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鄧芝(とうし)

蜀漢(しょくかん) · 车骑将军

鄧芝(とうし)

登場回
11
台詞の記録
24
人間関係
10
内面の独白
3

史載(Historical Record)

鄧芝(とうし)、字は伯苗、義陽の新野(しんや)の人で、漢の司徒であった鄧禹の末裔にあたる。漢末、鄧芝は蜀に入ったが、初期には顕著な地位を得ることはなかった。記録によれば、当時、益州(えきしゅう)従事の張裕は人相見に長けており、鄧芝はかつて彼のもとへ教えを乞いに行ったところ、張裕は彼が七十歳を過ぎて大将軍に至り、侯に封じられるであろうと予言したという。鄧芝はその後、巴西太守の龐羲(ほうぎ)が士を好むと聞いて、これに身を寄せた。劉備(りゅうび)が益州を平定した後、鄧芝は郫邸閣督に任じられた。劉備が郫の地を巡視した際、鄧芝と語り合って大いにその才を認め、彼を郫令に抜擢し、後にさらに広漢太守へと遷した。鄧芝は在任中、清廉で厳明なことで知られ、目覚ましい治績をあげた。その後、彼は朝廷に召し入れられ、尚書の職に就いた。

劉備が永安(えいあん)で崩じた後、孫呉(そんご)はかつて蜀漢(しょくかん)に和睦を求めており、劉備も生前、宋瑋や費禕(ひい)らをたびたび呉へ遣わして答礼させていた。丞相の諸葛亮(しょかつりょう)は、孫権(そん けん)が劉備の死を知って異心を抱くのではないかと深く憂慮し、鄧芝を呉へ使者として遣わし、呉蜀の友好関係を改めて確認させた。孫権は当初、鄧芝に対して様子見の態度をとり、引見しようとしなかった。そこで鄧芝は自ら謁見を願い出て、この度の来訪は蜀漢のためだけでなく、呉のためでもあると孫権に申し述べた。孫権が引見した後、蜀漢が国小さく勢い弱く、主君が幼少であることへの懸念に対し、鄧芝は呉蜀両国は合すれば共に利あり、分かれれば共に害ありという道理をもって孫権を説き伏せ、ついに孫権をして魏と絶交させ、蜀漢と改めて同盟を結ばせた。

北伐(諸葛亮)(ほくはつ(しょかつりょう))の間、鄧芝はかつて趙雲(ちょううん)とともに疑兵となり、箕谷に拠って魏の大将軍曹真(そうしん)を牽制した。諸葛亮の死後、鄧芝は前軍師・前将軍に任じられ、兗州(えんしゅう)刺史を領し、陽武亭侯に封じられ、ほどなくして江州(こうしゅう)を都督した。孫権は鄧芝と頻繁に書簡を交わし、手厚い贈り物を与えた。

延熙六年(243年)、鄧芝は車騎将軍に昇進し、後にさらに節を仮された。延熙十一年(248年)、涪陵郡の属国の民夷が反乱を起こすと、鄧芝は軍を率いて鎮圧に赴き、速やかに反乱の首領を斬って、その地の人民を安んじた。『華陽国志』の記載によれば、鄧芝は涪陵を征討した際、一匹の黒い猿を射当て、その子が母猿のために矢を抜き傷をふさぐのを見て、自らが物の性に背いたことを嘆き、ついに弩を水中に投げ捨て、自分がもう長くは生きられないと予感したという。延熙十四年(251年)、鄧芝は世を去った。鄧芝は大将軍を二十余年務め、賞罰が分明で、士卒をよくいたわった。彼は生涯清廉で、衣食を官俸に頼り、決して私財を蓄えることをしなかったため、妻子はしばしば飢えと寒さに陥り、死去した時には家に余財がなかった。

演中(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』においては、鄧芝の人物像はさらに肉付けされ、とりわけ呉蜀同盟の樹立と北伐戦争における役割が重点的に描かれている。劉備が崩御した後、諸葛亮は呉蜀同盟を強固にするため、後主の劉禅(りゅう ぜん)に上奏して鄧芝を東呉へ使者として遣わすことを願い出た。孔明は群臣の中から鄧芝が喜色を帯びているのを見て、彼が大局を深く理解していることを知り、ついに彼を使者に選んだ。

鄧芝が東呉へ使いに赴いた際、孫権はその胆力を試そうとして、わざと油の煮え立つ鼎を据え、武士に刀斧を持たせて並ばせた。鄧芝は少しも恐れる色なく、昂然として入り、煮え立つ油の鼎を見てもただ微かに笑うばかりであった。彼は孫権の叱責に対し、「上国の天使は、小邦の主に拝せず」と言い張り、呉蜀の利害関係をもって孫権を説き、ついには油の鼎に飛び込もうとする素振りまで見せて、その志を明らかにした。孫権はその気節と弁舌に感服し、ついに蜀漢と同盟を結んだ。この場面は史書には明確な記載がなく、演義が鄧芝の胆力と弁才を際立たせるための芸術的脚色である。

