言語
董

劉璋集団(りゅうしょうしゅうだん) · 重臣

董和(とう か)

登場回
4
台詞の記録
2
人間関係
3
内面の独白
1

史書の記載(Historical Record)

董和(とう か)、字は幼宰、本籍は南郡(なんぐん)枝江で、その先祖は本来巴郡(はぐん)江州(こうしゅう)の人である。漢末、天下が大いに乱れた際、董和(とう か)は宗族を率いて西の益州(えきしゅう)へ移った。益州(えきしゅう)牧の劉璋(りゅう しょう)はその才幹を重んじ、先に彼を牛鞞、江原の二県の県長に任じ、後にまた成都(せいと)県令に昇進させた。当時の蜀の地は富裕で、社会の風潮は奢侈で浮華であり、富豪の家は華麗な衣を着、精美な食を食し、婚礼や葬儀などの事ではさらに家財を傾け尽くした。董和(とう か)はこれを深く憂慮し、自ら手本を示して節倹を躬行し、質素な衣を着て、粗末な食事をとった。彼は礼制を逾える行為を厳しく抑え、規則制度を定めて束縛し、赴く所々で民風がそれによって改善され、百姓は彼を敬畏して触れることを恐れた。しかし、県内の豪強はこれによって董和(とう か)の厳格な法度を忌み、劉璋(りゅう しょう)に進言して董和(とう か)を巴東属国都尉に転任させた。董和(とう か)が離任しようとした時、数千名の吏民百姓が、老幼を問わず、互いに支え合って劉璋(りゅう しょう)に董和(とう か)を留任させるよう請うた。劉璋(りゅう しょう)は最終的に董和(とう か)にさらに二年留任することを認めた。期間が満ちた後、董和(とう か)は益州(えきしゅう)太守に転任したが、彼は依然として清廉節倹の作風を保ち、従来通りであった。南中(なんちゅう)の蛮夷と交わる際、董和(とう か)は終始、誠心誠意をもって相手に接する原則を堅持したため、南中(なんちゅう)の百姓の敬愛と信頼を深く得た c:6148。

劉備(りゅうび)が蜀の地を平定した後、董和(とう か)を掌軍中郎将に召し、軍師将軍諸葛亮(しょかつりょう)と共に左将軍、大司馬府の事務を署理させた。政務を処理する際、董和(とう か)は有益な提案を出し、不当な点を糺すことができ、諸葛亮(しょかつりょう)と相処融洽で、互いの間に深い友情を築いた。董和(とう か)は官途に就いて俸禄を受け、外に出て辺遠の地を管理するにせよ、朝中で国家の重要な決定に参与するにせよ、二十数年来、彼が亡くなる時まで、家中に余分な財物はなかった。諸葛亮(しょかつりょう)は後に丞相を務め、部下への教誨の中で、たびたび董和(とう か)に言及した。彼はかつてこう言った。「そもそも参署する者は、衆思を集めて忠益を広めるものである。もし小さな嫌疑を遠ざけて、互いに反論し合うことを難しく思えば、空疎で欠けて損なわれてしまう。反論し合って中庸を得るのは、破れた草鞋を捨てて珠玉を得るようなものだ。しかし人心は尽くせぬことを苦とするものだが、ただ徐元直(徐庶(じょしょ))はこれに惑わず、また董幼宰(董和(とう か))は参署すること七年、事に至らぬことがあれば、十度も繰り返して、来て告げ知らせてくれた。もし元直の十分の一、幼宰の殷勤を慕うことができ、国に忠であれば、亮の過ちは少なくなろう」 c:3151 この言葉は、董和(とう か)が軍政事務を参賛する際に、嫌疑を避けず、繰り返し進言し、真知灼見を出したことを高く称賛している。諸葛亮(しょかつりょう)はまたこう述べた。「昔、初め州平と交わり、しばしば得失を聞き、後に元直(徐庶(じょしょ))と交わり、勤めて啓誨を受け、前に幼宰(董和(とう か))と事を参じては、言うたびに尽くし、後に伟度(胡済(こ せい))に従事しては、しばしば諫止があった。姿性は鄙暗で、悉くは受け入れられなかったが、この四子と終始好く合致したことは、彼が直言を疑わなかったことを明らかにするに足る」 c:3151 諸葛亮(しょかつりょう)の董和(とう か)への追憶と推崇からは、彼が董和(とう か)の品徳と能力を認めていたことが見て取れる。董和(とう か)の子である董允(とう いん)は、後に蜀漢(しょくかん)の重要な官員となり、侍中を務め、後主劉禅(りゅう ぜん)の信任を深く得て、たびたび劉禅(りゅう ぜん)の過ちを匡正した c:3120。

