史載(Historical Record)
向寵(しょうちょう)、字は不詳、襄陽(じょうよう)宜城の人で、蜀漢(しょくかん)の将領向朗(しょうろう)の甥である。彼は早くから蜀漢(しょくかん)に仕え、劉備(りゅうび)の在位時には、すでに牙門将の職に就いていた。劉備(りゅうび)の夷陵の戦い(いりょうのたたかい)(秭帰の敗ともいう)において、蜀漢(しょくかん)軍は大きな打撃を受けたが、向寵(しょうちょう)の率いる陣営だけは完全さを保ち、波及を受けることがなく、その卓越した軍事的才能と部隊管理の能力を示した。
建興元年(223年)、劉禅(りゅう ぜん)が即位した後、向寵(しょうちょう)はその功績と能力によって都亭侯に封ぜられ、中部督を務め、宿衛の兵を統率し、禁軍を掌り、皇宮の安全を守った。諸葛亮(しょかつりょう)は北伐を準備する際、わざわざ後主劉禅(りゅう ぜん)に上表して向寵(しょうちょう)を推薦した。表文の中で、諸葛亮(しょかつりょう)は向寵(しょうちょう)を高く評価した。「将軍向寵(しょうちょう)は、性行淑均にして、軍事に晓暢す。昔試用せられ、先帝これを称して能と曰う。是を以て衆論寵を挙げて督と為す」 諸葛亮(しょかつりょう)は劉禅(りゅう ぜん)に、宮中のことは大小を問わずすべて向寵(しょうちょう)に諮るべきであり、彼であれば必ずや軍営の内部を和睦させ、おのおのその職を司らせ、人材を尽くせると信じるよう勧めた。その後、向寵(しょうちょう)の職位はさらに昇進し、中領軍に遷った。
しかし、向寵(しょうちょう)の軍事生涯は最終的に延熙三年(240年)に終止符を打つこととなった。当時、彼は命を受けて漢嘉郡の蛮夷を征討したが、不幸にも戦事の中で殺害された。向寵(しょうちょう)の弟向充は、後に射声校尉・尚書などの職にまで上った。
演中(In the Novel)
『三国(さんごく)演義』は向寵(しょうちょう)についての描写が比較的少なく、ほとんど独立した筋立ての造形がないとさえ言える。小説において、向寵(しょうちょう)は主に諸葛亮(しょかつりょう)の『出師表』の中で言及される人物像として登場し、その「性行淑均、軍事に晓暢す」という評価は史実と完全に一致している。小説はその生涯の事績について余分な文学的加工や虚構を加えておらず、秭帰の敗における彼の働きや、蜀漢(しょくかん)軍における具体的な職責も詳しく描いていない。したがって、向寵(しょうちょう)は『三国(さんごく)演義』においては、むしろ諸葛亮(しょかつりょう)に引き立てられた賢臣の象徴として登場し、独立した筋立てを持つ役柄ではない。小説は彼が蛮夷を征討して殺害された結末にも言及しておらず、その弟向充についても一切筆を割いていない。
主要な関係
* 向朗(しょうろう)(kin_of):向寵(しょうちょう)は蜀漢(しょくかん)の名士向朗(しょうろう)の甥である。向朗(しょうろう)は蜀漢(しょくかん)で左将軍・特進にまで上り、学識が広く清廉なことで知られ、その一族は蜀漢(しょくかん)において一定の影響力を持っていた。
* 蜀漢(しょくかん)(serves):向寵(しょうちょう)は生涯にわたって蜀漢(しょくかん)政権に仕え、劉備(りゅうび)の時代から牙門将を務め、後に劉禅(りゅう ぜん)の時代には中部督・中領軍にまで上り、蜀漢(しょくかん)の重要な将領であり宿衛の責任者であった。
* 劉備(りゅうび)(served by):劉備(りゅうび)の在位時、向寵(しょうちょう)はすでに牙門将であり、夷陵の戦い(いりょうのたたかい)において軍事的才能を示し、劉備(りゅうび)の認可を得て、「能」と称賛された。
* 諸葛亮(しょかつりょう)(recommended by):諸葛亮(しょかつりょう)は『出師表』において後主劉禅(りゅう ぜん)に向寵(しょうちょう)を力を込めて推薦し、その「性行淑均、軍事に晓暢す」を称し、劉禅(りゅう ぜん)に「営中のことは、悉くこれを諮れ」と勧め、向寵(しょうちょう)に対する諸葛亮(しょかつりょう)の高い信頼と重用を示した。
* 劉禅(りゅう ぜん)(served):向寵(しょうちょう)は劉禅(りゅう ぜん)が即位した後、都亭侯に封ぜられ、中部督・中領軍を務め、宿衛の禁軍を司り、劉禅(りゅう ぜん)の側近の重要な軍事将領であった。
象徴的な場面
* 秭帰の敗における陣営の無事:劉備(りゅうび)の夷陵の戦い(いりょうのたたかい)(秭帰の敗)において、蜀漢(しょくかん)軍は大きな打撃を受けたが、向寵(しょうちょう)の率いる陣営だけは完全さを保ち、波及を受けなかった。この出来事は向寵(しょうちょう)の卓越した軍事指揮と管理の能力を証明しただけでなく、戦後彼を際立たせ、「先帝これを称して能と曰う」という称賛を勝ち取らせた。これは彼の軍事生涯における早期の最も顕著な功績であり、その後の重用を得る重要な基盤でもあった。
* 諸葛亮の『出師表』による賢者の推薦:諸葛亮(しょかつりょう)は北伐の前夜、後主劉禅(りゅう ぜん)に上表し、その中で特に向寵(しょうちょう)に言及し、その「性行淑均、軍事に晓暢す」を称し、劉禅(りゅう ぜん)に宮中の事務をすべて彼に諮るよう勧めた。この場面は向寵(しょうちょう)個人の能力が最高層の認可を得たことの表れであるだけでなく、『三国(さんごく)演義』における向寵(しょうちょう)の主要な登場の仕方ともなり、その賢臣としての姿を人々の心に深く刻んだ。
* 宿衛の禁軍を統率する:向寵(しょうちょう)は建興元年に中部督に任命され、宿衛の兵を司り、後に中領軍に遷った。これは彼が蜀漢(しょくかん)の禁軍を掌り、直接皇宮の安全と京都の防衛を担う、蜀漢(しょくかん)の軍事体系における中核的な人物の一人であったことを意味する。
* 蛮夷を征討して殺害される:延熙三年、向寵(しょうちょう)は命を受けて漢嘉の蛮夷を征討し、不幸にも作戦中に殺害された。これは彼の軍事生涯の終点であり、また蜀漢(しょくかん)のために忠を尽くし職を守った最終的な表れでもあったが、この結末は『三国(さんごく)演義』では言及されていない(演義独自)。
人間関係
2 件の関係
登場回1 回 ▸
- 史ch.41
関係の年表1 条 ▸
史 ch.41
- 向朗(しょうろう)§21
kin_of
兄子
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は向寵(しょうちょう)である。先主の時代には牙門将を務めた。この生涯で最も忘れがたい時を挙げるなら、秭帰(しき)の敗戦後、陣営を振り返った時だろう。敗軍の中で、私が率いた陣営だけは無事に保たれていた。それは誇るに足る功績ではなく、敗北を覆
生涯の大事1 ▸
- 0227-01-01 · 成都(せいと)前出師表(ぜんすいしのひょう)· 総大将