史載(Historical Record)
王烈(おうれつ)、字は彦方。後漢末年に、その高尚な品徳と卓越した才識で名を馳せ、その名声は同郡の管寧(かんねい)や華歆(かきん)をも超えた。彼は早年、潁川(えいせん)の陳太丘に師事し、陳太丘の二人の子ならびに荀慈明・賈偉節・李元礼・韓元長らの名士と交わり、その器量と学識が人並み外れていたため、深く衆人に欽佩され、英名は海内に広まった。
王烈(おうれつ)は道成り徳立った後、故郷に帰り、ちょうど父の逝去に遭い、三年の喪に服し、その間泣涙やまなかった。また飢饉に遭い、路に餓殍ありしとき、王烈(おうれつ)は家の蓄えた食物を郷隣に分け与えて百姓を救済し、そのため宗族から孝子と称えられ、郷里からは仁人として帰せられた。
彼は教育に努め、典籍をもって自ら娯しみ、学校を創設して庠序を敦崇した。学生を教導するにあたり、彼は循循として善く誘い、学生の天性に拘泥せず、道徳をもって教化し、善に向かい悪を遠ざけるよう導いた。彼の影響のもとで、学生たちは知らず知らずのうちに品徳が高まり、振る舞いはみな観るに足り、市井の中にあってもその歩みは常人と異なり、人々はみな彼らが王烈(おうれつ)の門生であると見分けることができた。彼の感化のもとで、郷里全体に良き気風が形成され、人々は競って善を為した。
王烈(おうれつ)はその独特の仁徳で世人を感化した。かつて牛を盗んだ者が牛主に捕らえられ、盗者は過ちを悔いて王烈(おうれつ)に知られぬよう請うた。王烈(おうれつ)はこのことを知ると、かえって盗者に一匹の布を贈り、盗者が恥悪を知れば善心が生ずるであろうから、この挙は彼に善を為すよう勧めるためだと説いた。数年後、この牛盗人は路上で人のために数十里にわたり荷を担ぎ、また路上で落とし剣を守り、最終的に王烈(おうれつ)に見いだされてその仁徳を讃えられ、国人がその閭里を表彰するに至った。
当時、人々は争いがあると、しばしば王烈(おうれつ)に裁断を求めようとしたが、往々にしてその途中で、あるいはその居所を望み見たところで自ら和解し、互いに譲り合い、王烈(おうれつ)に知られることを望まなかった。さらには当時の国主も自ら車を駕して王烈(おうれつ)の私宅を訪れ、政令について諮問した。彼はかつて孝廉に察挙され、三府に辟召されたが、いずれも就任しなかった。
董卓(とう たく)が乱を起こしたとき、王烈(おうれつ)は戦乱を避けて遼東に移り住み、自ら農事に従い、平民の列に編入され、布衣蔬食の生活を送りながらも、その楽しみを改めなかった。遼東の百姓は彼を君のように敬奉した。あの衰世にあって、東国に避居した多くの人が迫害を受けたが、王烈(おうれつ)は遼東に多年いながら、一度も患難に遭わなかった。彼の影響のもとで、遼東地区では強者が弱者を欺かず、多数が少数を圧迫せず、商賈の売買は値を二つにしなかった。曹操(そうそう)はかつて幾度も王烈(おうれつ)を徴召したが、遼東側はさまざまな理由で辞退し、彼を去らせようとしなかった。建安二十三年(218年)、王烈(おうれつ)は病により逝去し、享年七十八であった。
演中(In the Novel)
『三国演義』は王烈(おうれつ)について独立した文学的造形を行っておらず、したがって専属の演義の筋立てや人物描写はない。王烈(おうれつ)の事績は主に史料の記載に見られ、その高尚な品徳・卓越した教化の能力・社会への積極的な影響は、『三国志(さんごくし)』などの正史において詳尽に記録され、高く評価されている。『三国演義』は主に戦争・政治闘争・英雄人物の造形に焦点を当てているため、王烈(おうれつ)のように徳行で世人を感化し、軍事・政治の核心に関わらない人物は、通常その叙述の主線に組み込まれない。したがって、演義において王烈(おうれつ)は史に明らかな記載のない人物であり、その形象は完全に歴史記載に依拠している。
