
史載(Historical Record)
賈充(かじゅう)は、字を公閭といい、故建威将軍の賈逵(かき)の子である。魏末晋初の政治の舞台において、賈充(かじゅう)は軽重を左右する役割を演じた。彼はかつて中護軍を務め、咸熙年間にこの職に位した c:3645。『晋諸公賛』の記載によれば、賈充(かじゅう)は甘露年間にかつて大将軍長史を務め、高貴郷公曹髦(そうぼう)の難において、その果断な行為により、司馬文王(司馬昭(しばしょう))を困境から免れさせ、晋室の元勲の臣と見なされた c:3645。
曹髦(そうぼう)が在位していた間、司馬昭(しばしょう)の権勢が日ごとに盛んになるのを深く感じ、心に不満を生じた。彼はかつて侍中の王沈(おうしん)、尚書の王經、散騎常侍の王業を召集し、「司馬昭(しばしょう)の心は、路人の知るところなり」と直言し、坐して死を待つことを欲せず、自ら衆を率いて司馬昭(しばしょう)を討とうとすると表した。王經が力めて諫め、司馬氏(しばし)の権勢はすでに久しく、朝野みなそのために効力し、かつ宿衛は空虚で、兵力は寡弱であり、軽々しく動くべきではないと指摘したが、曹髦(そうぼう)の心意はすでに決し、懐中の詔令を地に投じて、「これを行うこと決せり。たとい死すとも、何の懼るるところあらん。いわんや必ずしも死なざるをや」と言いさえした c:3644。
続いて、曹髦(そうぼう)は数百の僮僕を率い、鼓噪して出た。中護軍の賈充(かじゅう)は南闕の下で曹髦(そうぼう)に遭遇し、これと交戦した。曹髦(そうぼう)が剣を揮って奮戦し、将士に退く者があったとき、太子舍人の成済(せいさい)が賈充(かじゅう)に「事急なり。当に何と云うべきか」と問うた。賈充(かじゅう)は厲声で「汝らを畜養するは、まさにこの日のためを謂う。今日の事、問うところなし」と応じた。成済(せいさい)はすぐに進み出て曹髦(そうぼう)を刺し、刀刃は背から透き出て、曹髦(そうぼう)はその場で身亡した c:3644。事後、司馬昭(しばしょう)はそれを聞くと、佯って大いに驚き、自ら地に投じて、「天下それ我を何とか謂わん」と哭した。太傅の司馬孚(しばふ)は屍を抱いて痛哭し、「陛下を殺せしは、臣の罪なり」と哀嘆した c:3644。
皇太后が事後に発布した詔令において、曹髦(そうぼう)を「情性暴戻、日月にますます甚だし」と描き、かつて「弩を挙げて遥かに吾が宮を射た」とし、また「密かに酖毒を行って」彼女に加害しようとしたとした。詔令にはさらに、曹髦(そうぼう)が「兵を挙げて西宮に入り吾を殺し、出でて大将軍を取ろう」とし、最終的に賈充(かじゅう)の軍と交戦する中で「前鋒の害するところとなった」と触れている。太后は最終的に、曹髦(そうぼう)を民礼をもって安葬し、尚書の王經およびその家属を収捕して廷尉に送るよう命じた c:3644。賈充(かじゅう)はこの事件により、司馬氏(しばし)政権においてますます地位が固まり、官は太宰に至り、魯公に封じられ、諡を武公とされた c:3645。
演中(In the Novel)
『三国演義』における賈充(かじゅう)は、その人物像が史実を基にさらに文学的な渲染と強化を得ており、とりわけ司馬昭(しばしょう)の魏簒奪・権奪の過程における積極的な参与と謀画において顕著である c:3646。演義は冒頭から賈充(かじゅう)を司馬昭(しばしょう)の心腹として描き、その府下の長史を務め、進んで司馬昭(しばしょう)のために謀を出し策を画し、四方の人心を探り、簒位の道を敷くものとしている c:3646。
