双方部署
赤壁の戦い(せきへきのたたかい)は中国軍事史上まれに見る「戦略上で小が大に勝ち、戦役上で巧が多に勝った」古典的事例であり、三国(さんごく)鼎立の格局が成立した転換点でもある。建安十三年(208年)正月、曹操(そうそう)は河北を平定し終えたばかりで戦略の重心を南方へと移した。秋七月に荊州(けいしゅう)を征討し、八月に劉表(りゅうひょう)が死去、九月に劉琮(りゅうそう)が州ごと降伏したため、曹操(そうそう)はほぼ戦わずして荊州(けいしゅう)を手に入れ、荊州(けいしゅう)水軍を吸収してその勢力は生涯の頂点に達した。曹操(そうそう)の見るところ、この時に江を下って孫権(そんけん)と劉備(りゅうび)残部を一挙に飲み込むことが天下統一の唯一の機会の窓であった。しかし賈詡(かく)はこの時すでに「旧楚の豊かさを以て吏士を養い、百姓を撫安する」よう勧め、急いで江東へ下る必要はないと諫めていた。裴松之の注はこの諫言を引用しながらも「当時の形勢に合致していなかった」と特記している。つまり賈詡(かく)が危険を見通していたとしても、曹操(そうそう)が江東へ下らなければ西北の韓遂(かんすい)・馬超(ばちょう)と東方の孫権(そんけん)という二正面の圧力に耐えられなかったのである。この観点から見れば、赤壁の戦い(せきへきのたたかい)は曹操(そうそう)の統一過程における「戦わざるを得ない」戦いであり、孫劉連合軍が直面していたのも、持久的な消耗で崩せる相手ではなかった。
双方配置
曹軍側:曹操(そうそう)は自ら中軍の北方騎兵五千を率いて劉備(りゅうび)を当陽長坂(とうようちょうはん)まで急追し、輜重を奪った。その後水陸大軍を整備して江を東進した。曹軍の実際の投入兵力は学界の推計で二十万前後とされるが、その相当部分は新たに降伏した荊州(けいしゅう)水軍であり、これが曹軍最大の内部的脆弱点となった。忠誠度が低く、北方の陸軍歩騎との連携経験がなかったのである。演義は誇張して八十三万、号称百万としている。孫劉連合軍側:周瑜(しゅうゆ)・程普(ていふ)が水軍三万を主力として督率し、劉備(りゅうび)本隊に関羽(かんう)の水軍と劉琦(りゅうき)の江夏(こうか)兵を合わせて約一万余、合計連合軍は約四万であった。戦場に選ばれた赤壁(せきへき)は長江中流南岸の狭い江面の山地であり、江流と地形によって曹軍の兵力的優勢を相殺しながら、火攻めの展開にも適していた。
関键決策点
赤壁の戦い(せきへきのたたかい)全体の勝敗を決した鍵は四つの重要な決断にある。第一は孫権(そんけん)の抗曹決断である。曹操(そうそう)の檄書が柴桑(さいそう)に到着した後、張昭(ちょうしょう)らは降伏して江東の百姓を保護すべきと主張し、魯粛(ろしゅく)は孫権(そんけん)に単独で謁見し、降伏を主張する臣下は地位を保てるが、孫権(そんけん)が降伏すれば身の安全も保証されないと指摘した。諸葛亮(しょかつりょう)は呉へ赴いて孫権(そんけん)を説得し、「英雄に武を用いる地なし」という言で志を奮い立たせ、周瑜(しゅうゆ)は曹軍の「水に不慣れ・遠来の疲弊・北方未平定・馬の飼料なし」という四つの弱点を一つ一つ説明し、孫権(そんけん)は拳を打ちつけて曹への抵抗を決断した。この一歩で孫呉(そんご)は「江東降伏」の可能性から「江東独立」へと引き戻された。第二は黄蓋(こうがい)が曹軍の戦船を首尾相接した弱点を見破ったことである。曹操(そうそう)は兵士の船酔いを和らげるために戦船を連環したが、これは止むを得ない措置であったところを黄蓋(こうがい)に火攻めの可能性として見破られた。この戦術的嗅覚は周瑜(しゅうゆ)以下の呉軍将領が長年江上で訓練してきた産物であった。第三は詐降と火攻めの組み合わせである。