演義の記述(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』において、董和(とう か)の形象は主に劉備(りゅうび)が益州(えきしゅう)を攻め取る過程に体現されている。劉備(りゅうび)の大軍が雒城(らくじょう)を包囲した時、劉璋(りゅう しょう)はその義弟である費観(ひかん)と李厳(りげん)に軍を率いさせて綿竹(めんちく)へ赴いて防衛させた。この時、益州(えきしゅう)太守の董和(とう か)は劉璋(りゅう しょう)に上書し、漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)に兵を借りて急場をしのぐよう建議した。劉璋(りゅう しょう)はこれに疑いを抱き、張魯(ちょうろ)は自分と世仇であり、助けることはありえないと考えた。董和(とう か)は劉璋(りゅう しょう)を説得し、劉備(りゅうび)の軍隊がすでに雒城(らくじょう)に迫り、益州(えきしゅう)が危急に瀕しており、唇亡びて歯寒しで、もし利害関係をもって張魯(ちょうろ)を説得できれば、彼は必ず出兵して救うことに同意するだろうと指摘した。劉璋(りゅう しょう)は董和(とう か)の建議を採用し、書を修めて使者を派遣して漢中(かんちゅう)へ援軍を求めた c:6151。

しかし、張魯(ちょうろ)は最終的に真に出兵して救うことはなく、かえって馬超(ばちょう)、馬岱(ばたい)を派遣したが、馬超(ばちょう)は城下で劉璋(りゅう しょう)に降伏を勧め、助戦はしなかった。劉璋(りゅう しょう)が馬超(ばちょう)がすでに劉備(りゅうび)に帰順したことを知ると、驚き恐れ、城を開いて投降しようとした。この時、董和(とう か)は再び進言し、城中にはなお三万余の兵力があり、銭糧は一年を支えるに足り、軽々しく投降すべきではないと指摘した c:13298。しかし、劉璋(りゅう しょう)の意は決しており、自分たち父子が蜀の地に二十余年いながら、百姓に恩徳を施すことができず、かえって三年の戦乱を招いて生霊が塗炭に苦しんだのを、これ以上百姓に苦しみを受けさせるに忍びないとして、最終的に城を開いて投降することを決めた。劉備(りゅうび)が益州(えきしゅう)に入った後、群臣に大宴を催し、投降した文武の官員に厚く褒賞を与えた。董和(とう か)は掌軍中郎将に任じられ、厳顔(げんがん)、法正(ほうせい)、許靖(きょせい)らと共に擢用を受けた c:6152。

『三国(さんごく)演義』における董和(とう か)の描写は、その益州(えきしゅう)太守の身分を保ち、彼が劉備(りゅうび)に掌軍中郎将として重用されたことに言及しており、史実と符合する。しかし、劉璋(りゅう しょう)に張魯(ちょうろ)への借兵を勧め、劉璋(りゅう しょう)の投降を諫止する筋立てにおいて、董和(とう か)は時局に対する判断と劉璋(りゅう しょう)への忠誠を示しており、これらの具体的な対話と筋立ては『三国志(さんごくし)』には詳細な記載がなく、演義の文学的創作に属する。小説はこれらの筋立てを通じて、劉璋(りゅう しょう)集団が危難の際にもなお提言し、忠誠を尽くす形象を造り上げたが、最終的に劉璋(りゅう しょう)の運命を変えることはできなかった。

