言語
司

曹魏(そうぎ) · 兖州刺史

司馬朗(しばろう)

字 伯達

登場回
4
台詞の記録
6
人間関係
8
内面の独白
1

史実(Historical Record)

司馬朗(しばろう)は、字を伯達といい、河内温県の人である。その祖父の司馬隽は博学で古を好み、儀態は魁岸として、官は潁川(えいせん)太守に至った。父の司馬防は、字を建公といい、人となりは正直で公方であり、家に閑居していても、威儀は少しも懈怠することがなかった。彼は『漢書名臣列伝』を雅好し、諷誦するところは数十万言に達した。司馬防はかつて洛陽(らくよう)令、京兆尹を務め、晩年に転じて騎都尉を拝した。司馬防は子を教えるのに厳謹で、諸子はすでに成人していても、許しを経ずには擅に進退、坐立、発言する勇気はなく、父子の間は粛穆として賓のごとくであった。司馬朗(しばろう)は司馬防の長子であり、その弟がすなわち後の晋宣帝司馬懿(しばい)である。

司馬朗(しばろう)は幼くして聡慧で人に過ぎていた。九歳のとき、ある人が直接その父の字を呼んだので、司馬朗(しばろう)は言った。「人の親を慢るは、その親を敬わざる者なり」と。来客はこれを聞いて謝罪した。十二歳のとき、彼は童子郎の身分で経学を試され、その身体が壮大であったため、監試者はその年齢を偽っているのではと疑い、そこで劾問を加えた。司馬朗(しばろう)は従容として答えた。「朗の内外、累世長大なり。朗は稚弱なりといえども、高きを仰ぐの風なく、年を損じて以て早成を求むるは、志のなすところに非ざるなり」と。監試者はこれによって彼を刮目した。

董卓(とう たく)が長安(ちょうあん)に遷都したとき、司馬防は治書御史として、ともに西へ遷る必要があった。四方が戦乱であったため、司馬防は司馬朗(しばろう)を遣わして家属を本県に送り返させた。途中、ある人が司馬朗(しばろう)が逃亡しようとしていると告発し、彼は捕らえられて董卓(とう たく)のもとへ送られた。董卓(とう たく)は司馬朗(しばろう)を見て、自分の亡くなった子と同い年であると言った。司馬朗(しばろう)はこの機に乗じて董卓(とう たく)に時局を陳述し、董卓(とう たく)が群秽を清め、広く賢士を挙げた功を讃えたが、また兵難が四方に起こり、百姓が流離失所する困境をも指摘し、彼に「往事を監観し、少しく三思を加えよ」と勧め、そうすれば「栄名は日月と並び、伊、周も侔うに足らず」と言った。董卓(とう たく)は聞いた後「吾もまたこれを悟れり、卿の言、意あり!」と表明した。

司馬朗(しばろう)は董卓(とう たく)が必ず亡びることを深く知り、彼に留め用いられることを恐れて、財物を散じ尽くして董卓(とう たく)の親信を賄賂し、郷里に帰ることができた。彼は父老郷親に説いた。董卓(とう たく)は悖逆にして、天下が共に仇とするところであり、洛陽(らくよう)周辺は兵家必争の地となるであろうから、道路がなお通じているうちに、挙家して東のかた黎陽(れいよう)に遷り、当地で監営謁者を務める旧知の趙威孫を頼るに越したことはない、と。しかし父老郷親は旧を恋うて従わず、ただ同県の趙咨(ちょうし)のみが家属を携えて司馬朗(しばろう)と同行した。数か月後、関東の諸州郡が兵を起こして董卓(とう たく)を討ち、衆数十万が滎陽および河内に集結したが、諸将が統一して調度できなかったため、兵を縦にして劫掠し、百姓の死傷は半ばを過ぎた。関東の兵が散じた後、曹操(そうそう)と呂布(りょふ)が濮陽(ぼくよう)で相持し、司馬朗(しばろう)はようやく家属を温県に連れ帰ることができた。当時はちょうど大飢饉で、人が人を食らうほどであったが、司馬朗(しばろう)は宗族を収恤し、諸弟を教訓し、乱世のために学業を荒廃させることはなかった。

