言語
董

蜀漢(しょくかん) · 尚书令

董厥(とう けつ)

登場回
4
台詞の記録
1
人間関係
4
内面の独白
1

史書の記載(Historical Record)

董厥(とう けつ)、字は龔襲、義陽の人である。丞相諸葛亮(しょかつりょう)が政務を執っていた時期、董厥(とう けつ)はかつて府令史を務めた。諸葛亮(しょかつりょう)は彼を高く評価し、「良士」と称賛し、董厥(とう けつ)と語り合うたびに彼は「思慎宜適」であったと述べている。その後、董厥(とう けつ)は主簿に抜擢された。諸葛亮(しょかつりょう)の死後、董厥(とう けつ)の官途はさらに発展し、次第に尚書僕射へと昇進し、陳祗(ちんし)に代わって尚書令を務めた。最終的に、彼は大将軍に任じられ、平台の事務を担当し、その職位は後に義陽の人である樊建が引き継いだ。

延熙十四年(西暦251年)、董厥(とう けつ)は校尉の身分で東呉へ使者として赴いた。当時、孫権(そん けん)は重病で、自ら接見することができなかった。孫権(そん けん)はかつて諸葛恪(しょかつかく)に樊建を宗預(そうよ)と比べてどうかと尋ねたところ、諸葛恪(しょかつかく)は「才識は預に及ばぬが、雅性はこれに勝る」と答えた。後に、董厥(とう けつ)はまた侍中を務め、中書令を兼任した。

董厥(とう けつ)、陳祗(ちんし)(瞻)、樊建らが共に朝政を執っていた期間、姜維(きょうい)は長年外で征戦に明け暮れ、宦官の黄皓(こうこう)は朝廷で権柄をほしいままにした。董厥(とう けつ)らは共に朝政を支えたものの、黄皓(こうこう)の専権を有効に匡正することはできなかった。孫盛の『異同記』には、陳祗(ちんし)、董厥(とう けつ)らがかつて姜維(きょうい)は好戦的でありながら功なく、国内を疲弊させていると考え、後主に姜維(きょうい)を召還して益州(えきしゅう)刺史に任じ、その兵権を剥奪するよう進言したと記されている。しかし、蜀漢の滅亡(しょくかんのめつぼう)の翌年の春、董厥(とう けつ)は樊建と共に晋朝の都へ赴き、共に相国参軍を務めた。同年の秋、二人はまた散騎常侍を兼任し、蜀の地へ慰労のために派遣された。

演義の記述(In the Novel)

『三国(さんごく)演義』において、董厥(とう けつ)の形象は主に蜀漢後期、特に姜維の北伐(きょういのほくばつ)と蜀漢の滅亡(しょくかんのめつぼう)前夜の活動を中心に展開され、史書の官職昇進とはやや異なり、より軍事的・政治的な関与に重点が置かれている。彼が小説に初めて登場するのは、諸葛亮(しょかつりょう)が孟獲(もうかく)を南征する時である。当時、諸葛亮(しょかつりょう)は後主に別れを告げ、蔣琬(しょうえん)を参軍に、費禕(ひい)を長史に任じ、董厥(とう けつ)と樊建は掾史に任じられて従軍出征した。これは史書で彼が府令史、主簿を務めた初期の経歴と呼応するが、具体的な職務と参加した軍事行動は演義独自のものである。

小説後期、董厥(とう けつ)は蜀漢の危急存亡の際により重要な役割を演じた。魏軍が多方面から蜀漢に侵攻した際、董厥(とう けつ)は輔国大将軍として、二万の兵馬を率いて剣閣(けんかく)を鎮守した。彼はかつて塵土が大いに舞い上がるのを望み見て、魏軍の来襲と誤認し、急いで兵を引いて関口を守った。しかし、来たのは姜維(きょうい)、廖化(りょうか)、張翼(ちょうよく)らであった。董厥(とう けつ)は大いに喜び、彼らを関内へ迎え入れ、姜維(きょうい)に後主劉禅(りゅう ぜん)が黄皓(こうこう)に欺かれている事を泣いて訴えた。この場面は董厥(とう けつ)の国事に対する憂慮と黄皓(こうこう)の専権に対する憎しみを生き生きと描き出しており、演義における彼の性格の重要な造形である。彼は成都(せいと)に守る者がいないことを憂慮したが、姜維(きょうい)は憂える必要はないと慰めた。

蜀漢が最終的に滅亡する時、董厥(とう けつ)も姜維(きょうい)らと共にこれに直面した。太僕の蔣顯が後主の勅命を奉じて剣閣(けんかく)へ来て魏国への帰順の知らせを伝えると、姜維(きょうい)は大いに驚き顔色を失い、帳下の諸将は皆激昂して刀を抜いて石を斬り、死を誓って降伏しないと決意した。姜維(きょうい)は人心が漢を思っているのを見て、諸将をなだめ、密かに董厥(とう けつ)、張翼(ちょうよく)、廖化(りょうか)らに耳打ちし、偽りの降伏の計を相談した。その後、董厥(とう けつ)らは姜維(きょうい)と共に鍾会(しょうかい)に偽りの降伏をして、漢室の復興を図った。これらの場面は史書には詳細な記載がなく、『三国(さんごく)演義』が劇的な葛藤と人物像を強めるために行った芸術的加工である。

