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孫権集団 · 選曹尚書

陸瑁

字 子璋 · –239

陸瑁の肖像
他の人物と同じ場面に →

陸瑁(りくぼう)は、篤義で施しを好み、孫権の公孫淵親征を二度諫めたことで知られる。

正史 『三国志』2巻に登場 · 『演義』に登場せず

出典

原典に陸瑁が登場する箇所

  • 正史 · 巻 52『三国志』

    承字子直,嘉禾中與舅陸瑁俱以禮征。權賜丞相雍書曰:「貴孫子直,令問休休,至與相見,過於所聞,爲君嘉之。」…
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    承字子直,嘉禾中與舅陸瑁俱以禮征。權賜丞相雍書曰:「貴孫子直,令問休休,至與相見,過於所聞,爲君嘉之。」拜騎都尉,領羽林兵。後爲呉郡西部都尉,與諸葛恪等共平山越,別得精兵八千人,還屯軍章阬,拜昭義中郎將,入爲侍中。芍陂之役,拜奮威將軍,出領京下督。數年,與兄譚,張休等懼徙交州,年三十七卒。

  • 正史 · 巻 57『三国志』

    陸瑁字子璋,丞相遜弟也。少好學篤義。陳國陳融、陳留濮陽逸、沛郡蔣纂、廣陵袁迪等,皆單貧有志。…
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    陸瑁字子璋,丞相遜弟也。少好學篤義。陳國陳融、陳留濮陽逸、沛郡蔣纂、廣陵袁迪等,皆單貧有志。就瑁游處,〈迪孙晔,字思光,作《献帝春秋》,云迪与张纮等俱过江,迪父绥为太傅掾,张超之讨董卓,以绥领广陵事。〉瑁割少分甘,與同豐約。及同郡徐原,爰居會稽,素不相識,臨死遺書,托以孤弱,瑁為起立墳墓,收導其子,又瑁從父績早亡,二男一女,皆數歲以還,瑁迎攝養,至長乃別。州郡辟舉,皆不就。時尚書暨艷盛明臧否,差斷三署。頗揚人暗昧之失,以顯其謫。瑁與書曰:"夫聖人嘉善矜愚,忘過記功,以成美化。加今王業始建,將一大統,此乃漢高棄瑕錄用之時也,若令善惡異流,貴汝穎月旦之評,誠可以厲俗明教,然恐未易行也。宜遠模仲尼之泛愛,中則郭泰之弘濟,近有益於大道也。"艷不能行,卒以致敗。

  • 正史 · 巻 57『三国志』

    臣聞聖王之御遠夷,羈縻而已,不常保有,故古者制地,謂之荒服,言慌惚無常,不可保也。…
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    臣聞聖王之御遠夷,羈縻而已,不常保有,故古者制地,謂之荒服,言慌惚無常,不可保也。今淵東夷小丑,屏在海隅,雖托人面,與禽獸無異。國家所為不愛貨寶遠以加之者,非嘉其德義也,誠欲誘納愚弄,以規其馬耳。淵之驕黠,恃遠負命,此乃荒貊常態,豈足深怪?昔漢諸帝亦嘗銳意以事外夷,馳使散貨,充滿西域,雖時有恭從,然其使人見害,財貨並沒,不可勝數。今陛下不忍悁悁之忿,欲越巨海,身踐其土,群臣愚議,竊謂不安。何者?北寇與國,壤地連接,苟有間隙,應機而至。夫所以越海求馬,曲意於淵者,為赴目前之急,除腹心之疾也;而更棄本追末,捐近治遠,忿以改規,激以動眾,斯乃猾虜所願聞,非大吳之至計也。又兵家之術,以功役相疲,勞逸相待,得失之間,所覺輒多。且沓渚去淵,道裡尚遠,今到其岸,兵勢三分,使強者進取,次當守船,又次運糧,行人雖多,難得悉用。加以單步負糧,經遠深入,賊地多馬,邀截無常。若淵狙詐,與北未絕,動眾之日,唇齒相濟。若實孑然無所憑賴,其畏怖遠迸,或難卒滅。使天誅稽於朔野,山虜承間而起,恐非萬安之長慮也。

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史書の記録(Historical Record)

陸瑁(りくぼう)、字は子璋(ししょう)。呉の丞相、陸遜(りくそん)の弟である。史書によれば、若い頃から学問を好み、義理を重んじて実践した。陳融(ちんゆう)、濮陽逸(ぼくよういつ)、蔣纂(しょうさん)、袁迪(えんてき)ら、家が貧しく志を抱く者たちが彼と交遊すると、食べ物を分け合い、苦楽を共にした。同郡の徐原(じょげん)は臨終の際、幼い子どもたちを託した。陸瑁はそのために墓を造り、子どもを引き取って世話をした。また、従兄の陸績(りくせき)は早くに亡くなり、息子二人と娘一人を残したが、幼いうちは陸瑁が迎えて養育し、成長してから初めて別居させた。州や郡から召し出され、推挙されても、いずれも応じなかった。史書はこれらの逸話を通じて、善行を好み施しを惜しまず、信義を重んじる彼の一面を伝えている。