黄蓋(こうがい)は蒙衝・斗艦数十艘に薪草と油脂を積み込み、あらかじめ曹操(そうそう)に降伏の意向を示す書状を送ってから、東南風が起きた夜に曹軍の江北水陸営寨へ突進した。火勢が岸上の陸営へ広がると、曹軍の歩騎も混乱に陥り、反撃を組織する余裕がなかった。第四は曹操(そうそう)の主体的な焼船撤退である。曹操(そうそう)は江陵(こうりょう)へ北退する際、残存する戦船を自ら焼いて呉軍の手に渡らないようにした。この一手は三国志(さんごくし)の武帝紀と呉書の双方に記録されており、曹操(そうそう)が敗れながらも相当の指揮能力を保っていたこと、敗れても崩れなかったことを示している。
結果与回響
戦役の直接的な結果は、曹操(そうそう)が江陵(こうりょう)へ北退して曹仁(そうじん)に南郡(なんぐん)の守備を任せたことであり、孫劉連合軍は勝勢に乗じて江陵(こうりょう)を囲攻し、荊州(けいしゅう)南東の四郡(長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽郡(けいようぐん)・武陵(ぶりょう))が相次いで劉備(りゅうび)に帰した。戦略的後果は三層に分かれる。その一は三分格局の確立である。曹操(そうそう)が南方を統一する機会の窓が永久に閉じられ、以後彼は戦略の重心を西北の涼州(りょうしゅう)・漢中(かんちゅう)へと転換し、江南は孫劉が分割した。その二は孫劉連合が南方政治の常態となったことである。以後、赤壁の戦い(せきへきのたたかい)が確立した「孫呉(そんご)が水軍を主、劉蜀が陸軍を主」とする分業体制が、湘水の盟の前の七年間持続し、三国(さんごく)前期における最も安定した政治構造となった。その三は中国南方の経済・政治的重心の初期的上昇である。それまで中国の政治・軍事的重心はほとんどの場合黄河の中下流域にあったが、赤壁の後初めて「南方の力が北方の統一を阻止できる」という局面が出現した。この格局は西晋による統一まで続いたが、永嘉の乱後には別の形で回帰した。
反事実推演
反事実の経路は一つではない。その一:もし孫権(そんけん)が張昭(ちょうしょう)の主降論を聞き入れ、江東が曹操(そうそう)に帰したなら、劉備(りゅうび)はひとりでは支えられず、曹操(そうそう)は209年中に全国統一を完成し、以後三国(さんごく)の局面は現れず、中国はそのまま三世紀末まで続く統一帝国へと直接進んだかもしれない。ただし代償として、江南文化・士族・経済的中心化の過程が百年間抑制されることになった。その二:もし曹操(そうそう)が賈詡(かく)の議を容れ、急いで江東へ下らずまず荊州(けいしゅう)を撫安したなら、208年冬に赤壁の戦役は起きず、しかし孫劉連合も形成されなかったであろう。曹操(そうそう)は210年代に段階的に江東を征服した可能性があり、三国(さんごく)の局面は同様に出現しなかったが、統一の過程はより穏やかであったかもしれない。その三:もし魯粛(ろしゅく)が当陽(とうよう)で劉備(りゅうび)と合流する機会を得ず、劉備(りゅうび)が蒼梧(そうご)を目指して南下し、孫劉連合が形成されなかったなら、曹操(そうそう)は209年中に江東を崩壊させていたかもしれない。これら三つの分岐路には一つの共通点がある。赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の存在は一連の偶然的条件に依存していた。孫権(そんけん)の抗曹決断、周瑜(しゅうゆ)の臨戦指揮、東南風のタイムリーな発生、曹軍陣中での疫病の発生、これらのいずれかが欠けても結果は違った。この「複数の偶然が合流した」戦役は中国軍事史上極めて稀であり、それゆえに赤壁の戦い(せきへきのたたかい)が演義において強い天命の彩りを帯びているのである。小説叙事における借東風などのエピソードは、まさにこの偶然性に対する最も直感的な文学的処理なのである。
