言語
郤

司馬氏(しばし) · 关内侯;安阳令;巴西太守

郤正(げきせい)

字 令先

登場回
5
台詞の記録
8
人間関係
4
内面の独白
1

史書の記録(Historical Record)

郤正(げきせい)、字は令先、河南偃師の人。その祖父の郤倹はかつて益州(えきしゅう)刺史を務めたが、霊帝の末年に盗賊によって殺された。天下が大いに乱れたとき、郤正の父の郤揖はこのために蜀の地にとどまった。郤揖はのちに将軍・孟達(もうたつ)の都督となり、孟達に従って魏に降り、中書令史を務めた。郤正はもとの名を纂といい、幼くして父母を失い、母は再嫁したため、彼は孤りの身であったが、よく貧に安んじて道を楽しみ、勤勉に学を好んで、広く群書を渉猟した。弱冠の年にはすでに文章を撰することができ、仕官の初めには秘書吏を務め、のちに令史に転じ、最終的に郎官・令官へと昇進した。

郤正の性格は名利に淡泊で、とりわけ文章と学問を愛した。彼は司馬遷・王褒・揚雄・班固・傅毅・張衡(ちょうこう)・蔡邕(さいよう)といった名家の遺文や篇賦、ならびに当時流行した美文や善論を広く渉猟し、益州にある典籍であれば、彼はみな深く究めて、ほとんど読まないものはなかった。彼は内職を務めるあいだ、宦官の黄皓(こうこう)と隣り合わせに住み、三十年を共に過ごした。黄皓は微賤の身からしだいに顕貴となり、権柄をもてあそんだが、郤正は黄皓に好かれもせず、また憎まれもしなかった。このため、彼の官職はついに六百石を超えることはなかったが、おかげで憂患を免れた。

景耀六年、後主の劉禅(りゅう ぜん)は譙周(しょうしゅう)の建議を採り、使者を遣わして鄧艾(とうがい)に降伏を請うたが、その降書はほかならぬ郤正が撰したものである。翌年正月、鍾会(しょうかい)が成都(せいと)で乱を起こし、後主の劉禅は東のかた洛陽(らくよう)へ遷された。当時、局勢は混乱して慌ただしく、蜀漢(しょくかん)の大臣のなかで随行を願う者はまれであったが、ただ郤正と殿中督の汝南の張通だけが、妻子を捨てて単身で随侍した。後主の劉禅は郤正の導きと適切な取り計らいに頼って、道中の挙措が礼にかない、失態がなかった。劉禅はこのために感慨して嘆息し、郤正を早く知らなかったことを悔やみ、当時の世論もこれを大いに称えた。郤正はこのために関内侯の爵位を賜った。泰始年間、彼は安陽令に任じられ、のちに巴西太守に昇進した。泰始八年、晋の武帝は詔を下して郤正を称えた。「正はかつて成都にありて、顛沛のなかにも義を守り、忠節に違わず、登用を受けるに及んでは、心を尽くして事を干め、治理の績あり。それ正を以て巴西太守となせ」と。咸寧四年、郤正は世を去った。彼は一生のうちに著述がはなはだ多く、詩・論・賦などの作品は百篇に及んだ。

