言語
王粲(おうさん)

劉表集団(りゅうひょうしゅうだん) · 軍師

王粲(おうさん)

字 仲宣

登場回
6
台詞の記録
4
人間関係
9
内面の独白
1

史書の記載(Historical Record)

王粲(おうさん)は、字を仲宣といい、山陽高平の人である。その人は博学多識で、強記黙識、算術に長け、かつ文才豊かで、筆を下せば文章を成した。漢の献帝が西のかた長安(ちょうあん)へ遷ったとき、王粲(おうさん)もまたこれに従って移った。当時、左中郎将の蔡邕(さいよう)はその才学が顕赫で、朝廷内外みなこれを重んじ、賓客が門に満ちていた。王粲(おうさん)が至ったと聞くと、蔡邕(さいよう)は履を逆にして迎えに出たほどで、その王粲(おうさん)への器重ぶりがうかがえる。座中の賓客は王粲(おうさん)が年少で体が弱く、容貌が短小なのを見て、皆驚いた。蔡邕(さいよう)は言った、「これ王公の孫なり、異才あり、吾は及ばず。吾が家の書籍文章、ことごとくまさにこれに与うべし」と。王粲(おうさん)は十七歳のとき、司徒に徴され、詔して黄門侍郎に除せられたが、西京の動乱のため、就任しなかった。後に乱を避けて、王粲(おうさん)は荊州(けいしゅう)へ赴き劉表(りゅう ひょう)に身を寄せた。劉表(りゅう ひょう)は王粲(おうさん)の容貌が良くなく、体が弱く性情が簡易通侻であったため、彼を重用しなかった。劉表(りゅう ひょう)が亡くなった後、王粲(おうさん)はその子の劉琮(りゅうそう)に曹操(そうそう)へ帰順するよう勧めた。彼は劉琮(りゅうそう)に天下の大勢を分析し、曹操(そうそう)の雄略は時に冠たり、智謀は世に出づと指摘し、甲を巻き戈を倒し、天に応じ命に順って、宗族を保全するよう勧めた。劉琮(りゅうそう)は最終的にその言を採った。曹操(そうそう)は王粲(おうさん)を丞相掾に徴し、関内侯の爵を賜った。あるとき漢浜の宴会で、王粲(おうさん)は曹操(そうそう)に進言し、豪傑を収攬し、文武を並び用いるのは三王の挙であると称えた。後に王粲(おうさん)は軍謀祭酒に遷った。魏国が建てられた後、彼は侍中に拝された。王粲(おうさん)は博物多識で、対答は流れるごとく、当時旧儀が廃弛していたが、制度を興造することの多くは彼が典定し、漢末に絶えていた玉珮さえも、王粲(おうさん)が旧識に基づいて再び制作したものであった。

王粲(おうさん)は曹丕(そうひ)・曹植(そうしょく)らと皆文学を好み、北海郡(ほっかいぐん)の徐幹(じょかん)、広陵(こうりょう)の陳琳(ちんりん)、陳留(ちんりゅう)の阮瑀(げんう)、汝南の応瑒、東平の劉楨(りゅうてい)とともに「建安七子」と並称され、互いに親しく交わった。彼は杜襲(としゅう)・和洽(わこう)らと同じく侍中であり、博聞強識でしばしば曹操(そうそう)の驂乗となったが、曹操(そうそう)の彼への敬重は和洽(わこう)・杜襲(としゅう)には及ばなかった。あるとき杜襲(としゅう)が夜半に独り曹操(そうそう)に見えると、王粲(おうさん)は性情が急で、坐立も落ち着かず、和洽(わこう)に杜襲(としゅう)が曹操(そうそう)と何を論じているのか尋ねた。和洽(わこう)は笑って、天下の事にどうして尽きるところがあろうかと言い、昼に侍奉すればよく、過度に憂慮する必要はないと勧めた。

演義の記載(In the Novel)

『三国演義』の王粲(おうさん)は、その形象が史書と多く合致し、その上で文学的な渲染と誇張が加えられている。彼は第四十回に初登場し、劉表(りゅう ひょう)が病重の際、傅巽(ふそん)・蒯越(かいえつ)とともに劉琮(りゅうそう)に曹操(そうそう)へ降るよう勧めた。演義では王粲(おうさん)の博聞強記と過人の才華が強調されており、例えば彼が幼少時に蔡邕(さいよう)を訪ねたとき、蔡邕(さいよう)が履を逆にして迎え、「異才あり、吾は及ばず」と称えたことがある。書中ではまた、彼が碑文を一目で忘れず、人の対局を観て、棋局が散乱した後に元通りに復原でき、算術に長けるなどの異禀が記され、これらはみなその「博聞強記」の特徴をさらに際立たせている。劉琮(りゅうそう)に曹操(そうそう)へ降るよう勧める際、王粲(おうさん)の言辞は史書とおおむね一致し、彼は曹操(そうそう)が呂布(りょふ)を擒え、袁紹(えんしょう)を摧き、劉備(りゅうび)を逐い、烏桓を破った戦績を列挙して、曹操(そうそう)の強大な実力を強調し、帰降が万全の策であると指摘した。

曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)を占拠した後、王粲(おうさん)は他の降を勧めた者とともに関内侯に封じられた。第五十六回では、王粲(おうさん)は王朗(おうろう)・鍾繇(しょうよう)・陳琳(ちんりん)ら文官とともに詩章を進献し、曹操(そうそう)の功徳を称え、その受命称王を願った。曹操(そうそう)はこれに謙遜して応じ、自分は漢室のために賊を討ち功を立てることに志があり、称帝の心はないと述べたが、また自分が兵権を卸せば不測の事に遭うことを恐れるとして、「虚名を慕いて実禍に処るを得ざるなり」と言った。第六十六回では、王粲(おうさん)は杜襲(としゅう)・衛凱・和洽(わこう)の四人と曹操(そうそう)を魏王に尊ぶことを議したが、中書令の荀攸(じゅん ゆう)の反対に遭い、荀攸(じゅん ゆう)はこのため憂憤して卒した。曹操(そうそう)は荀攸(じゅん ゆう)を厚く葬ったものの、最終的に尊王の事を罷めた。演義の王粲(おうさん)の造形は、より多く彼を曹魏(そうぎ)の文臣集団の中に置き、その文学的才能と政治的参与、とりわけ劉琮(りゅうそう)に降を勧め曹操(そうそう)を魏王に尊ぶなどの肝心な事件での役割を際立たせている。

主要な関係

* 蔡邕(さいよう)(mentor_of):蔡邕(さいよう)は王粲(おうさん)の恩師であり伯楽である。史書では蔡邕(さいよう)は王粲(おうさん)が至ったと聞いて履を逆にして迎え、その才華が自分に勝ると称え、家伝の書籍文章をことごとく授けようとした。演義でも蔡邕(さいよう)の王粲(おうさん)への器重が描かれ、王粲(おうさん)の少年英才ぶりがさらに強調されている。
* 劉表集団(りゅうひょうしゅうだん)(serves):王粲(おうさん)はかつて乱を避けて劉表(りゅう ひょう)に身を寄せた。しかし、劉表(りゅう ひょう)は王粲(おうさん)の容貌が良くなく、体が弱く通侻であったため重用しなかった。
* 劉琮(りゅうそう)(advises_in):劉表(りゅう ひょう)が亡くなった後、王粲(おうさん)は積極的に劉琮(りゅうそう)に曹操(そうそう)へ帰順するよう勧め、利害を分析し、最終的に劉琮(りゅうそう)の投降を促した。これは王粲(おうさん)の政治生涯における重要な挙動であり、史書と演義の双方で詳しく描かれている,。
* 曹魏(そうぎ)(serves):王粲(おうさん)は曹操(そうそう)に帰順した後、丞相掾に徴され、関内侯の爵を賜り、後に軍謀祭酒に遷り、魏国が建てられると侍中に拝された。彼は曹操(そうそう)の政治・文化建設に多大な貢献をし、とりわけ旧儀の典定、制度の興造の面で重要な役割を果たした。
* 曹丕(そうひ)・曹植(そうしょく)ら(friend_of):王粲(おうさん)は曹丕(そうひ)・曹植(そうしょく)ら文学愛好者と親しく交わり、徐幹(じょかん)・陳琳(ちんりん)らとともに「建安七子」と並称され、ともに建安文学の繁栄を切り開いた。
* 杜襲(としゅう)・和洽(わこう)(colleague_of):王粲(おうさん)は杜襲(としゅう)・和洽(わこう)と同じく侍中であり、ともに曹操(そうそう)を輔佐した。史書では王粲(おうさん)が杜襲(としゅう)が夜半に独り曹操(そうそう)に見えたことで急な性を見せたと記され、その性格的特徴を側面から反映している。

