言語
田

袁紹集団(えんしょうしゅうだん) · 分掌州事谋士

田豊(でんほう)

字 元皓

登場回
8
台詞の記録
17
人間関係
4
内面の独白
3

史載(Historical Record)

田豊(でんほう)は、字を元皓といい、鉅鹿の人、あるいは勃海の人とも言われる c:2856。彼は生まれつき才知に優れ、権謀術数に長け、奇策を多く有していた。幼くして父母を亡くし、喪に服する間は哀しみと礼を尽くし、年月が流れても笑顔を見せることはなかった。田豊は博覧多識で、州郡において名声を博していた。初めは太尉府に辟召され、後に茂才に挙げられ、侍御史に遷った。しかし、宦官が権を専らにし、賢良の士が害されるに及び、田豊は毅然として官を棄てて家に帰った c:2856。

袁紹(えんしょう)が義兵を挙げた際、謙虚な言辞と厚い財礼をもって田豊を招いた。田豊は王室を匡し危難を救う志を懐いており、そこで召しに応じて出仕し、別駕を務めた。彼はかつて袁紹に天子を迎えるよう勧めたが、袁紹はこれを採用しなかった c:2856。後に袁紹は田豊の計略を採用し、公孫瓚(こうそんさん)を平定した。しかし、逢紀(ほうき)は田豊の正直さを忌み、たびたび袁紹に讒言し、袁紹に田豊への猜疑を抱かせた c:2856。

建安五年(200年)、曹操(そうそう)は東方の劉備(りゅうび)を征伐した。田豊は袁紹にその虚を衝いて曹操の後方を襲うよう勧めたが、袁紹は幼子が病であることを理由に拒んだ。田豊はこれを聞くと、杖を挙げて地を打ち、痛惜して言った。「めったに遭えぬ好機であるのに、赤子の病でその会を失うとは、惜しいことだ!」 c:12842 曹操が劉備を破った後、劉備は袁紹のもとへ身を寄せた。袁紹が南下して曹操を攻めようとした時、田豊は再び諫言し、曹操は用兵に巧みで変化が無常であり、軽視してはならないと述べた。彼は袁紹に持久戦の策略を採るよう勧め、山河の険に拠り、四州の衆を擁し、外には英雄と交わり、内には農耕と戦備を発展させ、然る後に精鋭を選抜し、奇兵を分派して虚に乗じて河南を襲い騒がせ、曹軍を奔命に疲れさせ、民を安んじさせぬよう進言した。田豊は、こうすれば二年も経たぬうちに、坐して勝利を享受できると予言した。彼は袁紹に、もし穏当な策略を棄てて一時の決戦に賭ければ、ひとたび利を失えば、悔いても遅いと警告した。袁紹は聞き入れず、田豊が懇切に諫言すると、袁紹は大いに怒り、彼が士気を沮喪させていると考え、ついに彼を囚えた c:2856。

袁紹が官渡(かんと)で敗れた後、ある者が獄中の田豊に言った。「あなたは必ず重用されるでしょう。」田豊は悲観的に言った。「もし軍が利を得たなら、私は保全されたかもしれない。今、軍が敗れたからには、私は死ぬことになろう。」 c:2856 袁紹は冀州(きしゅう)に帰ると、左右に言った。「私は田豊の言を聞かなかった、果たして彼に嘲笑されることになった。」逢紀はこの機に乗じて讒言し、田豊が袁紹の敗北を聞いて手を打って大笑し、自らの予言が的中したことを喜んだと言った。袁紹はこれにより田豊を殺す心を起こした c:2856。ついに、袁紹は田豊を殺害するよう命じた。曹操は田豊が従軍出征していないと知った時、喜んで言った。「袁紹は必ず敗れるであろう。」袁紹が敗れて逃げ去った後、また言った。「もし袁紹が田別駕の計を採用していたなら、勝負はまだ分からなかったであろう。」 c:2856 孫盛は田豊・沮授(そじゅ)の謀略を評し、たとえ張良・陳平であっても超えることはできないとした。彼は、君主は審慎に人を選ぶことを貴び、臣下はなお主公を量ることを尚ぶと指摘した。君主が忠良の臣を用いれば覇王の業が興隆し、臣下が暗愚の主を輔ければ覆亡の禍が降りかかる。存亡栄辱は、常にこれによって定まるのである c:2856。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』においては、田豊の人物像はさらに忠義に篤く、直言を憚らぬ謀士として描かれ、その悲劇的な結末もより劇的なものとなっている。彼は袁紹が冀州を奪取した際に初めて登場し c:5975、沮授・許攸(きょゆう)・逢紀とともに袁紹によって任じられ州事を分掌した。これは史実において彼が袁紹に別駕として招かれた記載と符合するが、具体的な細部は異なっている。