重要な関係

* 劉璋集団(りゅうしょうしゅうだん)(仕える):董和(とう か)は劉備(りゅうび)の入蜀以前、長く益州(えきしゅう)牧の劉璋(りゅう しょう)に仕え、牛鞞、江原長、成都(せいと)令および益州(えきしゅう)太守などの職を務めた c:6148。劉璋集団(りゅうしょうしゅうだん)が劉備(りゅうび)の攻勢に直面した際、董和(とう か)はかつて劉璋(りゅう しょう)に進言し、張魯(ちょうろ)への借兵を建議し、劉璋(りゅう しょう)の投降を諫止しており、劉璋(りゅう しょう)への忠誠を体現している(演義独自)c:6151, c:13298。
* 劉備集団(りゅうびしゅうだん)(帰順する):劉備(りゅうび)が益州(えきしゅう)を平定した後、董和(とう か)は召され、劉備集団(りゅうびしゅうだん)の一員となった。劉備(りゅうび)はその才能を認め、彼を掌軍中郎将に任じた c:6146。
* 蜀漢(しょくかん)(仕える):劉備(りゅうび)が蜀漢(しょくかん)政権を建てた後、董和(とう か)は引き続き掌軍中郎将を務め、諸葛亮(しょかつりょう)と共に軍政事務を処理し、蜀漢(しょくかん)の重要な官員であった c:3151。
* 諸葛亮(しょかつりょう)(友人):董和(とう か)と諸葛亮(しょかつりょう)は共事の期間に深い友情を築いた。諸葛亮(しょかつりょう)はたびたび部下を教誨する際に董和(とう か)に言及し、「参署すること七年、事に至らぬことがあれば、十度も繰り返して、来て告げ知らせてくれた」その忠誠と直言不諱を称賛し、彼を徐庶(じょしょ)、胡済(こ せい)らと並べた、諸葛亮(しょかつりょう)が非常に敬重した友人であり同僚であった c:3151。

象徴的な場面

* 自ら倹を率い、風を移し俗を易える:董和(とう か)は牛鞞、江原長、成都(せいと)令を務める期間、蜀の地の奢侈浮華な社会の風潮に対し、自ら手本を示し、質素な衣を着、粗末な食事をとり、規則制度を定めて礼制を逾える行為を抑えた。彼の清廉節倹と厳格な執法により、赴く所々の民風が改善され、百姓は彼を敬畏して触れることを恐れた c:6148。これは彼個人の品徳と治理能力の重要な体現である。
* 吏民が留任を乞う:董和(とう か)が成都(せいと)令の職から転任させられる時、数千名の吏民百姓が、老幼を問わず、互いに支え合って劉璋(りゅう しょう)に董和(とう か)を留任させるよう請うた。この場面は董和(とう か)が深く民心を得て、その清廉正直な形象が人心に深く入り込んでいたことを生き生きと示している c:6148。
* 諸葛亮(しょかつりょう)と共事し、その追思を受ける:劉備(りゅうび)が蜀を定めた後、董和(とう か)は諸葛亮(しょかつりょう)と共に左将軍、大司馬府の事務を署理した。諸葛亮(しょかつりょう)は董和(とう か)の死後、たびたび部下への教誨の中で、董和(とう か)が軍政事務を参賛する際の忠誠、直言、勤勉を高く称賛した。諸葛亮(しょかつりょう)は董和(とう か)を直言不諱できる挚友であり同僚と見なし、後輩に董和(とう か)の殷勤と忠誠を学ぶよう励ました c:3151。これは董和(とう か)個人の品徳の体現であるだけでなく、彼が蜀漢(しょくかん)政権における重要な地位と影響力をも反映している。
* 劉璋(りゅう しょう)に借兵を勧め投降を拒ませる:『三国(さんごく)演義』において、董和(とう か)は劉備(りゅうび)が益州(えきしゅう)を囲攻した際、劉璋(りゅう しょう)に張魯(ちょうろ)への借兵の建議を出し、急場をしのごうとした。劉璋(りゅう しょう)が投降の選択に直面した時、董和(とう か)はまた劉璋(りゅう しょう)を諫止し、城中にはなお兵力と糧草があり、軽々しく放棄すべきではないと指摘した(演義独自)c:6151, c:13298。これらの筋立ては史書には詳細な記載がないが、董和(とう か)が危難の時にもなお忠誠を尽くし、劉璋(りゅう しょう)のために謀る形象を造り上げている。

人間関係

3 件の関係

台詞

  • 演 ch.64 §23→ 劉璋(りゅう しょう)

    「雖然與我有讎,劉備軍在雒城,勢在危急,脣亡則齒寒,若以利害說之,必然肯從。」

  • 演 ch.65 §18→ 劉璋(りゅう しょう)

    「城中兵尚有三萬餘人;錢帛糧草,可支一年:奈何便降?」

登場回4 回 ▸
  • 史ch.32ch.39
  • 演ch.64ch.65
関係の年表2 条 ▸

史 ch.39

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 成都(せいと)がすでに平定され、城内は豊かに栄えていた。先主は酒宴を設けて将兵を大いにもてなし、金銀を分け与えて軍をねぎらい、さらに穀物や絹を民に返した。宴席では旌旗がきらめき合い、百官や将兵はそれぞれの席に着いていたが、私は目の前の宴や恩