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張温(ちょうおん)

孫権集団(そんけんしゅうだん) · 軍師

張温(ちょうおん)

字 伯慎

登場回
8
台詞の記録
25
人間関係
7
内面の独白
1

史書の記載(Historical Record)

張温(ちょうおん)は、字を伯慎といい、三国(さんごく)時代の孫呉(そんご)の重要な人物である。彼はその学識と弁才によって呉の朝廷に一定の地位を占めていた。『三国志(さんごくし)』の記載によれば、張温はかつて孫呉の使者として蜀漢(しょくかん)に出使した。蜀漢で、彼は益州(えきしゅう)の学士秦宓(しんふく)(史書では「宓」と記す)と一場の著名な論弁を交えた。当時、百官が張温のために餞別の宴を催したが、秦宓はなかなか現れなかった。諸葛亮(しょかつりょう)が幾度も人を遣わして促すと、張温は秦宓がどのような人物かと好奇心を抱き、諸葛亮は彼を「益州の学士」と称した。秦宓が到着すると、張温は彼に問いかけ、まず秦宓が学を好むかどうかを尋ねた。秦宓は「五尺の童子も皆学ぶ、何ぞ必ずしも小人ぞ」と答えた。続いて張温は「天に頭ありや」「天に耳ありや」「天に足ありや」、さらに「天に姓ありや」といった一連の問いを次々と投げかけた。秦宓は淀みなく答え、その回答は巧みに『詩経』の典故を引用し、たとえば「乃ち眷みて西を顧みる」をもって天に頭があり西方にあることを証し、「鶴は九皐に鳴き、声は天に聞こゆ」をもって天に耳があることを証し、「天歩艱難」をもって天に足があることを証した。天の姓は何かと問われると、秦宓は「姓は劉」と答え、「天子は劉を姓とす、故に此れをもって之を知る」と解釈し、巧みに天子と天を結びつけ、蜀漢の統治の正当性を擁護すると同時に、その並々ならぬ機知を示した。張温は秦宓の文弁の才に深く敬服した。

張温は孫呉政権においても重要な役割を演じた。彼はかつて孫権(そん けん)に進言し、太子孫登(そん とう)の中庶子の官職は最も親密なものであり、賢徳の士を選んで任じ、太子を輔佐すべきだと指摘した。孫権はその進言を採用し、陳表(ちんひょう)らを中庶子に任命した。これは、張温が自身に才学があるだけでなく、国家の人材の選抜と育成にも心を配り、孫呉政権の安定と発展に積極的な役割を果たしたことを示している。彼は孫呉の政治生活において一定の影響力を有していた。

演義での描写(In the Novel)

『三国演義』において、張温の人物像はより多くの劇的な色彩が付与され、史実とは幾分異なっている。演義には張温という名の人物が二人登場する。第一の張温は、字を伯慎といい、董卓(とう たく)の専権時期に司空を務めていた。彼は董卓から袁術(えんじゅつ)と結託し董卓の謀害を企てたと誣告され、呂布(りょふ)に衆人の前で堂下に引きずり下ろされ、その後斬首されて晒され、その首級は宴席に呈された。この場面は正史には記載がなく、董卓の残虐さを際立たせるために演義が虚構したものである。

第二の張温は、字を恵恕といい、孫呉の謀士である。彼が初めて登場するのは、孫権が広く賢士を招いたときに招かれた江東の名士の一人としてであり、闞沢(かんたく)、厳畯(げんしゅん)、薛綜(せつそう)らと並び称された。劉備の称帝(りゅうびのしょうてい)後、孫権は蜀漢との関係を強化するため、使者を蜀に遣わそうとした。孫権が、蜀漢には鄧芝(とうし)のような使者がいるのに、呉には出使できる者がいないと嘆いたとき、張温が進み出て自ら使者を志願した。彼は孔明もまた凡人にすぎず、自分が何を恐れることがあろうかと自信ありげに述べた。

張温が蜀漢に出使した後の、秦宓(演義では「秦宓、字は子勑」とする)との論弁は詳細に描かれている。史実と同様、張温は秦宓に「天に頭ありや」「天に耳ありや」「天に足ありや」、さらに「天に姓ありや」といった問いを発した。秦宓の回答も同じく『詩経』の典故を引用し、天子が劉を姓とすることと天が劉を姓とすることを巧みに結びつけた。しかし、演義では秦宓が張温に反問する場面が加えられており、秦宓は「天は既に軽清にして上に浮かぶに、何ぞ其れ西北に傾くや。又た未だ知らず、軽清の外に、還た何物かある」と張温に反詰し、張温は「言うべき言葉なく、乃ち席を避けて謝して曰く、『意わざりき、蜀中に多く俊傑を出だすとは。恰も講論を聞き、僕をして頓に茅塞を開かしむ』」という有様であった。孔明はこれを見て、張温が過度に恥じ入るのを避けるため、言葉を発して取りなした。この場面はさらに秦宓の弁才を際立たせると同時に、張温の人物像を当初の自負と驕慢から、相手を謙虚に受け入れ称賛する君子の風格へと転じさせている。