諸葛誕(しょかつたん)の反叛の事件において、賈充(かじゅう)は重要な煽動者の役割を演じた。彼は司馬昭(しばしょう)の命を奉じ、軍士を慰労するという名目で淮南へ赴き諸葛誕(しょかつたん)を試した。賈充(かじゅう)は諸葛誕(しょかつたん)に司馬昭(しばしょう)が魏統を禅代する意図を直言不諱に提示し、諸葛誕(しょかつたん)に厳しく拒絶されたものの、賈充(かじゅう)は洛陽(らくよう)に帰ると、司馬昭(しばしょう)に諸葛誕(しょかつたん)が「久しければ必ず患となろう、速やかにこれを除くべし」と進言し、直接に司馬昭(しばしょう)の諸葛誕(しょかつたん)討伐の軍事行動を促した c:3646。司馬昭(しばしょう)の出征の間、洛陽(らくよう)に虞なきを確保するため、賈充(かじゅう)は司馬昭(しばしょう)に太后と天子をともに出征させ、「虞なきを保つ」ことさえ建議した c:14541。
曹髦(そうぼう)の死について、演義の描写は史実とおおむね符合するが、賈充(かじゅう)の冷酷さと司馬昭(しばしょう)への忠誠をより強調している。曹髦(そうぼう)が衆を率いて宮門を衝き出て、禁兵がその天子の身分のために進み出ることを敢えてしなかったとき、賈充(かじゅう)は厲声で成済(せいさい)を喝問し、「司馬公が汝を養うは何のためぞ。まさに今日の事のためなり」と言い、成済(せいさい)に「ただ死せるを要するのみ」と明確に指示し、直接に曹髦(そうぼう)の被殺を促した c:14544。この筋立ては演義においてはより劇的に描かれ、賈充(かじゅう)の狠辣さを際立たせている。
蜀を伐つ問題において、演義では賈充(かじゅう)は当初は慎重な態度をとり、司馬昭(しばしょう)に「天子はまさに主公を疑っている、もし一旦軽々しく出れば、内難が必ず作こらん」と進言し、曹髦(そうぼう)が作った『潜龍詩』を引いて曹髦(そうぼう)の司馬昭(しばしょう)への不満を暗示し、これによって司馬昭(しばしょう)の蜀伐ちを諫め止めた c:3648。しかし、司馬昭(しばしょう)が蜀を伐つことを決めたのち、賈充(かじゅう)はまた積極的に謀画に参与し、司馬昭(しばしょう)が王を称し、司馬炎(しばえん)が魏に代わる過程において、重要な推し手の役割を演じた。彼は裴秀(はいしゅう)らとともに司馬炎(しばえん)に曹丕(そうひ)の受禅の故事に倣い、受禪臺を築くよう勧め、最終的に司馬炎(しばえん)の魏簒奪・晋建国を成し遂げさせた c:14552。
晋朝が建てられたのち、賈充(かじゅう)は引き続き司馬炎(しばえん)に効力した。晋の呉滅ぼしの戦略討論において、賈充(かじゅう)は当初は呉伐ちに保留の態度をとり、「わが兵は久しく外に労し、水土に服さず、必ず疾病を生じよう、宜しく軍を召し還し、再び後図を作すべし」と考えた c:14555。しかし、呉主の孫皓(そん こう)が投降したのち、賈充(かじゅう)はまた朝堂で孫皓(そん こう)が南方で施した酷刑を問い質し、孫皓(そん こう)は「人臣にして君を弒し、奸佞不忠の者には、すなわちこの刑を加えるのみ」と応じ、賈充(かじゅう)を「黙然として甚だ愧じ」させた。この細部は史実には明記がなく、演義による人物の性格のさらなる刻画である c:14557。
主要な関係
* 曹髦(そうぼう)(enemy_of):賈充(かじゅう)は直接に曹髦(そうぼう)の被殺を導いた重要な人物である。曹髦(そうぼう)が司馬昭(しばしょう)に反抗しようとしたとき、賈充(かじゅう)は軍を率いて阻み、成済(せいさい)に命じて曹髦(そうぼう)を刺殺させた c:3644。
* 賈逵(かき)(kin_of):賈充(かじゅう)は故建威将軍の賈逵(かき)の子である c:3645。
* 司馬昭(しばしょう)(serves):賈充(かじゅう)は司馬昭(しばしょう)の心腹にして重要な謀士であり、司馬昭(しばしょう)の簒位の大業のために謀を出し策を画し、その指令を執行し、とりわけ曹髦(そうぼう)の死と諸葛誕(しょかつたん)の叛乱の事件において重要な作用を発揮した c:3646。
