史書の記載(Historical Record)
王經は、字を彦偉といい、清河郡の人で、同郡の崔允とともに冀州(きしゅう)の名士と並称された。その早年の経歴は不詳だが、その母がかつて彼を戒めて「汝は田家の子なり、今仕えて二千石に至る、物の太だ過ぐるは不祥なり、止むべし」と言ったことが知られる。しかし王經はこれに従えず、官は二州刺史・司隷(しれい)校尉に至り、最終的にこれによって敗れた。
王經が初め江夏(こうか)太守となったとき、あるとき大将軍曹爽(そうそう)が絹二十匹を付して呉と交市させようとしたが、王經は書を発せず、官を棄てて家に帰った。その母が理由を尋ねると、王經はありのままに告げた。その母は王經が兵馬を典しながら勝手に去ったとして、送吏に命じて王經を五十杖打たせた。曹爽(そうそう)はこれを聞いても、これによって王經を咎めることはなかった。
甘露二年(257年)、蜀漢(しょくかん)の大将軍姜維(きょうい)が兵を率いて北伐し、狄道まで進軍した。当時雍州刺史であった王經は、征西将軍陳泰(ちんたい)とともにこれを防いだ。姜維(きょうい)は洮水で王經を破り、王經は狄道城に退いて守った。陳泰(ちんたい)は王經と密かに謀り、ともに姜維(きょうい)の帰路を断つこととした。姜維(きょうい)はこれを知ると逃れ去り、狄道城中の将士はこのため囲みを解くことができた。王經は嘆じて言った、「糧は旬に至らず、向に機に応ぜざれば、城を挙げて屠裂され、一州を覆喪せん」と。
甘露五年(260年)、魏帝曹髦(そうぼう)は侍中王沈(おうしん)、尚書王經、散騎常侍王業を召し、司馬昭(しばしょう)に篡逆の心があることを告げ、彼らとともに討伐しようとした。王經は諫めて言った、「昔、魯の昭公は季氏を忍ばず、敗走して国を失い、天下の笑いとなれり。今、権その門に在ること、日久しきなり。朝廷四方みなこれがために死を致し、逆順の理を顧みざること、一日にあらざるなり。且つ宿衛は空闕し、兵甲は寡弱なり。陛下何の資用する所ありて、一旦かくの如くせんとす。疾を除かんとしてかえってこれを深くせんとするにあらずや。禍ほとんど測られず、宜しく重ねて詳らかに見るべし」と。しかし曹髦(そうぼう)は聴かず、事を行う決意をした。
曹髦(そうぼう)が宮を出た後、王沈(おうしん)・王業は奔って司馬昭(しばしょう)に告発したが、王經は正直なるをもって出なかった。曹髦(そうぼう)は最終的に南闕の下で賈充(かじゅう)の部将成済(せいさい)に殺された。事後、皇太后が令を下し、王經を「凶逆無状」と称して、彼とその家属を廷尉に収めて押した。王經が捕らえられた後、その母は顔色を変えず、笑って応じて言った、「人、誰か死せざらん。往に汝を止めざりし所以は、その所を得ざるを恐れたればなり。これをもって命を並ぶ、何の恨みかこれあらんや」と。王經は最終的に家人とともに東市で処刑された。晋の武帝太始元年(265年)に詔して曰く、「故尚書王經、身は法辟に陥ると雖も、然れども志を守るは嘉すべし。門戸堙没す、意常にこれを愍む、それ經の孫に郎中を賜え」と。
演義の記載(In the Novel)
『三国演義』において、王經の形象は史実を基礎に文学的加工が施されており、とりわけ姜維(きょうい)との交戦および曹髦(そうぼう)遇害の事件にそれが表れている。
小説第110回は、姜維(きょうい)が北伐し、王經が雍州刺史として兵を率いて迎え撃つさまを描いている。彼は初め姜維(きょうい)が背水の陣を布くのを軽視し、「蜀兵、水を背にして陣を為す、敗れれば水に没せん」と考え、四将を出して戦わせた。しかし姜維(きょうい)は数合戦っただけで偽って敗れ、王經の大軍を誘って追撃させた。洮水のほとりで、姜維(きょうい)は身を反して奮力して斬り返し、同時に張翼(ちょうよく)・夏侯覇(かこう は)が後方から包抄して、魏兵を垓心に囲んだ。王經は大敗し、わずか百騎を率いて狄道城に逃げ帰り、門を閉じて死守した。姜維(きょうい)は勝ちに乗じて狄道城を攻めようとしたが、張翼(ちょうよく)が「功績すでに成り、威声大いに震う、止むべし。今もし前進し、もし意の如くならざれば、正に蛇を画きて足を添うるが如し」と諫めたが、姜維(きょうい)は従わず、攻城を続けた。史実では、王經は確かに洮水で敗れたが、小説は戦役の細部、姜維(きょうい)の計略、および王經の敵を軽んじる心理をより生き生きと描いている。