郤正はかつて孟光(もう こう)に師事した。孟光はかつて郤正に、太子の劉禅の学業の様子や性情・好みを尋ねた。郤正はこう答えた。「太子は親に奉ずること虔恭にして、夙夜に懈らず、古の世子の風あり。群僚を接待するに、挙動は仁恕より出ず」と。すると孟光はこう言った。「そなたの言うところは、みな尋常な家の長所である。わたしが問うているのは、彼の権略や智謀がいかほどかを知りたいのだ」と。郤正はこう釈いた。「世子の道は、父の志を承順し、力を竭くして歓を尽くすことにあり、ほしいままに事を為すこともできず、しかも智謀は胸中に蔵し、権略は時に応じて発するものです。これらがあるかどうかを、どうして予め定めることができましょうか」と。孟光は、郤正が慎んでみだりに語ろうとしないことを理解し、こう言った。「わたしは直言してはばからず、つねに時弊を針砭するゆえ、しばしば世人に譏られる。そなたもおそらくわたしの言を好まぬであろうが、言葉にはおのずから道理がある。いま天下いまだ定まらず、智謀を先とする。智謀は生まれつきのものではあるが、強いて求められぬ。儲君が書を読むのは、まさかわれらのように力を竭くして博く学び、訪問に備え、博士が策を考え講試して爵位を求めるようなものであろうか。急を要するものに務めるべきである」と。郤正は深くこれをもっともだと思った。

演義のなかで(In the Novel)

『三国演義』においては、郤正の人物像は史実を基礎としつつ、より多くの文学的な彩りと筋立てへの参与度が与えられている。彼は後主の劉禅の側近の文臣であるばかりでなく、重要な局面でも大きな役割を果たした。

延熙十六年の秋、姜維(きょうい)が兵を率いて魏を伐ち、夏侯覇(かこう は)と協議したうえで、まず南安を取ることに決めた。姜維は郤正を使者として遣わし、金珠と蜀錦を携えて羌族のもとへ赴かせ、羌王の迷当(めいとう)と誼を結ばせた。迷当は礼物を得ると、五万の兵を起こし、羌将の俄何焼戈(がかしょうか)を大先鋒として、兵を率いて南安へ向かわせた。この筋立ては史書に明確な記載はなく、演義において姜維の北伐(姜維の北伐(きょういのほくばつ))の進展を推し進めるために加えられたものである。

姜維が軍を率いて凱旋したのち、後主の劉禅が十日続けて朝政に臨まなかったため、姜維は心中いぶかった。郤正は東華門で姜維に出会い、黄皓が閻宇に功を立てさせようとして姜維を召し戻した内情を彼に明かした。姜維はこれを聞いて大いに怒り、黄皓を殺そうとしたが、郤正はこれを諫め止め、大将軍は重責を負う身であるから、軽率に動いて、かえって逆効果となるのを避けるべきだと指摘した。その後、姜維は劉禅に謁見して黄皓の奸佞を痛烈に訴え、黄皓の誅殺を請うたが容れられず、憤懣やるかたなく再び郤正を訪ねた。郤正はこのとき姜維に策を献じ、沓中(とうちゅう)へ赴いて屯田し、武侯の旧事に倣って黄皓の禍を避け、なおかつその機に乗じて隴右の諸郡を図り、同時に兵権を掌握して、国を保ち身を安んじるよう建議した。姜維は郤正の建議を採り、後主に沓中での屯田を奏請した。これらの筋立ても史書には詳しい記載がなく、演義において郤正の智謀と国家への忠誠をさらに造形したものである。

鄧艾が江油を攻め取り、兵が涪城(ふうじょう)に迫ると、蜀中からの急を告げる文書が雪片のごとく成都に飛び込んだ。後主の劉禅は群臣を召集して対策を協議したが、群臣は互いに顔を見合わせるばかりで、あえて言う者はいなかった。このとき、郤正が身を挺して、劉禅に武侯の子の諸葛瞻(しょかつせん)を召して退兵の策を協議するよう奏請した。この細部は、危急のときにおける郤正の明晰さと責任感を際立たせている。