二度目に東呉へ使いした際、孫権はかつて、呉蜀両国がもし魏を滅ぼした後、天下太平となれば、二人の主が分かち治めるのも楽しからずやと問うた。これに対し鄧芝は「天に二日なく、民に二王なし」と答え、その時には「君は各々その徳を修め、臣は各々その忠を尽くせば、すなわち戦争はまさに止むのみ」と述べ、漢室統一への揺るぎない信念を示した。

北伐の間、鄧芝はたびたび従軍して出征した。諸葛亮の最初の北伐の際、鄧芝は趙雲とともに箕谷へ疑兵として派遣され、魏軍を牽制した。魏将の韓徳(かんとく)との交戦においては、鄧芝は趙雲と連携して魏軍を大いに破った。鄧芝はまた、老齢の趙雲を「勇猛なること昔のごとし」と賞賛し、ともに孔明へ勝報を伝えた。しかし、ある戦役では、鄧芝は趙雲に魏軍の偽りの敗走を警戒するよう諌めたが、趙雲はこれを聞かず、敵陣深く入って囲まれてしまった。鄧芝は兵が少なく救援できなかったが、幸いにも諸葛亮が間に合って駆けつけ、危機を解いた。別の北伐では、鄧芝は魏延(ぎえん)や陳式(ちんしょく)らとともに箕谷を出たが、陳式が鄧芝の制止を聞かず、あえて軽々しく進んで、ついに敗北を招いた。これらの場面はいずれも演義における鄧芝の人物像を豊かにし、彼を単なる外交官だけでなく、謀略ある将としても描き出している。

重要な関係

* 諸葛亮:鄧芝は諸葛亮から深く信任され、重用された。諸葛亮は劉備の死後、孫権の異心を深く憂慮して、わざわざ鄧芝を東呉へ使者として遣わし、呉蜀の友好を改めて確認させた。演義においては、諸葛亮はさらに鄧芝を「これを思うこと久し、いまだその人を得ず」と求めていた適任の使者だと賞賛している。
* 孫権:鄧芝と孫権との間には深い相互信頼の関係が築かれた。鄧芝はその胆力と弁才をもって孫権を説き、蜀漢と同盟を結ばせた。孫権はかつて鄧芝を「二国を和合せしむるは、ただ鄧芝あるのみ」と賞賛し、彼と頻繁に書簡を交わし、手厚い贈り物を与えた。演義においては、孫権はさらに鄧芝の気節に感服し、「君の誠款、すなわちまさにしかるか!」と称えている。
* 趙雲:北伐の間、鄧芝はたびたび趙雲と肩を並べて戦い、ともに疑兵を務め、ともに諸葛亮へ勝報を伝えた,。
* 劉備:劉備は益州を平定した後、鄧芝と語り合って大いにその才を認め、彼を郫令に抜擢した。
* 張裕:益州従事の張裕はかつて鄧芝の人相を見て、彼が大将軍に至り、侯に封じられると予言したが、この予言は後に実現した。
* 龐羲:鄧芝はかつて龐羲が士を好むことから、これに身を寄せた。
* 姜維:鄧芝は性格が剛直で、追従を好まず、敬服する者は少なかったが、ただ姜維(きょうい)だけは重んじた。

象徴的な場面

* 東呉へ使いし、孫権と舌戦す:劉備が崩御した後、鄧芝は諸葛亮の派遣を受けて東呉へ使いし、見事に孫権を説いて蜀漢と旧好を結び直させ、呉蜀同盟の再樹立を成し遂げた。彼は「呉・蜀二国は四州の地、大王は世に命ぜられた英傑、諸葛亮もまた一時の俊傑なり」という言葉、ならびに孫権がもし魏に降った場合の結果の分析をもって、ついに孫権の心を動かした。演義ではさらに、孫権が油の鼎を据えて鄧芝の胆力を試す場面が加えられ、鄧芝は少しも恐れず、鼎に飛び込む素振りまで見せて、その非凡な勇気と弁舌を示した。
* 北伐で疑兵を務む:北伐の間、鄧芝はかつて趙雲とともに軍を率いて箕谷を出て、疑兵として魏軍の主力を牽制し、諸葛亮の主攻方向に有利な条件を作り出した,。
* 涪陵の反乱を平定す:延熙十一年、涪陵の属国の民夷が反乱を起こすと、鄧芝は軍を率いて速やかに平定し、反乱の首領を斬って、その地に安定を取り戻した。
* 清廉自守、家に余財なし:鄧芝は大将軍を二十余年務め、終始清廉な気風を保ち、私財を蓄えず、死去した時には家に余財がなく、妻子さえも飢えと寒さを免れなかったが、それはその高潔な品格を示すものであった。
* 孫権と天下の大勢を論ず:二度目に東呉へ使いした際、孫権はかつて、もし魏を滅ぼした後に天下太平となれば、二人の主が分かち治めるのも楽しからずやと問うた。これに対し鄧芝は「天に二日なく、民に二王なし」と答え、漢室統一への揺るぎない立場を示した(演義独自)。