* 司馬氏(しばし)(member_of):賈充(かじゅう)は司馬氏(しばし)政権の重要な成員であり、『晋諸公賛』に「晋室元功の臣」と称され、官は太宰に至り、魯公に封じられた c:3645。
* 成済(せいさい)(subordinate):成済(せいさい)は賈充(かじゅう)の部下であり、直接に賈充(かじゅう)の命に従い、曹髦(そうぼう)を刺殺した c:3644。
* 諸葛誕(しょかつたん)(enemy_of、演義独自):演義においては、賈充(かじゅう)は司馬昭(しばしょう)の命を奉じて諸葛誕(しょかつたん)を試し、司馬昭(しばしょう)に諸葛誕(しょかつたん)に反心ありと告発し、間接的に諸葛誕(しょかつたん)の起兵反叛を促した c:3646。
* 司馬炎(しばえん)(serves):司馬炎(しばえん)が魏に代わって晋を建てる過程において、賈充(かじゅう)は重要な推し手であり、積極的に司馬炎(しばえん)に曹丕(そうひ)に倣い、禅譲を受けるよう説いた c:14552。
象徴的な場面
* 南闕の弒君:これは賈充(かじゅう)の生涯における最も争議と影響力のある出来事である。高貴郷公曹髦(そうぼう)が司馬昭(しばしょう)を討とうとしたとき、賈充(かじゅう)は軍を率いて南闕の下で阻截し、重要な時に部将の成済(せいさい)に命じて曹髦(そうぼう)を刺殺させ、直接に曹髦(そうぼう)の死を導いた c:3644。この場面は史料と演義にいずれも詳しく記載されており、賈充(かじゅう)の冷酷無情、司馬昭(しばしょう)への忠心耿耿の集中した体現である。
* 蜀伐ちを緩めるよう勧めることと『潜龍詩』(演義独自):演義においては、賈充(かじゅう)はかつて司馬昭(しばしょう)の蜀伐ちを諫め止め、曹髦(そうぼう)が作った『潜龍詩』を引いて天子の司馬昭(しばしょう)への不満を暗示し、その政治謀略における深思熟慮を表した c:3648。
* 司馬炎の魏代わりを促す:賈充(かじゅう)は司馬炎(しばえん)が魏に代わって晋を建てる過程において重要な役割を演じた。彼は裴秀(はいしゅう)らとともに司馬炎(しばえん)に曹丕(そうひ)の受禅の故事に倣うよう説き、自ら受禪臺の築造を担い、最終的に曹奐(そうかん)の司馬炎(しばえん)への禅位を成し遂げさせ、晋朝を建てた c:14552。
* 孫皓を問い質す(演義独自):演義においては、晋が呉を滅ぼしたのち、賈充(かじゅう)は朝堂で呉主の孫皓(そん こう)が南方で施した酷刑を問い質したが、孫皓(そん こう)に「人臣にして君を弒し、奸佞不忠の者には、すなわちこの刑を加えるのみ」と反駁され、賈充(かじゅう)を「黙然として甚だ愧じ」させた c:14557。この場面は史に明記はないが、賈充(かじゅう)が昔日の敵手に直面したときの複雑な心境を生き生きと刻画し、また晋朝建国後のその地位と影響力を側面から反映している。
肖像アーカイブ
人物像
- 性格
- 賈充(かじゅう)は蜀を伐つのを緩めるよう進言し、《潜龍》の詩を引いて曹髦を讒言し、みずから禁兵を率いて戎服で馬に乗り、成済(せいさい)に君主を弑せよと下知した。彼は司馬昭(しばしょう)の腹心の臣であり、また晋公の謀臣でもあった。
- 話し方
- 賈充は言葉をもって諸葛誕(しょかつたん)を挑発し、「洛陽(らくよう)の諸賢はみな主上を懦弱とみなしている」「魏の統を禅代することもできよう」と唆した。かつて「司馬公の命である。ただ死せる者を欲するのみ」と短く命じ、成済を「司馬公が汝を養うのは何のためだ」と励ました。
- 生涯
- 賈充は字を公閭といい、故建威将軍・賈逵(かき)の子で、かつて司馬昭の府下の長史を務めた。咸熙年間には中護軍となった。