建安の初年、司馬朗(しばろう)が二十二歳のとき、曹操(そうそう)が彼を辟して司空掾属とし、後に成皋令となったが、病により去職し、また堂陽長となった。彼は任にあって政を施すこと寛恵で、鞭杖を行わなかったが、百姓はかえって禁を犯さなかった。当地ではかつて百姓が都城へ遷されたことがあったが、後に県で船を造る必要が生じ、これらの遷民は任務を果たせないことを心配して、私かに帰って相助けた。その愛戴される深さがうかがえる。後に元城令に遷り、入って丞相主簿となった。司馬朗(しばろう)は天下が土崩瓦解する勢いは、秦朝が五等の爵制を廃したことに源があり、郡国が習戦の備えを欠いたことによると考えた。彼は五等制を直ちに復することはできなくとも、州郡に皆兵を置かせ、外に四夷に備え、内に不軌を威すべきだと進言した。彼はまた井田制を復することを主張し、大乱の後、民人が分散し、土地に主がないこの時こそ、井田を復する良機だと考えた。これらの進言は当時完全には施行されなかったものの、州郡が兵を領する策は、まさに司馬朗(しばろう)の本意であった。後に兗州(えんしゅう)刺史に遷り、政績は卓著で、百姓に称えられた。軍旅に身を置いていても、彼はなお粗衣悪食で、倹朴を以て下を率いた。彼は人倫の典籍を雅好し、当時盛名を外に馳せた李觌らに対してはしばしば貶抑の意を示したが、後に李觌らが敗落すると、時の人は皆その遠見に服した。彼はかつて鍾繇(しょうよう)、王粲(おうさん)らと治世の道を討論し、「伊、顔の徒は聖人に非ずといえども、数世相承けしむれば、太平致すべし」と考えた。

建安二十二年(217年)、司馬朗(しばろう)は夏侯惇(かこう とん)、臧覇(ぞう は)らに従って孫呉(そんご)を征討した。軍が居巢に至ったとき、大疫に遭い、司馬朗(しばろう)は親しく巡視し、医薬を施し発したが、最終的に病に染まって亡くなり、時に年四十七であった。臨終の際、彼は布衣幅巾、時服で斂葬するよう遺命し、州人は追思してやまなかった。明帝が即位した後、司馬朗(しばろう)の子の司馬遺を昌武亭侯に追封し、食邑百戸とした。司馬朗(しばろう)の弟の司馬孚(しばふ)はまたその子の司馬望(しばぼう)を以て司馬朗(しばろう)を継嗣させた。司馬遺が亡くなった後、司馬望(しばぼう)の子の司馬洪が継嗣した。

演義(In the Novel)

『三国演義』において、司馬朗(しばろう)の筆墨は極めて少なく、ただ第三十九回で一度言及されるのみである。小説はその生涯の事跡について詳細な描写や文学的加工を行っておらず、基本的には史料に記載された彼の幼年の聡慧、董卓(とう たく)への諫め、黎陽(れいよう)への避乱、政を施すことの寛恵、治国の方略への見解など、多くの細部を隠している。したがって、『三国演義』において、司馬朗(しばろう)の人物像はその弟の司馬懿(しばい)ほど鮮明で重要ではなく、その性格的特徴と重要な関係も十分に示されていない。小説の彼の造形は、ただ一族の成員という身分に限られ、彼が政治家であり儒者である輝かしい一面を深く刻むことはなかった。『三国演義』の司馬朗(しばろう)の描写は史伝に比べて、極度に簡略化されており、史料における豊かな個人的特質と歴史的貢献は小説においてほとんど完全に無視されていると言える。

重要な関係

* 司馬防(kin_of):司馬朗(しばろう)の父で、彼に言葉と身をもって教え、影響は深遠であった。司馬防は家を治めるのに厳謹で、司馬朗(しばろう)ら八人の才俊を育て、父子の間は粛穆として賓のごとくであった。
* 董卓(とう たく)(witnesses):司馬朗(しばろう)はかつて董卓(とう たく)に召見され、彼に時局を陳述し、彼に「往事を監観し、少しく三思を加えよ」と勧め、その人に過ぎた胆識と遠見を示した。
* 李邵(りしょう)(advises_in):司馬朗(しばろう)はかつて故冀州(きしゅう)刺史の李邵(りしょう)に転居しないよう勧め、温県と野王が唇歯相依の関係にあり、遷徙すれば民心を動揺させると指摘した。李邵(りしょう)は従わなかったものの、事後に司馬朗(しばろう)の判断が正しかったことが証明された。
* 趙咨(ちょうし)(friend_of):董卓(とう たく)の乱の後、司馬朗(しばろう)は郷人に東のかた黎陽(れいよう)に遷って禍を避けるよう勧めたが、ただ同県の趙咨(ちょうし)のみが家属を携えて彼と同行した。二人の交情が浅からぬことがうかがえる。
* 曹操(そうそう)(serves_under):司馬朗(しばろう)は曹操(そうそう)に辟されて司空掾属となり、後に成皋令、堂陽長、元城令、丞相主簿、兗州(えんしゅう)刺史などの職を歴任し、曹魏(そうぎ)政権の重要な官員であった。
* 司馬懿(しばい)(kin_of):司馬朗(しばろう)は司馬懿(しばい)の長兄であり、二人はともに司馬防の子である。