肖像アーカイブ

人物像

性格
鄧芝は剛直で質素な性格であり、意気には拘泥せず、士人におもねることもなく、敬う者もほとんどいなかった。彼は危機に臨んでも恐れず、弁舌は落ち着いており、清廉厳明で治政の実績もあった。
話し方
鄧芝は道理をもって率直に述べ、孫権への応対も滔々とし、利害と情勢をもって他者を説得することに長けていた。彼は卑屈にも傲慢にもならず、長揖して拝せず、直に典故を引いて風刺し、多くは祝辞や詰問をもって口を開いた。
生涯
鄧芝は義陽新野の人で、漢の司徒鄧禹の後裔である。漢末に蜀へ入った当初は重用されなかったが、先主が益州を平定した後、郫の邸閣督、郫令、広漢太守を歴任し、後に朝廷に入って尚書となった。先主が没した後、諸葛亮の命を受けて東呉へ使者に立ち、旧交を修復した。諸葛亮が漢中に北駐したとき、鄧芝は中監軍、揚武将軍を務めた。諸葛亮が没した後、彼は前軍師前将軍に遷り、兗州刺史を領し、陽武亭侯に封ぜられ、江州を督した。延熙六年に車騎将軍に昇進し、後に仮節を得た。延熙十一年、彼は涪陵の叛乱を討伐した。延熙十四年に没するまで、将たること二十余年、賞罰は分明で、衣食は官府に仰ぎ、家中に余分な財物はなく、ただ姜維のみを重んじた。
逸話
鄧芝はかつて諸葛亮の命を受けて東呉に使者として赴き、旧交を修復し、また趙雲とともに箕谷へ出て陽動の兵となった。彼は戸部尚書、中監軍、揚武将軍を務め、後に車騎将軍に遷った。

人間関係

10 件の関係

名言

全 24 件の台詞 · 厳選 3 件

「上國天使,不拜小邦之主。」

演 第86回→ 孫権(そん けん)📍 建業(けんぎょう)

この台詞は鄧芝(とうし)の卑屈にも傲慢にもならぬ外交家としての気骨を示しており、その人物像を象徴する名場面である。

「大王乃命世之英豪,諸葛亮亦一時之俊傑;蜀有山川之險,吳有三江之固:若二國連和,共為脣齒,進則可以兼吞天下,退則可以鼎足而立。今大王若委贄稱臣於魏,魏必望大王朝覲,求太子以為內侍;如其不從,則興兵來攻,蜀亦順流而進取,如此則江南之地,不復為大王有矣。若大王以愚言為不然,愚將就死於大王之前,以絕說客之名也。」

演 第86回→ 孫権(そん けん)

この言葉は呉・蜀・魏の三国(さんごく)の情勢を鋭く分析し、孫劉同盟の成立を促した、歴史的意義の大きいものである。

「『天無二日,民無二王。』如滅魏之後,未識天命所歸何人。但為君者,各修其德;為臣者,各盡其忠,則戰爭方息耳。」

演 第86回→ 孫権(そん けん)

「天に二日無く、民に二王無し」は、三国時代の政治構図を語る古典的な言葉である。

登場回11 回 ▸
  • 史ch.33ch.35ch.41ch.45
  • 演ch.85ch.86ch.91ch.92ch.95ch.96ch.100
関係の年表9 条 ▸

史 ch.45

演 ch.86

演 ch.91

演 ch.95

演 ch.96

演 ch.100

内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
  • 私は鄧芝(とうし)、字は伯苗(はくびょう)である。生涯を振り返れば、先帝から国事を託され、丞相の孔明(こうめい)にも、たびたび軍に従って出征し、使者として往来するよう命じられた。街亭(がいてい)で敗れた後、私は趙雲(ちょううん)とともに軍を
  • 先主が崩御し、後主が即位したばかりの頃、国中の人心は定まらず、魏もまた外から虎視眈々と窺っていた。丞相の命を受けて呉に赴き、友好を結び直したが、この使節の任務に懸かるものは、一通の盟約だけではなく、蜀漢(しょくかん)の存続そのものだと心得て
  • 我が名は鄧芝(とうし)、字は伯苗(はくびょう)である。若い頃について、史実に基づいて語れることは多くない。後世の人々は、私を義陽郡新野(しんや)の人とし、漢の司馬・鄧禹(とうう)の末裔とも称したが、これらは小説に見える話であり、すべてを実録
生涯の大事4 ▸