関鍵関係
* 曹魏(そうぎ):王烈(おうれつ)はかつて曹操(そうそう)(太祖)に丞相掾として徴召され、後にまた幾度も徴召されたが、遼東側の阻止により赴任できなかった。
* 公孫度(こうそんたく)集団:王烈(おうれつ)はかつて公孫度(こうそんたく)の長史の職を辞し、後に乱を避けて遼東に行き、当地の百姓に敬奉され、公孫度(こうそんたく)集団もそのため彼を曹操(そうそう)に引き渡すことができなかった。
* 潁川(えいせん)の陳太丘:王烈(おうれつ)はかつて陳太丘を師とし、陳太丘の二子ならびに荀慈明・賈偉節・李元礼・韓元長らの名士と交わった。
* 遼東の百姓:王烈(おうれつ)は遼東に避地した後、自ら農事に従い、布衣蔬食であったが、その高尚な品徳が当地の百姓を感化し、遼東に良き社会の気風を形成し、百姓は彼を君のように奉じた。
象徴的な場面
* 公孫度の長史を辞し、商賈もて自ら穢す:王烈(おうれつ)はかつて公孫度(こうそんたく)の長史の職を辞し、商いをもって自らを汚し、世乱を避けた。この行為は、栄華を慕わず、身を潔くする彼の品格を体現している。
* 釜庚の蓄えを分け、もって邑里の命を救う:飢饉の年に、王烈(おうれつ)は家の蓄えた食物を郷隣に分け与え、多くの命を救済した。これは彼の仁愛の心と孝順の品徳の集中的な体現である。
* 学校を建て、庠序を敦崇し、大いに化隆を行う:王烈(おうれつ)は学校を創設し、教育に努め、道徳をもって学生を教化し、郷里の気風を大いに変え、人々は競って善を為した。これは教育家・道徳の楷模としての彼の象徴的な貢献である。
* 一端の布を盗牛人に遺し、その善を為すを勧む:王烈(おうれつ)は牛盗人が恥を知って過ちを悔いたことを知ると、かえって彼に布匹を贈り、改めて善に向かうよう励ました。この事件は、徳をもって怨みに報い、人心を感化する彼の独特の智慧と仁慈を十分に示している。
* 国人その閭を表してこれを異とす:かつて牛を盗んだ後に改めて善行をなしたその人は、王烈(おうれつ)の感化と導きによって、最終的に国人にその閭里を表彰された。これは盗牛人個人の品徳の昇華の標であるのみならず、王烈(おうれつ)の教化の影響力の証でもある。
* 時人曲直を訟え、廬を望みて還る:人々は争いがあると、もともと王烈(おうれつ)に裁断を求めようとしたが、往々にしてその居所を見る前に自ら和解し、互いに譲り合った。これは王烈(おうれつ)の崇高な道徳的威望と、無形のうちに社会秩序を維持するその作用を反映している。
* 太祖しきりに徴召するも、遼東これがために解して遣わさず:曹操(そうそう)は幾度も王烈(おうれつ)を徴召したが、遼東側はさまざまな理由で辞退し、彼を去らせようとしなかった。これは、王烈(おうれつ)の遼東地区における極めて高い声望と影響力、さらには地方の割拠勢力の決策にも影響を及ぼしうることを示している。
人間関係
0 件の関係
无
登場回1 回 ▸
- 史ch.11
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は王烈(おうれつ)、字は彦方(げんほう)である。これまでの生涯を振り返って、最も自らを励ますよすがとなるのは、天下に名を知られたことではなく、守るべき義を世の移り変わりによって変えなかったことだ。若い頃、陳太丘(ちんたいきゅう)に学び、そ