- 逸話
- 賈充は諸葛誕の謀反の心を探り当て、司馬昭に速やかにこれを除くよう勧め、後には太后・天子に御駕親征を奏請するよう進言した。かつて刺客を遣わして姜維(きょうい)を刺殺するよう建議し、また鍾会(しょうかい)を封じて鄧艾(とうがい)を牽制するよう建議した。賈充は先んじて成都(せいと)に入って榜を掲げ民を安んじ、後には司馬昭に嫡子を立てるよう勧め、受禪臺の造営を監督して曹奐(そうかん)に禅位を迫った。当初は羊祜(ようこ)を推薦したが、後に呉を伐つことに反対し、事後には孫皓(そん こう)を責めて降格させた。
人間関係
7 件の関係
名言
全 21 件の台詞 · 厳選 3 件
「司馬公養你何用?正為今日之事也。」
この一句は賈充の残忍さと司馬氏への忠誠を示し、その人物像の典型的な描写である。
「天數盡矣,陛下不可逆天,當照漢獻帝故事,重修受禪臺,具大禮,禪位與晉王。上合天心,下順民情,陛下可保無虞矣。」
この一句は魏晉禪代の鍵となる台詞であり、司馬氏の魏簒奪を推し進めた賈充の勧進の言葉として重要な歴史的意義を持つ。
「自漢建安二十五年,魏受漢禪,已經四十五年矣。今天祿永終,天命在晉,司馬氏功德彌隆,極天際地,可即皇帝正位,以紹魏統。封汝為陳留王,出就金墉城居止。當時起程,非宣詔不許入京。」
この一句は魏の滅亡と晋朝の成立を直接宣告するもので、三国が晋へ帰一する歴史過程における象徴的瞬間である。
登場回8 回 ▸
- 史ch.4ch.15
- 演ch.111ch.114ch.115ch.118ch.119ch.120
関係の年表7 条 ▸
史 ch.4
- 曹髦(そうぼう)§65
enemy_of
逆战于南阙下;命成济前刺
史 ch.15
- 賈逵(かき)§68
kin_of
父子
演 ch.111
serves
心腹长史;东行探消息;劝奏太后天子亲征
演 ch.114
advises_in
中护军,劝缓伐蜀;引《潜龙》诗谗髦
演 ch.115
- 司馬昭(しばしょう)§13
advises_in
建议遣刺客刺杀姜维
演 ch.118
- 司馬昭(しばしょう)§32
advises_in
议封钟会以制邓艾;引三万兵入斜谷
演 ch.120
advises_in
出班奏请遣羊祜拒陆抗
内面の独白 · AI 生成3 段 ▸
- 私は賈充(かじゅう)、字は公閭(こうりょ)という。咸熙年間、私は中護軍を務めた。この身の功業を論じるなら、後世、私は晋室の創業を支えた功臣として記され、太宰に至り、魯公に封ぜられ、武公と諡された。しかし名位が重くなった今、魏から晋へと王朝が
- 私の名は賈充(かじゅう)、字は詳らかでない。今、宮門の変を思い返すと、耳には今なお喧騒の音が響いているようだ。高貴郷公(こうききょうこう)は剣を手にして宮門を出て、側近や禁衛兵と交戦した。私は兵を率いて南闕の下で迎え撃ったが、皆はいったん退
- 私は賈充(かじゅう)、字は公閭(こうりょ)という。父の賈逵(かき)はかつて魏の将軍を務め、わが家は魏から恩禄を受けていた。若い頃、私が自らを保つ拠り所としていたのは、この恩義を忘れず、また世のありさまは一人の忠誠だけで常に決まるものではない
生涯の大事5 ▸
- 0260-01-01 · 洛陽(らくよう)曹髦の車駕出撃(そうぼうのしゃがしゅつげき)· 首謀者
- 0260-01-01 · 洛陽(らくよう)甘露の変(かんろのへん)· 首謀者
- 0266-01-01 · 洛陽(らくよう)魏晉禪代· 軍師
- 0278-01-01 · 襄陽(じょうよう)羊祜の襄陽鎮守(ようこのじょうようちんじゅ)· 軍師
- 0280-01-01 · 建業(けんぎょう)晋の六路による呉征伐(しんのろくろによるごせいばつ)· 総大将