当時、尚書の暨豔(きえん)は人物を厳しく評定し、官署の人材を選別するとともに、他人の隠れた過失をしばしば暴き立てていた。陸瑁は手紙を送り、人物評には孔子の博愛や郭泰(かくたい)の広く人を救う姿勢を手本とし、善悪を一方的に分け、欠点をあげつらうことばかりすべきではないと諫めた。王業が始まったばかりで、人心を一つにする必要がある時には、寛大に人と接し、功績を記憶して過失を忘れるべきだと述べた。暨豔はその意見を受け入れず、後に結局そのために身を滅ぼした。嘉禾元年、陸瑁は公車による召し出しを受け、議郎、選曹尚書に任じられた。

公孫淵(こうそんえん)がたびたび偽りを重ねたため、孫権(そん けん)は自ら出征しようとした。陸瑁は二度にわたって上疏し、諫めた。公孫淵は海の果てに位置し、遠征路は長い。海を渡った後も兵を分けて戦い、船を守り、兵糧を運ばねばならず、敵地深くに入れば迎撃されやすい。また、北方の敵対勢力が隙に乗じて動いたり、山越が機に乗じて蜂起したりすれば、呉は近くを捨てて遠くを求め、軍を疲弊させることになると説いた。さらに、漢の文帝が尉佗(いた)への遠征を軽々しく行わなかった例を挙げ、当時は天下がまだ安定していないのだから、根本を固め、軍を休ませ、情勢が有利になってから改めて行動すべきだと指摘した。孫権は奏文を再読し、その言葉と論拠が的確だと称賛し、結局出征しなかった。

陸瑁は、同郡の聞人敏(ぶんじんびん)が国内で受ける礼遇は宗脩(そうしゅう)を上回るほどで、妥当ではないと判断した。後に事態はまさに彼の言ったとおりになった。赤烏二年、陸瑁は亡くなった。その子の陸喜も文献に通じ、孫皓(そん こう)の時代に選曹尚書に任じられた。

演義での描写(In the Novel)

提示された演義の資料には陸瑁に関する物語上の展開がないため、小説での登場や言動、人物造形について述べることはできない。ここでは、演義にこの人物が描かれていないことのみを記す。

主要な関係

陸遜は陸瑁の兄であり、陸瑁は顧承(こしょう)の叔父にあたる。顧承と陸瑁はともに嘉禾年間に召し出された。この親族関係は史書に記されている。陸瑁と暨豔の関係は、単なる政務上の付き合いではない。陸瑁は手紙で暨豔に寛大に人と接するよう諫めており、人物評のあり方に異議を唱えていたことがうかがえる。君臣関係において、議郎、選曹尚書を務めた陸瑁は、孫権が公孫淵への親征を企てた際、あえて続けて上疏し、危険性を説いた。孫権は最終的にその諫言を受け入れ、出征しなかった。陸喜は陸瑁の子であり、史書によれば文献にも通じ、孫皓の時代に選曹尚書に任じられた。

代表的な場面

陸瑁の政治的判断力が最もよく表れているのは、孫権の公孫淵親征に二度反対した場面である。一度目は、敵味方の情勢と海を渡る遠征の現実的な困難から論じた。長い道のりで兵を分ければ戦力が弱まり、兵糧の輸送や船の守備に兵員を取られ、敵軍に地の利を利用して迎撃されるおそれがある。さらに、呉軍が外征している隙に、北方の国境での問題や山越の動乱が起きる可能性もあると述べた。二度目は、国家の軍事行動の優先順位に論点を移し、天下がまだ定まらないうちは人力を惜しみ、軍を休ませるべきであり、近くを捨てて遠くを求めるべきではないと主張した。孫権は奏疏を読み返した後、その言葉と論理が切実であると称賛し、征伐を取りやめた。この出来事は、陸瑁の慎重で現実的な判断力を示すとともに、明確な論拠をもって君主の決定の誤りを率直に指摘できたことを物語る。

彼の処世の原則をうかがわせるもう一つの場面は、暨豔に対し、厳しい人物評によって他人の過失をことさらに明らかにすべきではないと諫めたことである。孔子の博愛と郭泰の人を救う姿勢に学び、寛大さによって風俗を良くすべきだと主張した。長年にわたって貧しい友人を支え、託された孤児を養育した彼の行いは、この諫言と響き合っている。

人間関係

9 件の関係

陸瑁 の人物関係図陸喜陸遜濮陽逸蔣纂袁迪陳融孫権暨豔聞人敏陸瑁
  • 親族
  • 友人
  • その他
扇形は関係の種類ごとの区分。内側の環は最も関わりの深い 9 人。ノードにホバーまたはフォーカスすると詳細を表示

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陸遜

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陸遜

兄弟姉妹

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正史 · 巻 57

  • 陸遜§52

    兄弟姉妹

    丞相の遜の弟

  • 暨豔§52

    進言

    暨豔が人物の善悪を盛んに明らかにしたため、瑁は書状を送り、仲尼の博愛と郭泰の広い救済に倣うよう勧めた

  • 孫権§53

    進言

    二度上疏して孫権が自ら公孫淵を征討するのを諫めて思いとどまらせた。権は再読してその言葉と論旨が真摯で切実であると評価し、ついに出征しなかった

  • 陸喜§60

    子

    第二子。孫皓の時代に選曹尚書となる