言語
司馬孚(しばふ)

曹魏(そうぎ) · 中庶子

司馬孚(しばふ)

字 叔達

登場回
5
台詞の記録
6
人間関係
2
内面の独白
1

史実(Historical Record)

司馬孚(しばふ)は、字を叔達といい、曹魏(そうぎ)後期の政治の舞台で重要な役割を演じた。彼は太傅の職にあって、曹髦(そうぼう)が弑された後、大将軍の司馬昭(しばしょう)、太尉の王柔、司徒の高柔(こうじゅう)など重臣たちとともに太后に上奏し、高貴郷公曹髦(そうぼう)の埋葬の事について議論した。当初の詔令は「高貴郷公は悖逆不道にして、自ら大禍に陥り、漢の昌邑王の罪により廃せられし故事に依り、民の礼を以て葬る」を理由として、平民の礼で曹髦(そうぼう)を葬ろうとした。しかし、司馬孚(しばふ)ら大臣たちは異なる見解を示した。彼らは稽首して言った。臣下として、社稷を匡し扶け、奸逆を遏むることができず、これについて深く震悚と悲痛を覚える、と。彼らは『春秋』における「王者に外なし」の原則を引き、襄王が鄭に出居して母に事えることができなかったゆえに位を絶たれたという故事を以て、曹髦(そうぼう)が「肆に不軌を行い、ほとんど社稷を危うくし、自ら傾覆を取り、人神の絶つところ、民礼を以て葬るは、誠に旧典に当たる」ことを認めた。しかし、彼らはまた指摘した。太后の仁慈を考えれば、大義はあるとはいえ、なお憐れみ哀しむであろうから、「臣らの心は実に忍びざるものあり、以て恩を加えて王礼を以てこれを葬るべしと為す」 c:8555。最終的に、太后は彼らの進言を採用し、王礼で曹髦(そうぼう)を葬った。この記載は、司馬孚(しばふ)が政治の波風の中で、法度に従いつつ人情倫理にも配慮する一面を示しており、また当時の曹魏(そうぎ)政権内部において、司馬氏(しばし)集団が敏感な事件を処理する際の策略と配慮を反映している。史料には司馬孚(しばふ)の個人的な台詞の記録は多くないものの、その重要な時における立場と行動は、間違いなくその歴史的地位に深遠な影響を及ぼした。

演義(In the Novel)

『三国演義』において、司馬孚(しばふ)の人物像はより多くの劇的な色彩と忠義の情を与えられており、とりわけ曹魏(そうぎ)政権の交替の重要な時においてそうである。彼が初めて登場するのは曹操(そうそう)の死後である。文武百官が曹操(そうそう)の死を哭していたとき、司馬孚(しばふ)は進み出て曹丕(そうひ)に「哀しみを息め、且つ大事を議せよ」と説き、「魏王すでに薨じ、天下震動す。早く嗣王を立てて以て人心を安んずべし、何ぞただ哭泣するのみならんや」と強調した c:4808。これは彼が演義において司馬氏(しばし)一族の一員として、政治情勢に対して冷静な認識と果断な判断力を持っていたことを示している。曹髦(そうぼう)が廃黜され、司馬師(しばし)が新君を別に立てようとしたとき、司馬孚(しばふ)は再び重要な役割を果たした。司馬師(しばし)が彭城王曹拠(そうきょ)を立てることを提案したとき、太后は高貴郷公曹髦(そうぼう)が「温恭克譲にして、以てこれを立つべし」と提案した。このとき、司馬孚(しばふ)は奏して言った。「太后の言、是なり。便ち立つべし」 c:735、こうして曹髦(そうぼう)の即位を促した。これは史実における司馬孚(しばふ)の低姿勢とはいくらか異なっており、演義では彼はより積極的に政事に関与し、一定の影響力を持つ役割のように描かれている。