主要な関係

* 唐固(student_of):史料には張温と唐固の師弟関係は明確に記載されておらず、この情報は他の史料あるいは演義の延伸した解釈に由来する可能性がある。
* 袁術(enemy_of):『三国演義』において、董卓は司空張温が袁術と結託したと誣告し、張温は殺害された(演義独自)。
* 孫権集団(そんけんしゅうだん)(serves)/ 孫呉(serves):張温は孫呉の重要な官員であり、使者として蜀漢に出使し、また朝廷で孫権のために策を献じ、たとえば賢徳の士を選んで太子の中庶子に任じるよう進言した。
* 秦宓(論弁の相手):張温は秦宓と蜀漢で一場の著名な論弁を交え、張温はその弁才に深く敬服した。
* 諸葛亮(間接的な交わり):諸葛亮は張温と秦宓の論弁の際に同席し、人を遣わして秦宓を促したことがある。演義では、諸葛亮はさらに言葉を発して張温の気まずさを取りなした。
* 董卓(被害者):『三国演義』において、司空張温は董卓に誣告されて殺害された(演義独自)。
* 呂布(実行者):『三国演義』において、呂布は董卓の命を受け、司空張温を宴席から引きずり下ろして斬殺した(演義独自)。

象徴的な場面

* 董卓の宴会で殺害される:『三国演義』において、司空張温は董卓の宴会で、董卓から袁術と結託したと誣告され、その後呂布に衆人の前で引きずり下ろされて斬首され、その首級は宴席に呈され、董卓の残虐さの犠牲となった(演義独自)。
* 蜀漢への出使:張温は孫呉の使者として蜀漢に出使し、呉蜀同盟の強化を目的とした。演義では、彼は自ら出使を志願し、その自信と勇気を示した。
* 秦宓との論弁:これは張温の最もよく知られた象徴的な場面である。蜀漢で、張温は秦宓と「天」の様々な属性をめぐって見事な論弁を繰り広げた。秦宓の巧みな回答は張温を深く敬服させ、演義では張温は最終的に席を避けて謝し、秦宓の才を認めた。この論弁は張温の知識欲を示すだけでなく、秦宓の並々ならぬ才知を浮き彫りにし、三国時代の文人交流の古典的な一場面となっている。
* 孫権への進言:張温はかつて孫権に進言し、太子孫登のために賢徳の士を選んで中庶子に任じるよう建議し、国家の人材育成と政治の安定への関心を体現した。

肖像アーカイブ

人物像

性格
張温(ちょうおん)は初め自負して驕慢であったが、弁論で圧倒された後は席を避けて謝意を述べ、過ちを改めうる一面を見せた [c:3]。かつて故太尉であり、後に衛尉となり [c:6]、また司空・行車騎将軍を務めた [c:10]。
話し方
張温の言葉づかいには皮肉が込められ、しばしば重ねて問いを設ける形で表現し、例えば「学士と称するが、胸中にいまだ学問を修めしや否や知らず」といった具合であった [c:18]。
生涯
張温は平素より董卓(とう たく)と不仲で、董卓は怨みを抱いていた。後に天象に異変があり、董卓は責任を転嫁するため、張温が袁術(えんじゅつ)と結託していると誣告し、ついに笞打って殺した [c:4]。別の記載では、みずから使者として蜀に入り答礼を願い出、席上では傲慢に振る舞い平然としていたが、後に秦宓(しんふく)の「天に頭・耳・足・姓ありや」という問いに論破され、席を避けて心服し、鄧芝(とうし)とともに東呉へ帰って復命した [c:5]。
逸話
張温はかつて東呉の使臣として蜀に来聘し、弁論の中で秦宓に「天に頭・耳・足・姓ありや」と難詰されて、これに大いに敬服した [c:1]。かつて車騎将軍として西のかた韓遂(かんすい)を討ち [c:7]、また呉の使者として蜀に報聘した [c:9]。

人間関係

7 件の関係

名言

全 25 件の台詞 · 厳選 3 件

「孔明亦人耳,臣何畏彼哉?」

演 第86回→ 孫権(そん けん)

この言葉は諸葛亮に初めて会った際の張温の軽視と自負を示している。

「公既出大言,請即以天為問。天有頭乎?」

演 第86回→ 秦宓(しんふく)

この一句は張温と秦宓の有名な論争の口火を切るもので、極めて高い文化的認知度を持つ。

「不意蜀中多出俊傑!恰聞講論,使僕頓開芧塞。」

演 第86回→ 秦宓(しんふく)

この言葉は論争の後に張温が秦宓に抱く心からの敬服を体現し、人物像を形づくっている。

登場回8 回 ▸
  • 史ch.6ch.8ch.38ch.46ch.59
  • 演ch.8ch.38ch.86
関係の年表2 条 ▸

演 ch.8

演 ch.86

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は呉の命を奉じて蜀に入り、対するものは一席の問答だけではなく、両国が互いを理解し合えるかどうかでもあった。かつて孫権(そん けん)は各地から広く賓客を招き、士人を礼遇していた。西蜀との通好を命じられたとき、私は「孔明(こうめい)も人にすぎ
生涯の大事4 ▸