演義は官渡の戦い(かんとのたたかい)前後における田豊のたびたびの諫言を重点的に描いている。袁紹が曹操の討伐を準備した時、田豊はまず休養して力を蓄え、三年以内に大事を定めることができるのであって、急いで決戦すべきではないと進言した c:5976。曹操が東方の劉備を征伐し、許都(きょと)が手薄になった折、田豊は袁紹に兵を発して許都を襲うよう力説し、これは「得難い機会」であるとした c:2857。しかし、袁紹は幼子が病であることから決断をためらい、ついに好機を逸した。田豊はこれに対し「杖をもって地を打ちて曰く、『此のめったに遭えぬ時に遭いながら、赤子の病をもって、此の機会を失う、大事去れり!痛惜すべきかな!』」 c:2857 この場面は史実と高度に一致しているが、演義における袁紹のためらいは幼子への溺愛に帰せられており、史実におけるより複雑な考慮とは異なる。袁紹が兵を興して曹操を攻めると決めた時、田豊は再び諫止し、曹操の兵鋒はまさに鋭く、軽々しく敵としてはならず、持久の策を採るべきだとした c:2858。袁紹は劉備の言を信じ、田豊を「文を弄び武を軽んずる」と怒って叱り、これを斬ろうとしたが、後に劉備が力説したことで、ようやく彼を獄に囚えた c:12835。

官渡の戦いの間、田豊は獄中にあってなお上書して諫言し、袁紹に静かに守って天の時を待ち、みだりに大兵を興してはならないと勧めたが、逢紀によって「不祥の語」と讒誣された c:3798。袁紹が大敗して帰った後、逢紀は再び讒言し、田豊が獄中で「手を打って大笑して曰く、『もとより我が料を出でず!』」と称した c:3799。袁紹はこれにより大いに怒り、使者を遣わして宝剣を持たせ冀州の獄中へ赴かせ田豊を殺害させた。獄吏は田豊に袁紹の敗北を告げ、彼が必ず重用されるであろうと考えたが、田豊はかえって「我は今死ぬであろう!」と予言した c:5980。彼は袁紹が「外は寛なれど内は忌み、忠誠を念わぬ」ことを深く知っており、勝てば赦されもしようが、敗ければ必ず羞恥と憤りによって自分を殺すだろうと考えた。ついに、田豊は獄中で自刎して死に、臨終の前に「大丈夫、天地の間に生まれながら、その主を識らずしてこれに仕えるは、無智なり!今日死を受くるも、何ぞ惜しむに足らんや!」と感慨した c:12840。演義における田豊の死の描写は、史実の核心的な筋を保持するのみならず、対話と心理描写を通じて、その悲劇的な色彩と人物の忠貞なる気節をいっそう深めている。

重要な関係

* 袁紹(advises_in):田豊は袁紹麾下の重要な謀士であり、たびたびその為に策を巡らせ、とりわけ軍事戦略において先見の明ある進言を行った。しかし、袁紹は「外は寛なれど内は忌み」 c:2856、田豊の忠言を採用することができず、ついに官渡の戦いの惨敗を招き、逢紀の讒言により田豊を殺害した。
* 袁紹集団(えんしょうしゅうだん)(advisor):田豊は袁紹集団の中核となる謀士の一人として、沮授・許攸・逢紀らとともに袁紹に仕えた。彼はその卓越した軍事的才能と直言を憚らぬ性格により、集団内部で重要な役割を担った。しかし、集団内部の派閥闘争、特に逢紀の讒言が、ついに田豊の悲劇を招いた。
* 逢紀(rival):逢紀と田豊の間には明白な対立関係があった。史実において、逢紀は「豊の亮直を憚り、数しば之を紹に讒す」 c:2856。演義では、逢紀はさらにたびたび袁紹の面前で田豊を讒誣し、田豊の下獄と最終的な処刑を直接もたらした c:3798, c:3799。
* 曹操(opponent's advisor):田豊の謀略はたびたび曹操に向けられた。曹操もまた田豊の才能を深く知っており、かつて「もし紹が田別駕の計を用いていれば、まだ分からなかったであろう」と嘆息したが c:2856、これは間接的に田豊の軍事的洞察力を肯定したものである。
* 劉備(救助者、演義独自):演義では、袁紹が怒って田豊を斬ろうとした時、劉備が力説したことで田豊は即座の処刑を免れ、囚禁に改められた c:12835。