しかし、司馬孚(しばふ)が最もよく知られる演義の筋立ては、高貴郷公曹髦(そうぼう)が弑された後のことに他ならない。彼は内に入って曹髦(そうぼう)の遺骸を目にし、悲痛のあまり、曹髦(そうぼう)の股を枕にして哭し、「陛下を弑せしは、臣の罪なり!」という嘆きを発した c:736。この場面は司馬孚(しばふ)の曹魏(そうぎ)皇室への忠誠を大いに際立たせており、司馬氏(しばし)一族がすでに朝野に権勢を振るっていても、彼は依然として君臣の義を忘れなかった。最後に、司馬炎(しばえん)が魏に代わって晋を建てる際、曹奐(そうかん)が禅位した後、司馬孚(しばふ)は曹奐(そうかん)の前で哭拝し、断固として「臣は身は魏臣たり、終に魏に背かざるなり」と表明した c:4809。彼は司馬炎(しばえん)が封じた安平王の爵位さえも辞退した。これらの筋立ては史書には明確な記載がなく、『三国演義』が旧主に忠なる悲劇的人物を造形するために行った芸術的加工であり、読者の心における司馬孚(しばふ)の人物像を大いに高め、乱世において節義を堅守する模範とした。

重要な関係

* 曹魏(そうぎ)(serves):司馬孚(しばふ)は生涯曹魏(そうぎ)政権に仕え、いくつかの重要な時期において重要な役割を演じた。史実における曹髦(そうぼう)の埋葬の事への関与 c:8555 であれ、演義における曹丕(そうひ)の擁立 c:4808、曹髦(そうぼう)の擁立 c:735 であれ、いずれも彼が魏臣としての身分であったことを体現している。とりわけ演義において、魏国の滅亡に直面した際の哭拝と受封の拒否は、その忠誠を極致に推し進めた c:4809(演義独自)。
* 司馬師(しばし)(kin_of):司馬懿(しばい)の弟として、司馬孚(しばふ)は司馬師(しばし)の宗叔である。演義では、司馬師(しばし)が皇帝を廃立する際、司馬孚(しばふ)は太后が提案した曹髦(そうぼう)を支持する発言をしており c:735、彼の司馬氏(しばし)一族内部における地位と一定の発言権を示している。史実では司馬孚(しばふ)と司馬師(しばし)の相互作用の記録は少ないものの、一族の政治において、この親縁関係は間違いなくその政治的生涯の重要な背景である。
* 曹髦(そうぼう)(serves):司馬孚(しばふ)は曹髦(そうぼう)の在位期間に太傅を務めた。史実では、曹髦(そうぼう)が弑された後、王礼で曹髦(そうぼう)を葬ることを力説しており c:8555、旧主への尊重を体現している。一方、演義では、曹髦(そうぼう)への忠誠がより深く描かれており、とりわけ曹髦(そうぼう)が弑された後、遺骸を枕にして痛哭し、「陛下を弑せしは、臣の罪なり!」と自責した c:736。この場面はその忠義の人物像の象徴的な場面となっている(演義独自)。

象徴的な場面

* 曹髦弑殺後に遺骸を枕に痛哭:これは司馬孚(しばふ)が『三国演義』において最も感染力があり、その忠義の節義を最もよく体現する場面である。高貴郷公曹髦(そうぼう)が殺された後、司馬孚(しばふ)は内に入って遺骸を目にし、悲痛のあまり、曹髦(そうぼう)の股を枕にして哭し、「陛下を弑せしは、臣の罪なり!」と自責した c:736。この場面は司馬孚(しばふ)の旧主への深い情を示すだけでなく、司馬氏(しばし)一族が大権を掌握した背景のもと、彼が魏臣としての無奈と悲憤を暗示している。この場面は史書には詳細な記載がなく、演義による人物の性格の極致の造形である(演義独自)。
* 王礼での曹髦埋葬を力説:史実では、曹髦(そうぼう)が弑された後、朝廷は当初民礼での埋葬を決定した。しかし、司馬孚(しばふ)は司馬昭(しばしょう)ら大臣とともに上奏し、曹髦(そうぼう)には罪があるとはいえ、太后の仁慈を考慮し、また人情倫理から出発して、「恩を加えて王礼を以てこれを葬るべしと為す」と指摘した c:8555。この行動は皇室の体面を維持すると同時に、司馬孚(しばふ)が敏感な政治的事件を処理する際の慎重さと人道的配慮を体現しており、演義における曹髦(そうぼう)への深い情の表現とも呼応しているが、より政治的策略と礼儀に重きを置いている。
* 魏晋禪代の際に曹奐に哭拝:『三国演義』の結末において、司馬炎(しばえん)が魏に代わって晋を建て、曹奐(そうかん)が禅位したとき、司馬孚(しばふ)は曹奐(そうかん)の前で哭拝し、明確に「臣は身は魏臣たり、終に魏に背かざるなり」と表明し c:4809、司馬炎(しばえん)が封じた安平王の爵位を辞退した。この場面は司馬孚(しばふ)の忠誠を頂点に推し進め、彼を魏国滅亡の際に、ただ一人公然と旧主への忠誠を表明した司馬氏(しばし)一族の成員とし、演義におけるその悲劇的英雄の人物像を大いに昇華させた(演義独自)。