劉禅が晋に降ったのち、彼は安楽公に封じられた。洛陽において、司馬昭(しばしょう)は宴を設けて劉禅をもてなし、わざと蜀の楽を演じさせると、蜀の官はみな悲傷して涙を落としたが、ただ劉禅だけは嬉笑して平然としていた。司馬昭が劉禅に蜀の地を思うかと問うと、劉禅は「此間の楽しみ、蜀を思わず」と答えた。その後、郤正は劉禅に従って厢下に至り、劉禅にこう教えた。もし再び問われたなら、涙ながらに「先人の墳墓は、遠く蜀の地にあり、心は西に向かって悲しみ、思わぬ日はありません」と答えれば、司馬昭が劉禅を蜀に帰してくれるかもしれないと。司馬昭が再び尋ねたとき、劉禅は郤正の教えのとおりに答えたが、泣こうとしても涙が出ず、目を閉じてしまった。司馬昭はその言葉が郤正から出たものらしいと見抜き、劉禅はうろたえて、郤正の教えたものだと認めた。司馬昭はこのために劉禅の正直さを大いに喜び、もはや疑わなくなった。この「楽しみて蜀を思わず(楽不思蜀)」の古典的なくだりは、郤正を、亡国ののちでもなお故主のために謀ることを忘れない忠臣として造形しており、その計はけっきょく喜劇に終わったのである。

重要な関係

* 孟光(もう こう)(student_of):郤正はかつて孟光の弟子であり、これに教えを請うた。孟光は郤正との対話のなかで、太子の劉禅の権略・智謀への関心を示し、また郤正の慎重さと君主への忠誠をも体現した。
* 蜀漢(しょくかん)(serves):郤正は一生を蜀漢に尽くし、秘書吏・令史・郎・令などの職を務め、晋に降ったのちも追封された。彼は後主の劉禅のために降書を撰し、劉禅が東のかた洛陽へ遷されたときも、妻子を捨てて左右に随侍し、蜀漢への忠誠を示した。
* 黄皓(こうこう)(rival_of):郤正は内職において宦官の黄皓と三十年ともに過ごし、黄皓は微賤から顕貴に至り、権柄をもてあそんだ。しかし、郤正は黄皓に好かれもせず、また憎まれもしなかったため、官職は高くなかったものの憂患を免れた。『演義』においては、姜維が黄皓の専権ゆえにこれを殺そうとしたとき、郤正は姜維を諫め止め、彼のために禍を避ける策を献じており、黄皓の朝政への負の影響と、郤正の明哲保身の道とを間接的に体現している。
* 劉禅(りゅう ぜん)(advises_in):郤正は劉禅の近臣として、かつて孟光に劉禅の品性を評した。蜀漢滅亡(蜀漢の滅亡(しょくかんのめつぼう))の際には、彼は劉禅のために降書を撰し、劉禅が東遷するときも道中ずっと随侍して、彼のために適切に取り計らった。劉禅はこのために、郤正を知るのが遅かったことを嘆き恨んだ。『演義』においては、郤正はかつて姜維のために黄皓の禍を避ける策を献じ、また劉禅が晋朝での「楽しみて蜀を思わず」の事件においても策をめぐらし、劉禅に蜀へ帰る機会を与えようと試みた。
* 姜維(きょうい)(advises):『演義』においては、郤正はかつて使者として羌族のもとへ赴き、姜維のために同盟を結んで、その北伐を助けた。彼はまた姜維に、黄皓のために軽率に動かないよう諫め、さらに姜維に沓中へ赴いて屯田し、禍を避けつつ進取を図るよう建議した(演義のみ)。

