
* 邴原(Friend_of):曹操は出征するたびに、しばしば張範と邴原をともに留守させ、世子・曹丕を輔佐させたことから、二人の関係が密接で、ともに曹操に信任されていたことがわかる c:1770。

象徴的な場面

* 袁隗の聯姻を辞謝す:太傅の袁隗が娘を張範に嫁がせようとしたが、張範はその恬静で道を楽しむ性質ゆえに、栄華富貴に興味がなく、この縁談を辞謝し、その栄利を忽せにする品格を示した c:1769。
* 揚州に避地して袁術を拒む:董卓が乱を起こした後、張範は弟・張承とともに揚州へ避難した。袁術は厚礼をもって張範を招いたが、張範は病と称して赴かず、袁術も強いて求めず、張範が乱世の紛争に巻き込まれたくない淡泊な態度を示した c:1769。
* 子をもって子に換え仁義を示す:張範の子・張陵と張承の子・張戩が賊寇にさらわれた。張範は自ら賊営に赴き、自分の子・張陵をもって年幼い甥・張戩と換えることを請い、その仁義の挙が賊寇を感動させ、最終的に二人の子はともに放たれた。この出来事は張範の「窮乏を救恤し、家に余すところなし」 c:1770 という高尚な品徳、および血縁を超えた博愛の精神を十分に体現している。

人間関係

4 件の関係

台詞

  • 史 ch.11 §13

    「諸君相還兒厚矣。夫人情雖愛其子,然吾憐戩之小,請以陵易之。」

登場回1 回 ▸
  • 史ch.11
関係の年表3 条 ▸

史 ch.11

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は張範(ちょうはん)、字は公儀(Kōgi)、河内(Kadai)郡修武(Shūbu)の人である。祖父の歆(Kin)はかつて漢の司徒を務め、父の延(En)はかつて太尉を務めた。家柄に託されたものは、名声や地位が何にかかっているかを私に理解させ