象徴的な場面

* 幼年に軽慢する者を駁す:司馬朗(しばろう)は九歳のとき、ある人が直接その父の字を呼んだので、即座に「人の親を慢るは、その親を敬わざる者なり」と指摘し、その早慧と孝道の堅守を示した。
* 智辯で監試官に応える:十二歳のとき、体格が健壮であったため年齢を偽っていると疑われ、司馬朗(しばろう)は「朗の内外、累世長大なり。朗は稚弱なりといえども、高きを仰ぐの風なく、年を損じて以て早成を求むるは、志のなすところに非ざるなり」と応じ、その正直と聡敏を彰した。
* 董卓を諫める:董卓(とう たく)に召見された際、司馬朗(しばろう)は強権を畏れず、巧みに董卓(とう たく)の功徳を讃えつつ、その施政の弊端を指摘し、彼に深思を勧め、その政治的遠見と胆識を示した。
* 黎陽への避乱:董卓(とう たく)の乱の後、司馬朗(しばろう)は洛陽(らくよう)周辺が戦場となることを予見し、郷人に東のかた黎陽(れいよう)に遷って禍を避けるよう力説したが、多くの者は従わなかったものの、事後にその判断の正確さが証明され、時局への洞察力を体現した。
* 政を施すこと寛恵:堂陽長を務めたとき、司馬朗(しばろう)は政を施すこと寛仁で、鞭杖を行わなかったが、かえって民に禁を犯させず、さらには遷民がその恩德に感じて自発的に相助け、その「寛恵」の性格と卓越した治理の能力を体現した。
* 井田の復興と州郡置兵を倡議する:丞相主簿として、司馬朗(しばろう)は井田制の復興と州郡置兵の進言を提示し、完全には施行されなかったものの、その深謀遠慮の治国の方略は、その「遠見」と国家の長治久安への思考を示した。
* 軍中で疫に染まり殉職する:征呉の途中、軍中で大疫が爆発し、司馬朗(しばろう)は親しく巡視し、医薬を施し発したが、最終的に病に染まって亡くなり、臨終してもなお簡朴な斂葬を遺命し、その「躬親」、「倹朴」と国のために忠を尽くす精神を体現した。

人間関係

8 件の関係

名言

全 6 件の台詞 · 厳選 3 件

「慢人親者,不敬其親者也。」

史 第15回

この一言は孝道の核心を明らかにし、他人の親を敬うことの重要性を強調している。

「脣齒之喻,豈唯虞、虢,溫與野王即是也;今去彼而居此,是爲避朝亡之期耳。且君,國人之望也,今寇未至而先徙,帶山之縣必駭,是摇動民之心而開姦宄之原也,竊爲郡内憂之。」

史 第15回

この一言は「唇歯相依(唇と歯が互いに寄り添う)」の比喩をもって、司馬朗(しばろう)の戦略的視野と民心の重視を示している。

「伊、颜之徒雖非圣人,使得數世相承,太平可致」

史 第15回

この一言は聖賢が世を治めることへの司馬朗(しばろう)の憧れを表し、その政治的抱負を体現している。

登場回4 回 ▸
  • 史ch.12ch.15ch.28
  • 演ch.39
関係の年表4 条 ▸

史 ch.15

内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
  • 私は司馬朗(しばろう)、字は伯達(Hakutatsu)、河内の温(On)の人である。今、軍中には疫病が蔓延している。私は軍を監督するよう命じられているが、できるのは自ら巡察し、医師や薬を探し、将兵を救護することだけだ。彼らが病に苦しむのを見