象徴的な場面

* 降書を撰し、後主に随侍して東遷する:景耀六年、後主の劉禅は譙周の計に従い、使者を遣わして鄧艾に降伏を請うたが、その降書はほかならぬ郤正が撰したものである。翌年正月、鍾会が成都で乱を起こし、後主が東のかた洛陽へ遷されたとき、蜀漢の大臣のなかで随行する者はまれであったが、ただ郤正と殿中督の汝南の張通だけが、妻子を捨てて単身で随侍した。後主は郤正の導きと適切な取り計らいに頼って、道中の挙措が礼にかない、失態がなかった。劉禅はこのために感慨して嘆息し、郤正を知るのが遅かったことを恨んだ。この場面は、郤正の文学的才能と故主への忠誠を十分に示している。
* 姜維を諫め、沓中での屯田を献策する:姜維が黄皓の専権ゆえにこれを殺そうとすると、郤正は姜維に軽率に動くべきではないと諫めた。続いて、郤正は姜維に策を献じ、沓中へ赴いて屯田し、黄皓の禍を避けつつ、その機に乗じて隴右の諸郡を図り、同時に兵権を掌握して、国を保ち身を安んじるよう建議した。姜維は郤正の建議を採り、後主に沓中での屯田を奏請した(演義のみ)。この場面は、乱世における郤正の智謀と、国家の大局への配慮を際立たせている。
* 「楽しみて蜀を思わず」の献策:劉禅が晋に降ったのち、司馬昭が宴を設けてもてなすと、劉禅は宴席で「此間の楽しみ、蜀を思わず」という態度を示した。その後、郤正は劉禅に従って厢下に至り、劉禅にこう教えた。もし再び蜀を思うか否かを問われたなら、涙ながらに「先人の墳墓は、遠く蜀の地にあり、心は西に向かって悲しみ、思わぬ日はありません」と答えれば、司馬昭が劉禅を蜀に帰してくれるかもしれないと(演義のみ)。この場面は、郤正が『演義』のなかで最も広く知られた筋立ての一つであり、故主への忠心と、局面を挽回しようとする努力を示している。最終的には劉禅の「正直さ」によって幕を閉じたとはいえ、「楽しみて蜀を思わず」という千古の笑い話を成り立たせもした。
* 黄皓と三十年ともに過ごしながら憂患を免れる:郤正は内職において宦官の黄皓と隣り合わせに住み、三十年をともに過ごした。黄皓は微賤の身からしだいに顕貴となり、権柄をもてあそんだが、郤正は黄皓に好かれもせず、また憎まれもしなかった。このため、彼の官職はついに六百石を超えることはなかったが、おかげで憂患を免れた。この場面は、名利に淡泊で明哲保身を旨とする郤正の性格的特徴を明らかにしており、複雑な政治環境のなかで身を全うしえたことを示している。

人間関係

4 件の関係

名言

全 8 件の台詞 · 厳選 3 件

「將軍禍不遠矣。將軍若危,國家隨滅。」

演 第115回→ 姜維(きょうい)

姜維(きょうい)と蜀漢(しょくかん)の運命を予言しており、極めて歴史的な悲劇性を帯びている。

「隴西有一去處,名日沓中:此地極其肥壯。將軍何不效武侯屯田之事,奏知天子,前去沓中屯田?一者:得麥熟以助軍實;二者,可以盡圖隴右諸郡;三者,魏人不敢正視漢中;四者,將軍在外掌握兵權,人不能圖,可以避禍:此乃保國安身之策也,宜早行之。」

演 第115回→ 姜維(きょうい)

「沓中(とうちゅう)での屯田」の策を提起したもので、姜維(きょうい)後期の軍事戦略の核心である。

「陛下如何答應不思蜀也?倘彼再問,可泣而答曰:『先人墳墓,遠在蜀地,乃心西悲,無日不思。』晉公必放陛下歸蜀矣。」

演 第119回→ 劉禅(りゅう ぜん)

「楽しみて蜀を思わず(楽不思蜀)」の故事の源であり、その政治的な智慧を示している。

登場回5 回 ▸
  • 史ch.42
  • 演ch.109ch.115ch.117ch.119
関係の年表6 条 ▸

史 ch.42

演 ch.109

演 ch.115

演 ch.117

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は郤正(げきせい)、字は令先、河南偃師の人である。幼い頃に父を亡くし、母も再嫁したため、兄弟と孤児の身で苦労を分かち合って暮らした。家は貧しかったが、学問を志し、憂いを胸にしまい、昼夜を問わず経書や史書、文章を読みふけった。二十歳を過ぎる
生涯の大事2 ▸