曹髦(そうぼう)遇害の一事において、小説第114回は王經の忠義を強化している。曹髦(そうぼう)が王沈(おうしん)・王經・王業の三人を召して司馬昭(しばしょう)討伐を協議したとき、王經の諫言は史実とおおむね一致するが、彼は「主憂うれば臣辱められ、主辱められれば臣死す。敢えて二心を懐かんや」と強調した。王沈(おうしん)・王業が告密に向かおうとしたとき、王經は大いに怒り、同流合汚を拒んだ。曹髦(そうぼう)が宮を出た後、王經はさらに辇の前に伏して、大いに哭して諫めた、「今、陛下、数百人を領して昭を伐つは、これ羊を駆りて虎口に入るるのみ、空しく死して益なし。臣は命を惜しむにあらず、実に事の行うべからざるを見ればなり」と。曹髦(そうぼう)が遇害した後、王經はすぐに駆けつけ、賈充(かじゅう)を大罵した、「逆賊、安んぞ敢えて君を弑するや」と。これらの細部はみな王經の忠貞不屈を極力際立たせており、史実の「正直なるをもって出ず」という記載と符合するが、より劇的である。小説では、王經が捕らえられた後、その母の対話は史実の記載と一致するが、結末の「王經母子、笑いを含んで刑を受く。満城の士庶、涙を垂れざるなし」という描写は、その悲壮な形象をさらに昇華させている。
主要な関係
* 曹髦(そうぼう)(advises_in):王經は尚書として、曹髦(そうぼう)が司馬昭(しばしょう)討伐を決めたとき、行動の危険性を指摘して極力諫めたが、曹髦(そうぼう)は聴かなかった。演義では、王經はさらに辇に伏して痛哭し、曹髦(そうぼう)を力をもって阻み、その忠心を示した。
* 曹魏(そうぎ)(serves):王經は生涯曹魏(そうぎ)政権に効力し、官は雍州刺史・尚書などの職に至った。彼は最終的に曹髦(そうぼう)の事件によって誅されたが、志を守るは嘉すべしとして、後世晋の武帝の認可を得た。
* 姜維(きょうい)(fights_in):王經はかつて雍州刺史として、狄道で姜維(きょうい)の北伐軍と交戦した。洮水の戦いで、王經の部は姜維(きょうい)に破られ、狄道に退いて守った。
* 王沈(おうしん)・王業(出首に従わず):曹髦(そうぼう)が司馬昭(しばしょう)討伐を決めた後、王沈(おうしん)・王業は司馬昭(しばしょう)に告密することを選んだが、王經は正直なるをもって従わず、彼らと同流合汚することを拒んだ。演義では、王經はさらに王沈(おうしん)・王業を怒鳴りつけ、「敢えて二心を懐かんや」と言った。
* 王經の母(親情・諫戒):王經の母はかつて彼に適度にとどまるよう勧め、「物の太だ過ぐるは不祥なり」と考えた。王經が捕らえられた後、その母は大義凛然として、笑って生死に臨み、王經を励まし、その忠義の形象の重要な引き立て役となった。
象徴的な場面
* 曹髦(そうぼう)に緩図を諫める:曹髦(そうぼう)は王沈(おうしん)・王經・王業を召集し、司馬昭(しばしょう)を討伐しようとすることを告げた。王經は利害を力説し、司馬昭(しばしょう)の権勢がすでに久しく、曹髦(そうぼう)の力が薄弱で、この挙はあたかも「疾を除かんとしてかえってこれを深くする」に等しいと指摘し、「宜しく重ねて詳らかに見るべし」と建議した。この場面は王經の冷静な認識と忠直な諫言を体現している。
* 王沈(おうしん)・王業の出首に従わず:王沈(おうしん)・王業が司馬昭(しばしょう)に告密することを決めたとき、王經は「正直なるをもって出ず」、曹髦(そうぼう)を裏切ることを拒んだ。演義では、彼はさらに二人を怒鳴りつけ、臣節を堅守した。
* 縛られて獄に下り、叩頭して哭す「不孝の子、慈母を累わせり」:王經は曹髦(そうぼう)の事件によって捕らえられ獄に下されたが、その母も押し連れて来られたとき、彼は叩頭して痛哭し、母を累わせたことを自責した。この一幕は、子としての彼の孝道と人倫の情を示し、臣としての忠義と対比をなして、その人間性の輝きをさらに際立たせている。