象徴的な場面

* 蔡邕(さいよう)が履を逆にして迎える:王粲(おうさん)が幼少時に蔡邕(さいよう)を訪ねると、蔡邕(さいよう)はその名を聞いて、礼節も顧みず履を逆にして迎え、その才華を盛んに称え、家蔵をことごとく授けようとした。この場面は王粲(おうさん)の早慧と過人の天賦を際立たせるだけでなく、蔡邕(さいよう)の才を愛し惜しむ胸襟を示し、王粲(おうさん)の人生における極めて象徴的な一幕となった,。
* 劉琮(りゅうそう)に曹操(そうそう)への降を勧める:劉表(りゅう ひょう)が亡くなった後、王粲(おうさん)は劉琮(りゅうそう)に天下の大勢を分析し、曹操(そうそう)へ帰順するよう力説し、曹操(そうそう)の強大な実力と帰降の万全の策を指摘した。この挙動は荊州(けいしゅう)の局勢に深遠な影響を与え、曹魏(そうぎ)陣営における王粲(おうさん)の地位を定めた,。
* 曹操(そうそう)の漢浜の置酒、王粲(おうさん)の進言:曹操(そうそう)が冀州(きしゅう)・江漢を平定した後、漢浜に宴を設けた。王粲(おうさん)は宴会で曹操(そうそう)に進言し、豪傑を収攬し文武を並び用いるのは三王の挙であると称え、その卓越した政治的先見と弁才を示した。
* 旧儀を典定し玉珮を復作:漢末の喪乱で旧儀が廃弛し、玉珮が絶えた。王粲(おうさん)はその博学多識をもって、玉珮を再び識辨し制作し、魏国の制度建設に貢献した。これは王粲(おうさん)の文化・礼制の面での深い造詣を体現している。
* 諸文臣とともに曹操(そうそう)の功徳を称える(演義独自):『三国演義』において、王粲(おうさん)は王朗(おうろう)・鍾繇(しょうよう)ら文官とともに詩章を進献し、曹操(そうそう)の功徳の巍々たるを称え、その受命称王を願った。この場面は曹操(そうそう)が最終的に称王しなかったものの、曹魏(そうぎ)文臣としての王粲(おうさん)の身分とその政治上の傾向を示している。

肖像アーカイブ

人物像

容貌
王粲(おうさん)は容貌が実(名声)に見合わず体も弱く、幼い頃は背が低かった。彼は容貌が痩せて弱々しく、背が低かった。
性格
王粲(おうさん)は性格がおおらかで飾らず、記憶力が強く、暗算に長け、文思は敏捷で、筆を下せばそのまま文章となった。彼は博く聞き強く記憶し、一目見れば諳んじることができ、文辞は当時に妙絶したが、性情は短気で勝ち気であった。
話し方
王粲(おうさん)は学識が広く深く、いかなる問いにも自在に応答した。彼の論弁は雄健で力強く、しかも拠りどころがあった。
生涯
王粲(おうさん)は山陽高平の人で、曾祖父と祖父はいずれも漢朝の三公であり、父はかつて何進(かしん)の長史を務めた。彼はかつて献帝に従って西の長安(ちょうあん)へ遷り、後に荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)に身を寄せた。王粲は劉琮(りゅうそう)に曹操(そうそう)へ帰順するよう説き、後に曹操によって丞相掾に任じられ、関内侯の爵を賜り、軍謀祭酒に遷り、魏国が建てられた後に侍中に拝せられた。建安二十二年の春、王粲は呉を征する途上で病没し、時に年四十一であった。その二子は魏諷謀反案に連座して誅され、王粲の後嗣は絶えた。
逸話
王粲(おうさん)は建安七子の筆頭であり、蔡邕(さいよう)から異才ありと称賛された。彼はかつて魏の侍中を務め、和洽(わこう)・杜襲(としゅう)とともに登用され、また曹操(そうそう)を魏王に尊ぶ議に参与したことがある。

人間関係

9 件の関係

名言

全 4 件の台詞 · 厳選 2 件

「將軍自料比曹公何如?」

演 第40回→ 劉琮(りゅうそう)

この一言は、王粲(おうさん)が劉琮(りゅうそう)に降伏を勧める要となる箇所であり、時勢を見きわめる政治的な眼識を体現している。

「曹公兵強將勇,足智多謀。擒呂布於下邳,摧袁紹於官渡,逐劉備於隴右,破烏桓於白狼:梟除蕩定者,不可勝計。今以大軍南下荊襄,勢難抵敵。傅、蒯二君之謀,乃長策也。將軍不可遲疑,致生後悔。」

演 第40回→ 劉琮(りゅうそう)

この一節は曹操(そうそう)の実力を詳細に分析しており、王粲(おうさん)の卓越した戦略的判断力を示している。

登場回6 回 ▸
  • 史ch.21ch.23
  • 演ch.40ch.41ch.56ch.66
関係の年表8 条 ▸

史 ch.21

演 ch.40

演 ch.66

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は王粲(おうさん)、字は仲宣である。昔、献帝(けんてい)が西へ遷り、長安(ちょうあん)に騒乱が多かった折、私はそのあとを追って移り住んだ。当時、私はまだ若く、蔡邕(さいよう)は私が門前にいると聞くと、履物を逆さに履いて迎えに出た。座にいた
生涯の大事5 ▸