重要な関係

* 蜀漢(しょくかん):董厥(とう けつ)は生涯を通じて蜀漢政権に忠誠を尽くし、諸葛亮(しょかつりょう)の時期から官職に就き、蜀漢の滅亡に至るまで仕えた。彼は蜀漢後期に尚書令、大将軍などの重要な職を務め、魏軍の侵攻時には剣閣(けんかく)を鎮守し、蜀漢後期の重要な股肱の臣であった。
* 諸葛亮(しょかつりょう):董厥(とう けつ)は諸葛亮(しょかつりょう)の門生であり部下であった。諸葛亮(しょかつりょう)の存命時、董厥(とう けつ)は府令史と主簿を務め、諸葛亮(しょかつりょう)の重用と称賛を得て、「良士」と称された。この師弟あるいは上下関係が、董厥(とう けつ)の蜀漢政界における出発点を定めた。
* 姜維(きょうい):演義において、董厥(とう けつ)は姜維(きょうい)の重要な同僚であり支持者である。彼は姜維(きょうい)と剣閣(けんかく)で会し、共に魏軍を防ぐ策を相談し、姜維(きょうい)に黄皓(こうこう)の事を泣いて訴えた。蜀漢の滅亡前夜、董厥(とう けつ)もまた姜維(きょうい)の偽りの降伏の計に参加し、漢室の復興を試みた(演義独自)。
* 黄皓(こうこう):董厥(とう けつ)は陳祗(ちんし)、樊建らと共に政務を執っていた時、宦官黄皓(こうこう)の専権を有効に匡正できなかった。演義では、董厥(とう けつ)はさらに直接姜維(きょうい)に黄皓(こうこう)が後主を欺いている事を泣いて訴え、黄皓(こうこう)の乱政に対する深い憂慮と不満を表した(演義独自)。
* 樊建:董厥(とう けつ)と樊建は関係が密接で、二人は史料で常に並べて言及される。彼らは共に掾史を務め(演義独自)、蜀漢後期に共に朝政を執り、蜀漢の滅亡後は共に晋朝へ赴いて相国参軍と散騎常侍を務めた。

象徴的な場面

* 諸葛亮(しょかつりょう)が「良士」と称賛:諸葛亮(しょかつりょう)の存命時、董厥(とう けつ)の品徳と能力を高く評価し、「良士」と称し、その言談が「思慎宜適」であると称賛した。これは史料における董厥(とう けつ)の最も早く最も重要な個人評価であり、彼の早期の才幹と落ち着きを体現している。
* 孟獲(もうかく)南征の際に掾史を務める:『三国(さんごく)演義』において、董厥(とう けつ)は掾史として諸葛亮(しょかつりょう)に従い孟獲(もうかく)を南征した。この場面は具体的な細部は演義の創作であるが、董厥(とう けつ)を諸葛亮(しょかつりょう)の早期の重要な軍事行動の背景に置き、諸葛亮(しょかつりょう)の側近としての身分を示している(演義独自)。
* 剣閣(けんかく)で姜維(きょうい)を迎え黄皓(こうこう)を泣訴:魏軍の侵攻時、董厥(とう けつ)は剣閣(けんかく)を鎮守し、姜維(きょうい)、廖化(りょうか)、張翼(ちょうよく)らと関口で会した。董厥(とう けつ)は姜維(きょうい)に後主劉禅(りゅう ぜん)が黄皓(こうこう)に欺かれていることを泣いて訴え、国事の危機に対する深い憂慮を表した。この場面は演義における董厥(とう けつ)の形象が最も鮮明で感動的な一幕であり、彼の忠心をもって国に尽くし、社稷を憂える性格を際立たせている(演義独自)。
* 姜維(きょうい)の鍾会(しょうかい)への偽降に参加:蜀漢の滅亡前夜、董厥(とう けつ)は姜維(きょうい)、張翼(ちょうよく)、廖化(りょうか)らと共に鍾会(しょうかい)への偽りの降伏の計に参加し、魏に降った後に漢室復興の機会を探ろうとした。この場面は、董厥(とう けつ)が絶望の中でなお希望を捨てず、姜維(きょうい)と共に謀った忠義の行いを示している(演義独自)。
* 蜀滅亡後に樊建と共に晋朝に仕える:蜀漢の滅亡後、董厥(とう けつ)は樊建と共に晋朝の都へ赴き、相国参軍を務め、散騎常侍を兼任し、蜀の地へ慰労のために派遣された。これは董厥(とう けつ)が王朝交替後もなお重用されたことを示し、士人の中での名声と能力を反映している。

人間関係

4 件の関係

台詞

  • 演 ch.117 §1→ 姜維(きょうい)

    「此關雖然可守,爭奈成都無人;倘為敵人所襲,大勢瓦解矣。」

登場回4 回 ▸
  • 史ch.35
  • 演ch.87ch.117ch.118
関係の年表2 条 ▸

史 ch.35

演 ch.118

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は董厥(とう けつ)、字は龔襲(きょうしゅう)、義陽(ぎよう)の人である。諸葛丞相(しょかつりょうしょう)が健在だった頃、私は府中の令史にすぎなかった。職務は微細であっても、慎みをもって身を律するべきだと考えていた。丞相は私を「良士」と称
生涯の大事1 ▸