* 母子、笑いを含んで刑を受く:王經とその母は最終的に東市に押送されて刑を受けた。その母は刑に臨んで、笑って応じて言った、「人、誰か死せざらん。往に汝を止めざりし所以は、その所を得ざるを恐れたればなり。これをもって命を並ぶ、何の恨みかこれあらんや」と。王經母子は笑いを含んで刑を受け、満城の士庶を感動させた。この場面(演義独自の細部だが、史実に母子の対話あり)は王經の悲劇的英雄の形象を大いに昇華させ、その忠義の名を後世に伝えた。
* 洮水の戦いで姜維(きょうい)に大敗(演義独自):王經は雍州刺史として、洮水で姜維(きょうい)と交戦し、敵を軽んじて計にかかり、姜維(きょうい)に大敗し、わずか百騎を率いて狄道城に逃げ帰った。この戦いは演義で詳しく描かれ、姜維(きょうい)の軍事的才能を際立たせるとともに、間接的に軍事面での王經の不足をも造形している。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 王經は曹髦(そうぼう)に緩やかに図るよう諫め、王沈(おうしん)・王業に従って密告することをしなかった。縛られて獄に下されたとき、叩頭して哭き、「不孝の子が慈母にまで累を及ぼした」と自らを責めた [c:4]。
- 話し方
- 王經はかつて魯の昭公の故事を引き、みずから「主憂うれば臣は辱を受け、主辱めらるれば臣は死す」と誓った [c:18]。
- 生涯
- 王經は正元二年の洮西の敗戦の後、残兵百騎を率いて狄道に退いて守った [c:2]。甘露五年、高貴郷公の曹髦が司馬昭(しばしょう)を誅殺しようと図った一件において、王經は正直ゆえに告発せず、事後に捕らえられて獄に下され、家族とともに誅殺された [c:5]。
- 逸話
- 王經は清河の人で、かつて雍州刺史・司隷(しれい)校尉を務め、甘露年間には尚書を務めた [c:6, c:7, c:8]。許允(きょいん)とともに冀州(きしゅう)の名士と並び称された [c:8]。
人間関係
7 件の関係
名言
全 10 件の台詞 · 厳選 3 件
「不可:昔魯昭公不忍季氏,敗走失國;今重權已歸司馬氏久矣,內外公卿,不顧順逆之理,阿附奸賊,非一人也。且陛下宿衛寡弱,無用命之人。陛下若不隱忍,禍莫大焉。且宜緩圖,不可造次。」
この言葉は、王經の時局に対する冷静な認識と、曹髦(そうぼう)への忠誠に満ちた諫言を示している。
「主憂臣辱,主辱臣死,敢懷二心乎?」
「主憂うれば臣辱められ、主辱められれば臣死す」は古典的な君臣の倫理であり、王經の忠義を体現している。
「逆賊安敢弒君耶!」
この一言は、司馬昭(しばしょう)の弑君の暴挙に直面した王經の怒りの告発であり、歴史的な衝撃力にきわめて富んでいる。
登場回7 回 ▸
- 史ch.4ch.9ch.22ch.24ch.29
- 演ch.110ch.114
関係の年表3 条 ▸
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 我王経(Ō Kei)、字は彦緯(Gen’i)。今、廷尉に身柄を拘束され、母まで目の前に縛られて連れてこられた。たった一度、率直にものを言ったばかりに、ここまで巻き込むことになろうとは。かつて狄道では、兵糧がまもなく尽きようとしていたのに、救
- 私は王経(Ō Kei)、字は彦緯(Gen'i)、清河の人である。若い頃、冀州(きしゅう)の名士として知られ、後に二州の刺史、司隷校尉を歴任し、甘露年間に尚書となった。この身を振り返れば、官途を進んだことが、必ずしも福であったとは言えない。か
- 我王経(おうけい)、字は彦緯(げんい)。少年時代の基盤について語ろうにも、今日伝わる史料には詳しく記されていないため、家柄や師承、若き日の行跡について、みだりに語ることはできない。ただ、後に私が守ろうとしたものを思うばかりである。尚書として
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