肖像アーカイブ

人物像

性格
司馬孚(しばふ)は高貴郷公曹髦(そうぼう)が弑された際、悲痛のあまり、曹髦(そうぼう)の亡骸を枕として哭き、「陛下を弑した者は臣の罪なり」と自らを責め、魏室への忠誠と悲憫の情を示した。彼はかつて群官に早く嗣王を立てて民心を安んじるよう勧め、曹奐(そうかん)が禅位する際には哭して拝し、「終に魏に背かず」と自称し、たとえ安平王に封じられても受けようとせず、その魏国への忠貞不渝を示した。
生涯
司馬孚(しばふ)は嘉平三年に司空より太尉に遷った。高貴郷公が弑された際、彼は悲しみに堪えず、皇帝の亡骸を枕として哭いた。
逸話
司馬孚(しばふ)は司馬懿(しばい)の弟であり、三朝を歴任した重臣で、かつて中庶子・尚書令・太尉・魏の太傅などの職を務めた。彼は高平陵の変(こうへいりょうのへん)に加わり、また中軍を督して東のかた新城の囲みを解いた。曹髦(そうぼう)が弑された後、彼は王礼をもって曹髦(そうぼう)を葬ることを請うた。

人間関係

2 件の関係

名言

全 6 件の台詞 · 厳選 3 件

「臣身為魏臣,終不背魏也。」

演 第119回→ 曹奐(そうかん)

この台詞は司馬孚(しばふ)の魏への忠誠を表しており、司馬一族の簒奪と鮮明な対比をなしている。

「弒陛下者,臣之罪也!」

演 第114回

この台詞は曹髦(そうぼう)の死に対する司馬孚の表明であり、政治闘争における複雑な立場を表している。

「伏見中令,故高貴鄉公悖逆不道,自陷大禍,依漢昌邑王罪廢故事,以民禮葬。臣等備位,不能匡救禍亂,式遏姦逆,奉令震悚,肝心悼慄。春秋之義,王者無外,而書『襄王出居于鄭』,不能事母,故絕之於位也。今高貴鄉公肆行不軌,幾危社稷,自取傾覆,人神所絕,葬以民禮,誠當舊典。然臣等伏惟殿下仁慈過隆,雖存大義,猶垂哀矜,臣等之心實有不忍,以為可加恩以王禮葬之。」

史 第4回

この上奏文は曹髦が殺害された後、司馬孚が曹魏(そうぎ)の皇室に捧げた最後の敬意と擁護を表している。

登場回5 回 ▸
  • 史ch.4
  • 演ch.78ch.109ch.114ch.119
関係の年表2 条 ▸

演 ch.109

演 ch.114

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は司馬孚(しばふ)、字は叔達(しゅくたつ)。魏と晋が移り変わる時代に身を置き、つねに臣下としての節義を守ろうとしてきた。国に大きな事変が起こり、人々の心が揺れ動くたび、私はこう考えた。涙を流すのは人情である。だが、臣下がまず憂うべきなのは
生涯の大事3 ▸