象徴的な場面

* 怒って地を打ち袁紹を諫める:曹操が東方の劉備を征伐し、許都が手薄になった折、田豊は袁紹にこの機に乗じて襲うよう力説したが、袁紹はかえって幼子が病であることを理由に拒んだ。田豊はこれを聞くと、「杖を挙げて地を打ちて曰く、『めったに遭えぬ好機に遭いながら、赤子の病でその会を失うとは、惜しいことだ!』」 c:12842 この場面は田豊の時局に対する鋭敏な洞察と、袁紹が好機を逸したことへの痛惜を十分に表している。
* 官渡の戦い前夜の囚禁:袁紹が南下して曹操と決戦しようとした時、田豊は再び諫言し、持久戦の策略を提起し、軽率に曹操と決戦すべきではないとした。しかし、袁紹は聞き入れず、かえって大いに怒り、田豊が「衆を沮喪させた」と考え、ついに彼を囚禁した c:2856。演義では、袁紹は田豊を斬ろうとさえしたが、後に劉備が力説したことでようやく囚禁に改めた c:12835。この場面は袁紹の敗北と田豊の悲劇的運命を予示している。
* 獄中の自刎:袁紹が官渡で敗れた後、逢紀は再び讒言し、田豊が獄中で「手を打って大笑した」と称し、袁紹は大いに怒って彼を殺すよう命じた。田豊は獄中で袁紹の敗北を知ると、自らの死を予言し、「大丈夫、天地の間に生まれながら、その主を識らずしてこれに仕えるは、無智なり!今日死を受くるも、何ぞ惜しむに足らんや!」と感慨した c:12840。やがて自刎して死んだ。この場面は田豊の悲劇的な人生の終結であり、またその忠貞不屈の品格の集中的な体現でもある。

人間関係

4 件の関係

名言

全 17 件の台詞 · 厳選 3 件

「遭此難遇之時,乃以嬰兒之病,失此機會,大事去矣!可痛惜哉!」

演 第24回→ 袁紹(えんしょう)

この一句は袁紹(えんしょう)が好機を逃したことへの田豊(でんほう)の痛惜を示し、その戦略的な先見の明を際立たせている。

「袁將軍外寬而內忌,不念忠誠。若勝而喜,猶能赦我;今戰敗則羞,吾不望生矣。」

演 第31回

この一句は袁紹(えんしょう)の性格の欠陥を深く暴き、田豊(でんほう)の悲劇的な結末を予示しており、きわめて人物造形の力に富む。

「大丈夫生於天地間,不識其主而事之,是無智也!今日受死,夫何足惜!」

演 第31回

この一句は田豊(でんほう)の臨終の絶唱であり、明主に巡り会えなかった嘆きを表しており、広く語り継がれている。

登場回8 回 ▸
  • 史ch.6
  • 演ch.7ch.22ch.24ch.25ch.27ch.30ch.31
関係の年表6 条 ▸

史 ch.6

演 ch.24

演 ch.25

演 ch.27

演 ch.30

演 ch.31

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 獄中で官渡(かんと)の敗報を聞くと、獄吏が祝いに来て、「将軍が敗れた今、私はこれによって重く用いられるでしょう」と言った。私は聞いて、ただこの言葉は逆説に近いと思った。袁公(Yuan Gong)は表向きは寛大だが、内心では疑い深く、人を害す
  • 私は田豊(でんほう)、字は元皓(げんこう)である。河北に身を置き、憂えていたのは一戦の勝敗だけではない。漢王朝の綱紀は日ごとに緩み、諸侯はそれぞれ強兵を擁し、民は戦乱に苦しんでいた。謀臣たる者、好機を見いだせば、時勢に即して利害を述べるべき
  • 私は田豊(でんほう)、字は元皓(げんこう)である。かつて冀州(きしゅう)に入った当初、韓馥(かんふく)は州の政務を袁紹(えんしょう)に譲り、袁紹が冀州を掌握すると、私を沮授(そじゅ)・許攸(きょゆう)・逢紀(ほうき)らとともに州政の分掌に当
生涯の大事2 ▸